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無用の贅肉は不壊の鎧へ

 「よし、今日からバファロー、お前の修行を開始する。まずは、これからお前に伝授する『相撲』と『プロレス』、その一端を見せてやろう」

 修羅道場の裏手にある、巨石の転がる荒れ地。春人は、新入りである猪の獣人バファロー・ビッグスを前にそう告げた。すでに全身泥まみれで息を切らせているフランソワとオリバー、そして妖精のポルが、息を呑んで見守っている。

 春人は無造作に、歩測で十歩ほど先にある、大人が三人で抱え込んでも足りないほどの巨大な岩塊の前に立った。

 「相撲とは、己の肉体を城塞と化し、一切の武器を持たず、ただ己の質量と練り上げた力のみで敵を圧倒する武術だ」

 春人が腰を深く落とし、身構える。その瞬間、空気が物理的な圧力を伴って膨れ上がったかのような錯覚をバファロー達は覚えた。

 「はあっ!」

 短い呼気と共に、春人の巨躯が弾丸のように踏み出された。一歩、足が地面を捉えた瞬間、大地が地震のように激しく揺れる。

 春人の右手が、岩塊の表面に凄まじい速度で叩きつけられた。――『突っ張り』。

 ドバァァァン!! と、およそ生身の人間が出していいとは思えない爆破音が鼓膜を震わせる。次の瞬間、重さ数トンはあろうかという巨石が、まるで蹴り飛ばされた小石のように軽々と宙を舞い、遥か遠方の林へと吹き飛んで木々をなぎ倒した。

 「ひっ……ええええ!?」

 バファローの口から情けない悲鳴が漏れる。

 「そしてプロレスとは、敵の攻撃をすべて受け止め、その上で観る者の心を震わせて勝利する不屈の武術。……おい、オリバー。あれを私に投げろ」

 春人が指差したのは、修行用に置かれていた重さ数百キロはある鉄製の巨大な車輪だった。

 「はい、師匠!」

 オリバーが太極拳の勁力を使い、地を滑るようにしてその鉄車輪を春人へ向けて全力でぶん投げた。猛烈な勢いで回転しながら迫る鉄の塊。

 しかし、春人は避けない。それどころか、両腕を広げて真っ正面から迎え撃った。

 ガギィィィン!!

 火花が散り、強烈な金属音が響く。鉄の車輪は春人の分厚い胸板に激突し、そのままへし折れて地面に転がった。春人の肉体には傷一つない。

 「たくさん食べるお前の身体には、これらを体現するための最高の素質がある。お前をただの無駄飯食らいでは終わらせない。――さあ、死ぬ気でついてこい」

 「は、はい……っ!!」

 バファローは恐怖に震えながらも、同時に身体の奥底から湧き上がる熱い衝動を抑えきれず、大声で返事をした。

 それから始まった修行は、まさに過酷な地獄の連続だった。

 股関節の柔軟性を極限まで高めるための股割り。圧倒的な下半身の筋持久力、強靭な足腰と動的な体幹を養うために春人が指定した重量の岩を担いでのスクワット。両足を大きく開き、ゆっくりと腰を深く下ろして軸足に体重を乗せ、もう片方の足をゆっくり引き上げ力強く地面に踏み下ろす四股。重心を低く保ったまま移動するための摺り足。丸太に向かってひたすらに突っ張りを繰り返す鉄砲。肩関節の柔軟性と背筋を同時に鍛えるための、尻を高く突き上げた状態から地面を這うように顎と胸を落として上体を大きく反らせて元の位置に戻すを繰り返すインド式腕立て伏せ。あらゆる技の衝撃から脳と頸椎を守るため、仰向けから体を反らせて足と首だけで体重を支えるブリッジ。

 そしてフランソワとオリバーによる容赦のない実戦形式の組み手。春人とのぶつかり稽古。二本の麻で作られたロープを張り、背中をぶつけて何度も間を往復する。前後左右、あらゆる角度から投げられても衝撃を逃がすための受け身。バファローの丸々とした巨体は、あっという間に打撲と擦り傷でボロボロになり、悲鳴を上げる。

