極小の太極
入門の翌日、オリバー・ポッターが案内されたのは、いつもの板の間ではなく、道場の裏手に広がる鬱蒼とした林だった。
「オリバー。お前に力は必要ない。相手が強い力、剛で攻めてきた時、無理に受け止めるのではなく、あえて柔らかく受け流して無力化する柔で対応する。それがお前に伝授する『太極拳』、そして『合気道』の極意だ」
「剛を柔で……?」
細い腕を見つめ、オリバーはおずおずと呟いた。
そんな二人の会話に割って入るように、一人の男が林の奥から姿を現す。
冒険者ギルドの食堂で飲んだくれていた所を金を積んで雇った、熊の獣人の屈強な元冒険者だ。春人があえて用意した実演のための「壁」だった。
「おいおい、そんなチビネズミに何が教えられるってんだ? ハルトさんよ、あんたがどれだけ強くても、こいつの細腕じゃ俺のゲンコツ一つ止められねえぜ」
大斧を肩に担いだ熊の獣人が、下卑た笑みを浮かべて春人に迫る。春人は平然と、ただ自然体でその場に立った。
「それはこれから分かる。では、依頼した通りに頼む。全力で構わん、俺を組み伏せてみろ」
「へっ、怪我しても知らねえぞ!」
獣人が大斧を投げ捨て、丸太のような両腕を広げて春人に猛然と突進する。まともに衝突すれば、小柄なオリバーであれば骨ごと粉砕される恐怖の質量。
例え春人であっても、無事では済まないとオリバーは思った。
だが、春人は微動だにしなかった。
激突の直前、春人はほんのわずかに身体を捻り、突進の軌道をずらす。そして、獣人の剛腕が春人の白い道着に触れた瞬間――。
春人は力をぶつけずに、逆に獣人の突進の勢いに合わせるように、自らの身体を滑らかな「円」の軌道で回転させた。
――合気道。
「うおっ!?」
獣人は、自分が何を押しているのか分からなくなった。大木にぶつかったはずが、底なしの泥沼に足を踏み入れたかのように、自らの突進の力がそのまま自身の重心を奈落へと引っ張り込む。
春人がその太い手首をほんの少し「撫でる」ように誘導しただけで、ニメートルを超える獣人の巨躯が、まるで木の葉のように宙を舞った。
ズドォォォォンッ!!!
背中から地面に激しく叩きつけられ、衝撃で林の枝が激しく揺れて葉が舞い散る。獣人は息を詰まらせ、白目を剥いて悶絶した。力と力をぶつけない、完全なる「技」の体現。
「武器を持たぬということは、敵の武器、敵の力そのものを己の刃にするということだ。よく見ておけ、オリバー。これが、これからお前が至る領域だ」
「……っ!」
オリバーの目が、歓喜と衝撃で激しく見開かれた。非力なハーフである自分が、巨大な強者を圧倒するための唯一の正解が、そこにあった。
しかし、理屈を理解することと、それを肉体に染み込ませることは全く別問題だった。
直後から始まった修行は、まさに「地獄」そのもの。
「まだ円が硬い。相手の呼吸をよく観察して読み切れ。力を完全に抜け。脱力こそが最大の防御であり、攻撃だ」
春人の容赦のない投げによる受け身と脱力の指導が続く。オリバーは一日に何百回、何千回と板の間に叩きつけられた。正確なタイミングでの受け身と脱力ができなければ、地面からの衝撃をまともに喰らい、全身の骨が砕けそうになる。
さらに、站椿による静止した状態での自然な腹式呼吸による下半身と体幹の鍛錬を行い。
套路と呼ばれる様々な一連の決まった型をスローモーションで繰り返し、肉体の動作と呼吸、意識を一つに統合されるまで反復する。
腕の力ではなく、足腰の動きと体重移動によって相手の攻撃線を外し、自身の体軸を崩さずに移動するための歩法を床が擦り減るまで続ける。
半日も経てば、オリバーの身体は打撲と生傷でボロボロになり、呼吸をすることすら苦しい状態に追い込まれた。
「ひゃああ! ハルト、オリバーまでボロ雑巾にしちゃって! 私の治癒魔法がいくらあっても足りないよぉ!」
妖精のポルが涙目で緑の光を降らせ、オリバーの傷を癒していく。壊しては直し、壊しては直す狂気のサイクル。
そんな過酷な日々の合間、オリバーの支えとなったのは、姉弟子であるフランソワ・セルパンの存在だった。
「……諦めないで、オリバー君。師匠の武は、本物だから」
道場の片隅で、自身の手を血に染めながら砂の詰まった麻袋に『蛇拳』の突きを繰り返すエルフの女性。彼女は休憩の際、動けなくなったオリバーの横に静かに腰掛け、水入ったコップを差し出してくれた。
「私も此処に来るまでは、この手を皮肉られて、飾りのように扱われていることにウンザリしていたわ。でも、ここは違う。師匠は私たちの『本質』を見てくれている。あなたのその小柄な身体は、決して呪いなんかじゃない。師匠の技を宿すための、立派な器だわ」
「……フランソワ、先輩……」
同じように理不尽な世界に鬱屈を抱え、それを己の拳でねじ伏せようとする姉弟子の言葉は、オリバーの折れかけた心に、再び熱い炎を灯すのに十分だった。
そして、地獄の鍛錬から数ヶ月が経ったある日。
春人は道場に、あの熊の獣人の元冒険者を再び呼び寄せた。
「オリバー。修行の成果の一端を見せてみろ。あの男を『敵』と思え」
「――はい」
オリバーが静かに歩み出る。
かつての泥水を舐めていた時の怯えは、その瞳から完全に消え去っていた。全身の無駄な力が抜け、柳のように静かな佇まいで獣人の前に立つ。
「へっ、この前は油断しただけだ。お前如きにオレを倒せると思うなよ、チビネズミ!」
獣人が今度は警戒しながらも、凄まじい腕力でオリバーの胸ぐらを掴もうと大きな手を伸ばした。
だが、オリバーは逃げなかった。
獣人の指先が衣服に触れた瞬間、オリバーの小さな身体が、驚異的な柔軟性としなやかさで、ぬるりと円を描いて滑り込んだ。何千回と繰り返してきた淀みない複数の動作が、春人の教えによって完全に連動する。
相手の手首を引っ掛けるようにして、自身の身体の軸を倒す。
――太極拳の化勁。
「なっ……!?」
獣人は、自分の腕が強引に強大な渦潮に巻き込まれたかのような錯覚に陥った。踏ん張ろうとした足元が、自らの腕力によって生じた勢いで完全に浮き上がる。
――ハッ!
オリバーの小さな掌が、獣人の胸元に優しく「置かれた」。
次の瞬間、ドン、と小気味良い破裂音が響き、体重百キログラムを遥かに超える獣人の巨体が、まるで突風に吹き飛ばされたかのように派手に転がっていった。板の上を何度もバウンドし、道場の壁に背中を激しくぶつけてようやく止まる。
「がはっ……!? な、にが……」
獣人は胸を押さえ、信じられないという表情で悶絶した。
オリバーは静かに自身の両手を見つめ、それから、じっと見守っていた春人に向かって、深く頭を下げた。
「見事だ。今、お前の体に柔が芽吹いた」
春人の重厚な言葉に、オリバーの目から、一筋の熱い涙がこぼれ落ちた。
呪いだと蔑んだその小さな五体には今、巨大な敵を屠るための、太極拳と合気道の合理と理合が宿りつつあった。




