白磁の指先、毒牙へと変ずる
入門の翌日から、フランソワ・セルパンにとっての「地獄」が幕を開けた。
「構えろ。指先まで意識を尖らせろ」
板の間に春人の声が冷徹なまでに響く。
彼がフランソワに課した最初の修行は、想像を絶するものだった。ただひたすらに、早朝からの約十キロメートルのジョギングによる基礎体力の向上から始まり、己の身体を鞭のようにしならせる型の反復、指先だけで体を支えて行う腕立て伏せ。そして、砂を敷き詰めた巨大な壺や麻袋に向かって、その美しい指先を何度も、何千回も突き立てる鍛錬――。
フランソワのエルフとしての高いプライドも、しなやかな肉体も、春人の前ではただの「削りがいのある原石」に過ぎなかった。
「はぁっ、はぁっ……!」
半日も経てば、フランソワの白磁のごとき手は赤く腫れ上がり、皮膚が裂けて血が滲んでいた。全身の筋肉は悲鳴を上げ、視界が屈辱と疲労で歪む。
それでも、彼女は唇を噛み締め、決して「やめる」とも「休む」とも言わなかった。あの冒険者たちに『飾りの手』と笑われた過去を、この己の手で粉砕すると決めたのだ。
だが、肉体には明確な限界がある。限界を超えて突っ込めば、才能が開花する前に身体が壊れる。それを見極めるのが、指導者たる春人の役目だった。
「そこまでだ。初日の鍛錬はここまでとする」
春人が声をかけると同時に、フランソワは糸が切れた人形のように板の間の床へ崩れ落ちた。指先は震え、もはや自力で立ち上がることすらできない。
「ハルト、本当にボロ雑巾にしちゃってるじゃないのぉ!」
天井近くでハラハラと見守っていた妖精のポルが、慌てて降下してくる。
春人は首を横に振り、静かに語った。
「武の研鑽において、限界を超える破壊の後は、それと同等以上の『回復』が必要不可欠だ。筋肉と骨は、正しく壊され、正しく修復されることで初めて常人を超越する。すぐに手当を……」
「ちょーっと、待ったーっ!」
突然ポルが春人とフランソワの間に割り込む。
「そういう事なら。ふふん、任せといて! 私の治癒魔法は一級品なんだから!」
ポルが誇らしげに胸を張り、小さな両手をフランソワの手元にかざした。
次の瞬間、道場全体を優しく包み込むような、淡く温かい緑色の光が溢れ出す。
「――『治癒』!」
緑色の光の粒子がフランソワのボロボロになった両手に染み込んでいく。すると、見る見るうちに赤腫れが引き、裂けた皮膚が綺麗に塞がっていった。それどころか、骨の奥に溜まっていた重苦しい疲労感までが、嘘のように霧散していく。
「あ……え……?」
フランソワは信じられない思いで、自身の両手を目の前に掲げた。傷ひとつなく、元の美しい手がそこにある。しかし、皮膚の張りや関節の「馴染み方」が、修行前とは明らかに変わっていた。壊される前よりも、確実に強く、しなやかになっている。
「すごい……痛みが、完全に消えて……」
「成程、これは便利だな。これならば明日も、最初から全力で壊せるな」
春人が不敵に笑う。フランソワは一瞬背筋を凍らせたが、すぐにその顔に不敵な笑みを返した。
それから、地獄のサイクルが始まった。
春人が壊し、フランソワが耐え、ポルが完璧に癒す。
常人なら数年はかかる武の肉体作りを、治癒魔法という異世界の神秘を利用することで、数日、数週間という異常な速度で圧縮していく。
そして一ヶ月が経ったある日。
春人は道場の板の間に、分厚い鉄製の盾を置いた。かつてフランソワを嘲笑った冒険者たちが使っていたような、頑強な前衛用の盾だ。
「フランソワ。修行の成果の一端を見せてみろ。その盾を『敵』と思え」
「――はい」
フランソワが静かに歩み出る。
かつての生ぬるい雰囲気は完全に消え去っていた。彼女の美しい手は、今や恐るべき闘気を纏っている。
スゥ、と息を吸い、自然体から一瞬で『蛇拳』の構えへと移行する。
(私の手は、美しいだけの飾りじゃない……!)
視線が鋭く盾を捉えた瞬間、彼女の身体がしなった。
足腰で生じたエネルギーを背中から肩、そして肘へと伝わらせ、最後に手首から指先へと集中された力が、彼女の指先を毒牙へと変える。
――ガキィィィンッ!!!
凄まじい金属音が道場に響き渡った。
「ぐっ……」
フランソワは指先に走る激痛に苦悶の表情を浮かべる。
しかし、その指先が触れたであろう頑強なはずの鉄製の盾が、彼女の指先が触れた箇所を中心に大きく歪み、裏側もひしゃげている。春人の実演には及ばないまでも、今の彼女には明確に五体を刃とする「武」の片鱗が宿っていた。
「見事だ」
春人の短い称賛の言葉に、フランソワは今度こそ、心からの歪みのない笑顔を浮かべた。その美しい手は今、異世界の常識を打ち破る「牙」へと変わりつつあった。




