第一の門徒、来たる
あの『突角熊』が、武器も持たない人間の男、春人に一撃で肉体に風穴を穿たれた瞬間を、実は遠くから目撃していた者がいた。
新米の冒険者であり、エルフの女性であるフランソワ・セルパンだ。
完成したばかりの『修羅道場』の重厚な門を叩き、板の間に正座する春人の前に平伏した彼女は、狂おしいほどの熱を帯びた声で懇願した。
「頼みます……! 私を、あなたの弟子にしてください!」
春人は腕を組んだまま、静かにそのエルフの女性を見下ろした。
エルフという種族特有の端正な顔立ち。しかし、春人の鋭い眼光が捉えたのは、彼女が仕草の端々で、自身の「手」を隠すように衣服の袖を握りしめている姿だった。
「なぜ、剣や魔法ではなく、俺の武を求める」
春人の問いに、フランソワは唇を噛み締め、悔しさに震える手でゆっくりと自身の両手を差し出した。
それは、まるで白磁の芸術品のように、細く、白く、どこまでも繊細で美しい手だった。
「私は……この手が美しいと、よく周りの冒険者から馬鹿にされるのです」
彼女の脳裏に、つい数日前まで所属していた冒険者パーティの男たちの、下卑た薄笑いが蘇る。
『おいおいフランソワ、お前そんな綺麗な手じゃ剣の柄を握っただけでマメができるぜ?』
『傷ひとつつかない後方がお似合いだ。お高くとまったエルフ様なんだから、俺たちの後ろでぬくぬく守られてなよ』
『飾りにしとくにはもったいない美手だがな。まあ、血生臭い前線はお前には向いてねえよ』
誰も、彼女自身の努力も、秘めた熱意も見ようとはしなかった。ただ「美しいだけのエルフの女」として記号のように扱われ、前線から遠ざけられる日々に、彼女の心は限界を迎えていた。
「誰も私の本質を見ようとしない。ただの飾りのように扱われる日々に、私は耐えられなかった。あの日、あなたの『拳』を見たとき、魂が震えたのです。武器に頼らず、この五体そのものを最強の武器に変える武があるのだと知りました。私は、この美しいだけの生ぬい手を、魔物の血で染めてでも強くなりたい……!」
その言葉に嘘偽りはない、と春人はすぐに感じ取った。そして一瞥しただけでも解る。差し出された彼女の手の骨格、しなやかな関節の柔軟性は、むしろある種の拳法において至高の才能を秘めていると。
春人はわずかに口元を緩めて頷いた。
「いいだろう。お前の入門を認める。お前は、この修羅道場の弟子第一号だ」
「あ、ありがとうございます……!」
「ただし、俺の修行は地獄だぞ。ボロ雑巾になる覚悟をしておけ」
「ええっ!? 入門したてなのに、もうボロ雑巾になる前提なのぉ!?」
肩の上のポルが慌てて羽ばたく中、春人はゆっくりと立ち上がり、板の間の中心へと歩を進めた。
「フランソワ。お前自身は気づいていない様だが、お前のその手のしなやかさ、関節の柔らかさには、ある特有の格闘技が向いている。これからお前に伝授する技の威力を……まずはその目に焼き付けろ」
春人は道場の奥から、修繕の際に余った、大人が三人かかっても動かせないほどの巨大なニ本の丸太を引きずり出してきた。それを板の間に垂直に立てる。
「よく見ておけ」
春人は丸太の前に立ち、両腕をダラリと力なく垂れ下げ、腰を深く沈み込ませる。胸部は不自然な程に丸められ、凹んでいるかの様だ。
次の瞬間、春人の右腕が消えた。
――通背拳。
一瞬で弛緩しきった肩から指先へと背中から遠心力、波勁を伝え、鞭、いや、大蛇のように腕をしならせて放つ、数メートル腕が伸びた様に錯覚する程の打撃。
バシィィィンッ!!!
鼓膜を劈くような硬質な破裂音が道場内に炸裂した。春人の掌が丸太の表面を叩いたのだ。一見すると、ただ激しく叩きつけただけのようにも見えた。
しかし、直後。
メキメキメキ、と不気味な音が響き、巨大な丸太の「裏側」の木皮が、爆発したかのように激しく吹き飛んだ。衝撃が丸太の内部を透過し、芯を完全に破壊したのだ。
「なっ……!?」
フランソワが息を呑む、春人は実演を続ける。
間髪入れず、春人はもう一本の丸太に向かい、両脚を肩幅より大きく開き、膝を深く曲げて腰を落とす。右手の人差し指と中指を真っ直ぐ伸ばしてくっつけ、残りの指は軽く曲げ、拳を固めずに平らな形を保つ。つまり、右手を蛇の頭を模した形へと変える。
――蛇拳。
狙うは一点。恐るべき速度と、予測不能な軌道から放たれる、肉体を貫く大蛇の牙の如き拳。
シュオッ! と空気を引き裂く鋭い風切り音と共に、春人の指先が、丸太へと突き出された。
ブス、と、まるで極薄の紙にでも指を突き立てるかのように、春人の手は分厚い丸太の一点を完全に貫通した。
「武器を持たぬということは、お前の五体すべてが刃になるということだ」
春人が静かに手を引き抜くと、丸太には綺麗な円形の穴がぽっかりと空いていた。
「ひゃーっ! すっごい!」
感嘆の声を上げるポルの横で、フランソワはこれが、これから自分が歩む、恐ろしくも至高の輝きを放つ武の道なのだと確信した。
フランソワは恐怖に身体を震わせながらも、その美しい瞳には、決して消えることのない歓喜、期待、覚悟、情熱が渦巻く炎が灯っていた。




