過去の萎縮は未来への跳躍の為に
「よし、ミゲル。今日からお前の修行を開始する。まずは、お前に伝授する『カポエイラ』の技の一端を見せてやろう」
翌朝、朝露の降りる修羅道場の裏庭。陣春人は、新入りであるミゲル・サンティエゴを連れ出し、一本の太い巻藁の前に立った。
カポエイラ――それは歌い、踊るようにして戦う異色の格闘技。奴隷たちが武器を取り上げられた極限状態で、己の五体、特に「脚」を最強の槍や鎌へと変えるために生み出した、不屈にして反骨の武術。
「カポエイラは、常にステップを止めない。これを『ジンガ』と呼ぶ。重心を低く保ち、大地を揺らし、敵の狙いを幻惑する。……よく見ておけ」
春人がゆったりとリズムを刻むように動き出した。両手を滑らかに動かし、ステップを踏む。その佇まいは踊っているかのように優美だが、まとわりつくプレッシャーは尋常ではない。
――次の瞬間、春人の身体が逆さまにひっくり返った。
地面に両手を突き、逆立ちの姿勢になったかと思うと、その分厚い両脚が凄まじい遠心力を伴って旋回する。
ドバァァァン!!!
硬く強固に編み上げられた巻藁の上部が、大砲に撃ち抜かれたかのように粉々に弾け飛んだ。春人が逆立ちの状態から放った、目にも留まらぬ神速の回転蹴り――『メイア・ルーア・ジ・コンパッソ(半月蹴り)』。その一撃は、風を切り裂き、裏庭に暴風を巻き起こした。
「ひ、え……っ!?」
ミゲルは、その人間離れした柔軟性と、破壊力に息を呑んだ。
逆立ち、側転、跳躍。あらゆる姿勢から、強靭な春人の脚が、鞭のように、大槌のようにしなって空間を支配していく。
「お前のその長い脚なら、この回転に私の倍以上の遠心力と間合いが乗る。世界がお前を拒絶したその脚は、この技術と出会うためにあったんだ。誇れ、ミゲル。お前は戦場を最も華麗に舞う鳥になる」
「……はい! はい、師匠……っ!!」
それから始まった修行は、まさに新境地の地獄だった。
カポエイラの基本ステップであるジンガを一日中繰り返す下半身の鍛錬。逆立ちの状態で何時間も静止し、そのまま腕立て伏せを行う上半身の強化。アクロバティック且つしなやかな身のこなしの源となる背筋を鍛える為に、床に仰向けになり、手足を突いて体を大きく反らせるブリッジを文字通り足腰が立たなくなるまで続ける。ジンガの最中に深く腰を落とし、低い姿勢をキープしながら、急な方向転換や鋭い蹴りを生み出すための土台を作る。
だが、修行の最中やそれ以外の時間であってもこの道場には、かつて故郷で浴びせられたような冷たい視線はどこにもなかった。
「ミゲル君、今のステップ、少し軸がブレているわよ。もっと脱力を意識して」
「ミゲルさん、すごい脚のバネですね! 僕も負けていられません!」
「ミゲル、今日のちゃんこ鍋は肉を多めにしておいたぞ。たくさん食って脚を太くしろ!」
一番弟子のフランソワ、オリバー、そしてバファロー。彼らはミゲルの特異な脚を「気味が悪い」などとは一言も言わず、ただ純粋に、一人の「強くなろうとする仲間」として偏見なく接し、共に泥にまみれて汗を流してくれた。
へばる度に妖精ポルの治癒魔法が肉体を強制全快させ、再びジンガを踏む無限ループ。しかし、ボリスが背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま生真面目にシステマの呼吸をこなし、ひたすらに特注のマネキンに対して技を掛け続ける姿を見て、ミゲルもまた、必死に食らいつき続けた。
――修行開始から数ヶ月が経過した、ある日の午後。
道場に、金属を打ち鳴らすような無作法な足音が響いた。
「おい! ここに『武器も魔法も使わぬ素手の達人』が居ると聞いて来てみれば、随分と寂れた庭ではないか! 私は諸国を巡る高名な武芸者、鉄剣のマルコス! その寝言のような『格闘技』とやら、我が大剣の錆にしてくれよう!」
