毒蛇は撓り牙を立て、太極は流転する
新春武術大会の一回戦、その後に続いた他の出場者たちの試合は、観客たちの目にはどこか退屈なものに映っていた。
それもそのはずだろう。修羅道場の三人――フランソワ、オリバー、バファローが見せつけた「格闘技」という未知の衝撃が、会場にいた全員の武術に対する価値観を根底から狂わせてしまっていたからだ。武器や魔法を誇示する猛者たちの戦いが、いまやひどく大雑把で、無駄の多いものに見えて仕方がなかった。
波乱の一回戦がすべて終了し、大会は息つく間もなく二回戦へと突入する。
そして、その第一試合の組み合わせが発表された瞬間、闘技舞台の周囲は本日一番の奇妙な静寂に包まれた。
「さあ、早くも二回戦の幕開けだぁッ! しかし、運命の神様ってのはとんでもねえ悪戯を仕掛けてくれる! 第二回戦、第一試合ッ! 西側からは、一回戦で鉄壁の重騎士を一瞬で沈めた美しき毒蛇――フランソワぁぁぁ!!」
司会の絶叫と共に、フランソワが悠然と舞台へ上がる。その表情は、いつもの冷徹さに加え、どこか特別な昂ぶりを秘めているように見えた。
「対する東側からは、最強の弓使いの矢の雨をすべて往なし、地へと沈めた小さな奇跡――オリバーだぁぁッ! なんと、早くもここで『修羅道場』の同門対決が実現しちまったぞ! 武器を持たぬ化け物同士の身内喰らい、勝つのはどっちだぁ!?」
オリバーが呼吸を整え、道着の帯をきゅっと締め直して舞台へ上がる。
二人は舞台の中央で対峙した。つい先日まで、同じ道場で泥にまみれ、同じちゃんこ鍋を突っついていた。互いの技も、手の内も、これまでの努力も、すべてを知り尽くしている。
(まさか、こんなに早くフランソワ先輩と戦うことになるなんてね)
(手加減は一切しないわよ、オリバー君。あなたの『柔』、私の『牙』が突き破らせてもらうわ)
視線が交錯した瞬間、火花が散るかのような錯覚を覚える。
舞台裏で腕を組む師、陣春人は、ただ静かに二人の愛弟子を見つめていた。
「それでは――始めいッ!!」
銅鑼の音が響き渡ると同時、二人の身体が同時に爆発的な速度で動いた。
間合いが詰まった瞬間、闘技舞台の上で、人間とホビットと鼠の獣人のハーフとは思えない超高密度の打撃戦が幕を開ける。
シュシュシュシュッ!!
衣服が風を切る鋭い音が連続して響き渡る。
フランソワの通背拳による鞭のようなしなやかな打撃、そして鋭い角度から放たれる蛇拳の刺突。それに対し、オリバーは一切引くことなく、太極拳の滑らかな円運動でそのすべての軌道を外側へと受け流していく。
攻めるフランソワ、往なすオリバー。
その光景は、まるで二匹の巨大な蛇が、互いの身体を複雑に絡み合わせながら、一瞬の隙を狙って牙を剥き合っているかのようだった。
「凄い……なんて動きだ……!」
「目で追いきれねえ! 互いの腕が触れ合った瞬間、妙な軌道で目まぐるしく変化していやがる!」
「まるで、達人同士の剣戟を見ているようだ!」
「互いに素手のはずなのに、何なんだこの緊張感は!?」
「凄い、凄いぞ! こんな戦い見たことねえ!」
一回戦では格闘技の理不尽な破壊力に怯えていた他の出場者たちも、いまやその流麗で、かつ一撃必殺の緊迫感を孕んだ攻防の美しさに、ただただ目を奪われていた。
フランソワが蛇拳の鋭い突きをオリバーの喉元へ放てば、オリバーは合気の体術でその手首を捕らえて崩しにかかる。だがフランソワも即座に脱力し、衝撃を逃がしながら通背拳の裏拳をオリバーの脇腹へと滑り込ませる。
(流石フランソワ先輩だ! 何度崩しに掛かっても悉くすり抜けられる!)
(やるわねオリバー君! これだけ打ち込んでも、一向に隙を見せないなんて!)
一分、二分、激しい残像を残しながら、攻防は一歩も譲らぬまま膠着を続けた。
互いに実力は伯仲。手の内を知り尽くしているがゆえに、決定打が生まれない。誰もがこの美しい泥仕合が永遠に続くかと思った、その時だった。
勝敗を分けたのは、技の優劣ではなく、ほんのわずかな『集中力の差』だった。
初の実戦、初の大舞台。その緊迫した空気の中で、最大密度の攻防を数分間も維持し続けたオリバーの脳に、肉体的な疲労から来る一瞬の「淀み」が生じた。
それは、常人であれば見逃すはずの、瞬き一つ分にも満たない僅かな集中力の途切れ。
しかし、目の前にいるのは、春人に鍛え上げられた冷徹なる毒蛇。
「――そこッ!」
フランソワの瞳が鋭く輝いた。
オリバーのわずかな構えのブレ、その隙間に滑り込むようにして、フランソワの身体が不自然なほど低くしなる。
シュッ! と、ひときわ鋭い呼気。フランソワの細く美しい右手が、完全なる『蛇の顎』と化し、無防備となったオリバーの眉間へと神速で突き出された。
(しまっ――!?)
オリバーが反応した時には、すでに万事休す。避けることも、太極拳で往なすことも不可能な、致命的な一撃。
観客の誰もが、あの可愛らしい鼠耳の青年が脳天を撃ち抜かれると確信し、悲鳴を上げようとした。
ビシッッ!!!
空気を切り裂く突風が吹き荒れ、そして、止まった。
フランソワの鋭利な指先は、オリバーの眉間からわずか数ミリの手前――額の産毛に触れるかという極限の距離で、ピタリと、完全に静止していた。寸前での見事な寸止め。
オリバーの丸い耳が、風圧で後ろへとペタンと寝ている。
静寂が、再び舞台を支配した。
「……はぁ、はぁ……」
オリバーの額から、タラリと冷や汗が流れ落ちる。眉間の前に突きつけられたフランソワの指先からは、いつでも自分を絶命させられるだけの、凍りつくような『気』の練り込みがひしひしと伝わってきた。
避けれなかった。完全に、自分の負けだ。
オリバーはふっと緊張を解くと、柔らかな苦笑いを浮かべ、両手をそっと下げた。
「……参りました。僕の負けです、フランソワ先輩」
潔く、そして清々しい声での降伏宣言。
その言葉を聞き、フランソワもまた、鋭かった瞳をいつもの美しいそれに戻し、すっと指先を引いて残心を解いた。
「素晴らしい戦いだったわ、オリバー君。一瞬でも私の集中が切れていたら、投げ飛ばされていたのは私の方ね」
「いいえ、あの場面で確実に仕留めに来る集中力、さすがは一番弟子です」
互いに健闘を称え合い、春人から教わった通りの美しい礼を交わす二人。
「……しょ、勝負あり! 勝者、フランソワぁぁぁ!!」
司会の震える声が響き渡り、会場は再び、修羅道場がもたらす圧倒的な「武」の余韻と、同門だからこそ見せられた気高き精神への惜しみない拍手に包まれるのだった。




