巨猪の煩悶懊悩
「おいおい、まだ食ってるぞあいつ! 宿の手伝いもまともにできねえくせによぉ!」
「本当だな! 身体ばかりデカくなりやがって、中身はただの臆病者の無駄飯食らいだ!」
昼時の活気に沸く宿屋兼酒場。その片隅で、巨体を縮こまらせて山盛りの麦飯を口に運んでいた猪の獣人の青年、バファロー・ビッグスは、飛んでくる罵声に耳を塞ぎたかった。
声を荒らげているのは、あろうことか実の父親であり、この宿の店主だ。周囲の冒険者や常連客たちも、一緒になってゲラゲラと下品な笑い声を上げている。
「おい、バファロー! お前に食わせる飯はこれ以上ねえ! そこらの店で荷物持ちでもやって、少しは自分の食い扶持を稼いできやがれ!」
父親のその言葉が決定打だった。
バファローの大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。周囲の嘲笑が、バファローの心にまるで鋭い刃物のように突き刺さる。彼はたまらず、残った飯を飲み込むと、巨体を揺らして店を飛び出した。
居た堪れなかった。自分だって、誰かの役に立ちたかった。だが、いくら食べても筋肉ではなくただの脂肪になるばかり。力仕事は巨体を動かすのに体力を使いすぎて長続きせず、かと言って複雑な計算ができる頭もない、そんな己の無能さが、悲しくて仕方がなかった。
――その時だった。
「おっと」
涙で前が見えなくなっていたバファローは、宿屋の入り口の扉を開けた途端、入ってこようとした誰かと正面衝突した。
バファローの身体は、猪の獣人ゆえに並の人間よりも遥かに重く、頑丈だ。並の人間相手なら、相手を吹き飛ばしてしまうところだった。
しかし、現実は真逆だった。
「ど、うわぁっ!?」
まるで、聳え立つ鋼鉄で出来た城壁にぶつかったかのような衝撃。バファローの丸々とした巨体は、一瞬にして宙に浮き、そのまま後ろへと派手にひっくり返った。ズシン、と激しい音を立てて床に尻もちを搗く。
「す、すみません……っ!」
自分がよそ見をしていたのが悪い。バファローは慌てて頭を下げようとした。相手が気の荒い冒険者なら、これだけで殴り飛ばされてもおかしくない。
だが、降ってきたのは穏やかで、しかし芯の通った低い声だった。
「いや、私も前をよく見ていなかった。怪我はないか?」
見上げると、そこには黒髪の男が立っていた。白い動きやすそうな衣服を身に纏い、その佇まいは岩のように微動だにしない。陣春人――その人である。
「ちょっとっ! いきなりぶつかってくるなんて、どういうつもりっ!」
「ポル、彼がわざとではないことぐらい、顔を見ればわかるでしょ?」
「師匠、大丈夫ですか?」
春人の背後からは、小さな羽をパタパタと輝かせる妖精のポル、エルフのフランソワ、そしてホビットと鼠の獣人のハーフであるオリバーが顔を覗かせていた。どうやら、この宿屋に食事を摂りに来たらしい。
「ほら、立てるか?」
春人は気にする風でもなく、バファローに向かって無造作に右手を差し伸べた。
バファローは恐る恐るその手を握る。男の、しかし自分の巨体を起こせるはずがない――そう思った瞬間だった。
グイッ、と信じられないほどの力で身体が引き上げられた。
春人は息一つ乱さず、まるで羽毛でも持ち上げるかのように、片手だけでバファローの巨体を軽々と助け起こしたのだ。
「え……?」
バファローが呆然と立ち尽くす中、宿屋の中がにわかにザワつき始めた。
「おい、見ろよ……あの黒髪の男……」
「まさか、最近噂の『修羅道場』の主、ハルト・ジンか!?」
「魔法も武器も無しで、素手だけで大型の魔物に風穴を開けたっていう、あの化け物かよ!」
「あのデカい獣人を片手で……噂は本当なのか?」
周囲の客たちが、畏怖の混じった視線で春人を見つめ、ひそひそと囁き合う。
修羅道場。その噂はバファローの耳にも届いていた。どんな者でも受け入れ、弟子になれば、素手で鉄の盾を破壊し、巨漢を木の葉のように投げ飛ばせるになれるという。
(片手で、僕を……。この人なら、この圧倒的な強さを持った人なら……)
バファローの胸の奥で、燻っていた感情が爆発した。無駄飯食らいと罵られ、誰からも期待されず、ただ泥のように生きていくのはもう嫌だ。自分だって、変わりたい。
「あ、あのっ!」
バファローは春人の前に回り込み、床に両膝と両手を突いて、全力で頭を下げた。
「僕を、あなたの弟子にしてください! 何でもします! どれだけ厳しくても耐えます! だから……僕を強くしてください……っ!」
床に涙がポタポタと落ちる。必死の懇願だった。また笑われるかもしれない、拒絶されるかもしれない。恐怖で身体が震える。
しかし、春人はフッと短く笑うと、バファローの太い肩を叩いた。
「いいぞ」
「え……?」
あまりにもあっさりとした二つ返事に、バファローは間抜けな声を上げて顔を上げた。
「飯をたくさん食えるのは、それだけで才能だ。強くなるための素質は十分にある。ついてこい。お前を『動く肉の城塞』に鍛え上げてやる」
春人の力強い言葉に、バファローは目を見開いた。その背後で、弟子であるフランソワとオリバーが憐れみ半分、歓迎の気持ち半分の複雑な表情を浮かべていることには、まだ気づいていなかった。