現れたのは、身の丈ほどもある大剣を背負い、各地で武名を轟かせてきたという傲慢な中年武芸者だった。絵に描いたような道場破り。
道場の面々が「またか」と呆れ顔でため息をつく中、腕を組んで座っていた春人が、ふっと静かにミゲルを見やった。
「ミゲル、お前がいけ。あの男を相手に、お前の数ヶ月の成果を試してみろ」
「えっ!? ぼ、僕ですか……っ!?」
ミゲルは一瞬にして血の気が引いた。まだ自分は呪われた出来損ないだという恐怖が、心の奥底で疼いたのだ。
そんなミゲルの肩に、ガチッリとした硬い手が置かれた。ボリスだった。
「ミゲル、状況を冷静に分析しろ。お前は師匠の規律正しい鍛錬を数ヶ月間、完璧に遂行し続けた。何一つ恐れる要素はない。……作戦開始だ。お前の脚が天賦の武器であることを、あの無礼者に証明してこい」
ボリスの一点の曇りもない瞳が、ミゲルの背中を強く、真っ直ぐに押し出す。
「……っ。分かりました、いってきます!」
ミゲルは意を決して、道場の中央へと歩み出た。
対面するマルコスは、大剣を引き抜き、ミゲルの異常に長い脚を見てゲラゲラと下品に笑った。
「なんだその不気味な長脚は! まともに歩くこともできなさそうな未熟者が、私の剣を受け切れるかぁぁぁ!!」
マルコスが大剣を激しく振り回し、猛然と斬りかかってくる。
しかし、ミゲルは恐怖を感じなかった。むしろ、相手の動きがひどく大雑把で、遅く見えた。
(あ、見える……! 師匠の打撃に比べたら、全然、遅い……!)
ミゲルは滑らかに、リズミカルにステップを踏み出した。――『ジンガ』。
ゆらゆらと揺れる長い脚。マルコスが大剣を振り下ろすが、ミゲルの身体は不自然な側転の軌道を描いて、紙一重でそれを完全に回避する。
「なっ、ちょこまかと……っ!」
焦ったマルコスが横薙ぎの一撃を放つ。だが、ミゲルは地面に両手を突くと、そのままバネのように身体を跳ね上げ、宙で長い脚を大きく開いてその剣線を飛び越えた。
終始、ミゲルの独壇場だった。カポエイラの予測不能な高低の体捌きと、常人の倍近い「脚の長さ」が生み出す圧倒的な間合いの前に、マルコスは一度としてミゲルの道着に触れることすらできない。
「終わり、です……!」
着地と同時、ミゲルは床を強く蹴り、身体を鋭く上下反転させた。
床に両手を突き、自身の長い脚に、数ヶ月間の鍛錬で培ったすべての遠心力とバネを乗せて、鋭く振り抜く。
シュッ、と空気を切り裂く爆音が響き、ミゲルの神速の回し蹴りが、大剣を構え直そうとしたマルコスの顎へと正確無比に直撃した。
ドガァァァンッ!!!
「ぶ、ふっ……!?」
脳を激しく揺さぶられたマルコスは、白目を剥いてその場に崩れ落ち、大剣を手放して激しく床に突っ伏した。完全に昏倒している。
決着だった。
「……やった……?」
ミゲルがすっと立ち上がり、自身の両脚を見つめる。
その瞬間、道場の面々から割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。
「見事な蹴りよ、ミゲル君! あの間合いからの回し蹴り、完璧に決まったわね!」
「凄いです、ミゲルさん! 本当に鳥が舞っているみたいでした!」
「がはは! いい蹴りだ、今日はとびっきり美味いちゃんこ鍋を用意しないとな!」
「任務、完璧に完了だな。見事だ、ミゲル」
仲間たちの掛け値なしの称賛の言葉が、ミゲルの胸に深く、温かく染み渡っていく。
かつて世界から否定され、化け物だと蔑まれたこの脚が、今、確かに敵を打ち破り、仲間たちに認められたのだ。
ミゲルは溢れそうになる涙を必死に堪えながら、初めて、自分の脚を誇らしく思い、その胸の奥に、確かな「自信」という名の光を灯し始める。
ミゲルの成長と未来への跳躍はまだ始まったばかりなのだから。




