正確無比にして合理的、そして冷徹なる戦場の術理
「よし、ボリス、今日からお前の修行を開始する。まずはこれからお前に伝授する『コマンドサンボ』と『システマ』、その技の一端を見せてやろう」
無事に遠征の依頼を終えて道場へと戻った翌朝。陣春人は、新入りである元兵士のボリス・ボルコフを修羅道場の裏庭へと連れ出した。
そこには、春人が街の腕利きの木工職人に依頼して作らせた、特注の木製マネキンが設置されていた。人間の骨格と関節の可動域を精密に再現し、要所には強靭な硬木が仕込まれた、これまでの異世界には存在しない奇妙な人形である。
「お前がこれから学ぶ『コマンドサンボ』とは、戦場という極限状態において、敵の武器と戦闘能力を一瞬で奪うための冷徹なる関節破壊の技術だ」
春人が無造作にマネキンの前に立ち、その木製の腕を掴んだ。
次の瞬間、ボリスは我が目を疑った。
――流れるような、しかし一切の無駄がない稲妻の如き高速の体捌き。
春人が軽く踏み込んだかと思うと、マネキンの懐へと滑り込み、その腕を自身の脇に抱え込んで鋭く身体を捻った。
バキキィィィンッ!!!
凄まじい破壊音が裏庭に響き渡る。職人が丹精込めて作った頑強な硬木の腕関節が、まるで腐敗した小枝のように一瞬でねじ切られ、砕け散ったのだ。それだけではない。春人はそのまま流れるようにマネキンの軸足を払って地面に叩きつけると、木製の膝関節を容赦なく逆方向に踏み折った。
「ヒッ……!」
背後で見守っていたバファローが思わず短い悲鳴を上げる。
ボリスは驚愕に息を呑みながらも、元兵士としての本能で理解していた。今の技をもし戦場で、鎧を着た人間に繰り出せば――鉄の籠手や他の具足ごと、肉体の骨と関節を木端微塵に粉砕できる。凄まじい実戦の理だった。
「そして、もう一つの『システマ』。これは極北の過酷な環境で練り上げられた、いかなる極限状態でも生存するための心身の管理術だ。これには四つの原則がある。ボリス、今日からこれをお前の身体に徹底的に叩き込む」
春人はボリスの正面に立つと、その鋭い視線を向けた。
「一つ、どんな攻撃や恐怖に晒されようとも、決して止めることのない『呼吸』。二つ、筋肉と精神の余計な緊張を削ぎ落とし、攻撃を無効化する『脱力』。三つ、常に自然体であり、背筋をまっすぐに保つ『姿勢』。四つ、一瞬たりとも止まることなく、常に変化し続ける『体捌き』。この四つの土台が揃って初めて、お前の肉体は戦場を支配する無敵の武器になる。――いくぞ!」
「……はい、師匠ッ!!」
それから始まった鍛錬は、これまでの弟子達の肉体破壊のしごきとは、また一味違う「内面の地獄」だった。
春人が容赦なく放つ打撃を、ボリスはシステマの呼吸と脱力だけで受け止め、衝撃を体外へと逃がす訓練を繰り返す。少しでも余計な「力み」が入れば、春人の拳の衝撃が直接肉体を破壊し、血反吐を吐いて崩れ落ちる。
だが、その度に妖精ポルの放つ治癒魔法の光がボリスの肉体を強制的に全快させると、次の瞬間には再び春人の打撃が飛んでくる。
「ほら、ボリス! 呼吸を止めない! 吐いて、吸うのよ! 力んだらハルトの拳で本当に中身がバラバラになっちゃうわよ!」
ポルの容赦ない叱咤の中、ボリスは寸分の乱れもない規律正しさで、泥にまみれながらも春人の四つの原則をただひたすらに、愚直なまでに追求し続けた。その真摯な姿勢は、凄まじい速度でシステマの基礎を彼の肉体へと刻み込んでいく。