 だが、その度に妖精ポルの放つ治癒魔法が、彼の肉体を瞬時に、強制的に全快させた。

 「ほら、お代わりいくわよ! ハルトのしごきを無駄にしたら承知しないんだから!」

 ポルの容赦ない叱咤により、バファローは「壊れては治され、またしごかれる」という修羅の無限ループへと叩き落とされたのだった。

 ぐったりと地面に倒れ伏すバファローの鼻腔を、不意に、えも言われぬ芳醇な香りがくすぐった。

 「よし、今日の修行はここまでだ。全員、飯にするぞ」

 春人が道場の庭に設営した巨大な大鍋の蓋を開けると、もうもうとした湯気と共に、暴力的なまでに美味そうな匂いが広がった。

 それは、春人がこの異世界の食材――魔獣の骨から出汁を取り、新鮮な野菜と、大盛りの肉団子をじっくりと煮込んで作った特製の『ちゃんこ鍋』だった。

 「うわあぁ……!」

 バファローの大きな腹が、盛大に鳴り響く。

 「遠慮するな。道場に来たからには、全員が同じ鍋を囲む家族だ。バファロー、お前は特にたくさん食え」

 春人から山盛りに盛られた器を渡され、バファローは恐る恐るスープを口に運んだ。

 「……っ! 美味い、美味いです……っ!」

 濃厚な旨味が五臓六腑に染み渡り、過酷な修行で疲弊した細胞が歓喜に沸くのが分かった。バファローは涙目を拭いながら、夢中でちゃんこを頬張った。

 「ふふ、良い食べっぷりじゃない。見ているこっちまで気持ちいいわ」

 フランソワが、蛇拳の修行で泥に汚れた手で器用に箸を使いながら、ふっと柔らかく微笑んだ。

 「バファローさん、最初はみんなあんな感じだから気にしなくていいですよ。師匠の飯をたくさん食べれば、すぐに身体が変わってきます」

 オリバーも、小さくて丸い耳を揺らしながら、親しみを込めて声をかけてくれる。

 実家では「無駄飯食らい」と罵られ、食べる姿すら嫌悪されていた自分が、ここでは「たくさん食べること」を肯定され、笑い合えている。バファローの胸は、ちゃんこ鍋の熱さとは別の温かさで満たされていった。

 数日後。バファローは、春人から命じられた屋外での摺り足の最中、どうしても足が向いてしまい、実家である宿屋兼酒場の前に佇んでいた。

 中から、皿が割れる激しい音と、客たちの悲鳴が聞こえてきたのはその時だった。

 「おいコラァ! なんだこの酒は! 水で薄めてやがんのかオイ!」

 扉を押し開けてバファローが店内に飛び込むと、そこは惨状が広がっていた。

 身の丈二メートルはあろうかという、完全に酔っぱらった巨漢の冒険者が、大鎚を振り回して暴れていた。バファローの父親はカウンターの奥で腰を抜かし、ガタガタと震えている。

 「ひっ、誰か、誰か助けてくれ……っ!」

 父親の悲鳴が聞こえた瞬間、バファローの身体は思考よりも先に動いていた。

 ドスドスと床を鳴らし、暴れる酔っ払いの前に、その巨体を割り込ませる。

 「なんだぁ、お前は!? どけ、このデブがぁ!」

 激昂した酔っ払いが、大鎚を振り抜き、バファローの顔面へ向けて強烈な一撃を叩き込んだ。

 (――避けちゃダメだ。師匠の言った『プロレス』は、全部受け止める不屈の武術だ!)

 バファローは、春人の実演を脳裏に蘇らせ、あえて防御の構えすら取らなかった。ただ両足を肩幅に開き、腰を落とし、すべての脂肪と筋肉を緊張させて、その一撃を『正面から受ける』覚悟を決めた。

 ドガァァァン!!

 鈍い衝撃音が店内に響き渡る。酔っ払いの大鎚が、バファローの頬にめり込んだ。

 並の人間なら首の骨が折れて吹き飛ぶ一撃。しかし――バファローの巨体は、一歩も後ろへ下がらなかった。

 「……あ?」

 酔っ払いが目を丸くする。

 バファローは、ただじっと耐えていた。春人の地獄のシゴキと、ポルの治癒魔法によって、彼の皮膚の下には、数日前とは比べ物にならないほど強固な「肉の防壁」が形成されつつあったのだ。

 「な、舐めるなぉぁぁ!」

 焦った酔っ払いが、今度は腹へ、胸へと、怒涛のラッシュを叩き込む。

 ドカッ! バキッ! ズシン!

 凄まじい打撃音が何度も響く。しかし、バファローは一切の防御をせず、ただ無言で、岩のようにその場に立ち尽くし、すべての攻撃を真っ正面から受け続けた。

 三分、五分……やがて、十分が経過した。

 「はぁ、はぁ……な、なんなんだよ、お前は……化け物か……っ!?」

 あれだけ荒れ狂っていた巨漢の酔っ払いは、全身から滝のような汗を流し、自分の大鎚を持つ手をボロボロに腫らしながら、完全に疲弊しきってその場にへたり込んだ。バファローに与えたダメージよりも、バファローの肉体の硬さに自分自身が撃沈したのだ。

 静まり返る店内。やがて、息を呑んで事の顛末を見守っていた客たちや、床にへたり込んでいた父親の口から、割れんばかりの驚愕の声が湧き上がった。

 「おい……あの無駄飯食らいのバファローが、一歩も動かずにあの巨漢を倒しちまったぞ……!?」

 「防具も無しに、全部素肌で受け切ったぞ!? なんだあの身体は!」

 割れんばかりの歓声の中、バファローは静かに自分の拳を握りしめ、胸の奥で、自分を信じてくれた師匠の名を、熱く叫んでいた。

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