小雨、太極に呑まれる
「第一試合、修羅道場フランソワの勝利ィィッ!」
司会の絶叫が響き渡る中、会場は未だ現実を受け止めきれない困惑と、じわじわと広がる戦慄に揺れていた。
そんな狂騒の舞台へと次なる一歩を踏み出すのは、修羅道場の二番手――ホビットと鼠獣人のハーフ、オリバー・ポッターである。
初の実戦、初の大舞台とあってか、若干の緊張は残っている。しかし、一番手のフランソワの活躍を見て自分も負けてはいられないと、気合と意気込みは十分だった。
「続く第二試合! 東側からの入場は、この大会の優勝候補筆頭! 百歩離れた場所から飛行する羽虫の目を射抜くと言われる、アルディア領最強の凄腕狩人――ギルバートォォォ!!」
割れんばかりの歓声の中、舞台に上がったのは、しなやかな革鎧に身を包み、大ぶりな長弓を携えたシャープな男だった。その背の矢筒には、びっしりと鋭い鉄の矢が詰まっている。
ギルバートは、対面するオリバーを見て露骨に鼻で笑った。
「対する西側は……またしても修羅道場! 身の丈は人間の半分であるホビットの体躯と鼠の耳を持つ、オリバーだぁ! ……って、おいおい! 武器も持たずに弓使いの前に立つのか!? 間合いに入ることすらできずに蜂の巣だぞ!」
司会の言葉通り、舞台の広さは弓の独壇場だった。
二人の距離はおよそ三十歩。遠距離から一方的に射殺せるギルバートに対し、素手のオリバーにはあまりにも遠い絶望的な距離。観客の誰もが瞬殺を確信していた。
「エルフの女の奇襲が上手くいったからと、調子に乗るなよ、狩られる側の小動物」
ギルバートは冷酷な手つきで矢を引き絞り、オリバーの眉間に狙いを定めた。
対するオリバーはただ静かに、両手を柔らかく前後に構える。重心を極限まで低く保ち、上下のブレを一切排した構え。春人から伝授された、太極拳と合気道の「柔」の基本型である。
「それでは――始めいッ!!」
合図の銅鑼が鳴り響くと同時、ギルバートの指から高速の一矢が放たれた。
シュッ! と空気を引き裂く凶悪な風切り音。目にも留まらぬ速度で放たれた第一矢が、正確にオリバーの胸へと迫る。
しかし。
オリバーの身体は、滑らかな円の軌道を描いて横へとズレた。
膝の皮が剥けるまで繰り返した「膝行」の賜物だ。重心の上下移動が一切ないため、ギルバートの狩人としての卓越した動体視力をもってしても、オリバーが「いつ動いたのか」が捉えられない。
「チッ、まぐれか!」
ギルバートの顔から余裕が消える。彼は即座に次矢を番えると、今度は目にも留まらぬ速射を繰り出した。
二の矢、三の矢、四の矢――!
放たれた矢は、まるで激しい雨のように軌道を描き、あらゆる退路を塞ぐようにオリバーへと降り注ぐ。盾を持たない前衛がこの至近距離で「矢の雨」を浴びれば、成すすべなく人型のハリネズミに変わるのがこの世界の常識だった。
だが、ここからが修羅道場でオリバーが練り上げた太極拳の本領だった。
オリバーは降り注ぐ矢の嵐の中に身を投じながら、両手を優雅に、まるで水を撫でるように円形に動かし始めた。
迫り来る鋭利な鉄の矢先。オリバーはそれを避けるのではない。太極拳の「化勁」――敵の放った直線の力を、自身の円運動によって受け流し、その軌道を完全に往なしていく。
カツン、カツン、と小さく軽い音が響く。
観客が目撃したのは、信じられない光景だった。オリバーの手の平が、迫る矢の側面に極めて優しく触れたかと思うと、矢の持つ凄まじい推進力が、彼の滑らかな手の動きによって全て外側へと受け流されていく。
「な……に……っ!?」
ギルバートが驚愕に目を剥いたその瞬間には、すでにオリバーは超低空の膝行による猛烈な速度で間合いを詰めていた。まるで地を滑る影のようだ。
「くそっ、来るなぁぁぁ!」
焦ったギルバートは完全に冷静さを失い、弓を投げ捨てて腰の近接用ナイフを引き抜いた。眼前にまで迫ったオリバーの喉元へ、咄嗟にナイフを突き出す。
だが、その突き出された腕の「力」こそが、合気道の最高の餌食だった。
オリバーはナイフの軌道の内側に滑り込み、ギルバートの手首をふわりと包み込むように捕らえた。
ギルバートが力任せにナイフを押し込もうとした、まさにその一瞬。オリバーはその押し込む力を拒まず、むしろその進行方向へとほんのわずかに円の軌道で導いた。
「――合気」
ギルバートの突進する体重と腕力が、オリバーの絶妙な円運動によってそのままギルバート自身のバランスを崩すエネルギーへと変換される。
次の瞬間、ギルバートは何が起きたのかさえ理解できぬまま、自身の放った力の勢いで宙を舞い、頭から舞台の床へと叩きつけられた。
ドォォォン!!
激しい衝撃音と共に舞台に沈み、白目を剥いて完全に意識を失ったギルバート。
「しょ、勝負ありッ! 勝者、修羅道場オリバー!!」
再び訪れる、会場全体の凍りついたような静まり返った沈黙。
遠距離からの絶対的な優位を持つはずの最強の弓使いが、武器を持たない小さなホビットに、一切の傷を負わせることすらできずに完封されたのだ。
「……おい、嘘だろ。ギルバートが、一瞬で投げ飛ばされた……?」
「あの小さな奴、一度もまともに武器に触れてねえぞ! どういう理屈であんなことができるんだ!?」
「あんな見るからに非力そうなチビネズミが一体どうやって!?」
立て続けに起きたあまりにも理不尽な番狂わせに、控室や舞台袖で出番を待っていた他の出場者たちの顔から完全に血の気が引いていた。
全身鎧を貫く拳、そして矢の雨を往なし刃を返す体術。自分たちがこれまで信じてきた武器や魔法の強さが、目の前の「格闘技」という未知の概念によって根底から覆されようとしている。
ざわざわと焦りと恐怖に駆られる猛者たちの視線が集まる中、修羅道場の二人目の拳士は、呼吸を整えて、道義の帯を締め直し、静かに一礼して舞台を降りるのだった。