それと並行して、追加発注したマネキンを用いた、コマンドサンボの打撃、投げ技、組技、寝技、絞め技、関節技の鍛錬も行い、数十体のマネキンが廃材の山に変わっていった。武術大会の優勝賞金やアルディア近隣から寄せられる様々な依頼の報酬で、ある程度の潤沢した資金が得られているとはいえ、特注のマネキンを立て続けに依頼するのはそれなりに痛い出費だった。しかし、鍛錬に関する事で春人が金を出し惜しむ事は無い。それが日本に居た頃からの春人の変わらない弟子の育成に対するスタンスである。
やがて、果てしない鍛錬の時間が終わり、道場の広間にはいつものように、えも言われぬ芳醇な香りを漂わせる大鍋のちゃんこ鍋が用意された。
「よし、お前たち、飯だ。バファロー、ボリスの器に山盛りに盛ってやれ」
「はい、師匠! ボリスさん、これ、師匠特製のちゃんこ鍋です! すっごく美味いから、たくさん食べてください!」
バファローが満面の笑みを浮かべ、自分の身体ほどもある大きな器に山盛りの肉団子と野菜をよそってボリスに差し出した。
さらに、フランソワとオリバーも、新たな兄弟弟子の誕生を歓迎しようと、笑顔でボリスの隣へと腰を下ろす。
「ボリス君、システマの脱力は通背拳の脱力とも通じるところがあるわ。今度、お互いの組み手で試してみましょう」
「そうですよ、ボリスさん。僕の太極拳の円の動きも、システマの体捌きと相性が良いはずです。これからよろしくお願いしますね!」
道場の先輩である三人が、温かい親睦の笑顔を向けて歩み寄る。実戦を経て強固な絆で結ばれた弟子達の、心からの歓迎だった。
だが――ボリスの身体は、その温かさにどう反応していいか分からず、カチコチに硬直してしまった。
「あ、ありがとうございます、先輩方。……しかし、私は未だ基礎すら満足にこなせぬ新参者。食事の席とはいえ、諸先輩方とこれほど気安く言葉を交わすのは、道場の規律、及び秩序に反するのではないでしょうか。私は、自分の食い扶持に見合う鍛錬を証明するまで、隅の席で静粛に拝聴いたします」
ボリスは、山盛りのちゃんこ鍋の器を両手で完璧な角度で保持したまま、直立不動の姿勢(座った状態ではあるが)で、生真面目そのものの堅苦しい声を返した。
「え、あ、いや、そんな堅苦しいルールはこの道場にはないんだけど……」
「そうよ、みんなで同じ鍋を囲めば家族だって、師匠も言ってたじゃない」
オリバーが鼠耳を困ったように揺らし、フランソワも箸を持ったまま苦笑いを浮かべる。バファローいたっては、自分の親切が空回りしたかと思って大きな耳をペタンと垂らしてしまった。
ボリスの「歪なまでの生真面目さ」は、親睦を深めようとする他の弟子達の温かさすらも、カチカチの規律の壁で弾き返してしまうのだった。
「……ハルト、あの調子だとちょっと先が思いやられるわね。あいつ、真面目すぎてみんなと馴染めるのかしら?」
広間の隅で、ポルが小さく羽を羽ばたかせながら、少し不安そうな顔で春人に耳打ちした。
春人は、先輩達の優しさに戸惑いながらも、器の中のちゃんこ鍋を恐る恐る口に運び、「……っ、美味、美味いです……!」と規律を保ったまま感動に震えているボリスの姿をじっと見つめていた。
「問題ない。あいつのあの生真面目さは、他人に合わせるためのものではなく、己を律するためのものだ。他の弟子達の優しさも、いずれあの硬い殻を溶かす。……今は、温かく見守ってやればいい」
春人はフッと短く笑うと、自身の器を持ち上げ、全員に向けて声をかけた。
「おい、ボリス。冷めないうちに食え。道場の食事での第一の規律は、『残さず、美味しく食べる』ことだ」
「っ……! はい、師匠! 不肖このボリス、職務を速やかに遂行いたします!」
ボリスのどこかズレた大声の返事に、広間は再び、ドッと温かな笑い声に包まれるのだった。




