肆拾
行くんじゃなかった。
それが俺の今の気持ちだ。
凛子から子供が死んだから最後に顔を見に来いと半ば脅されて行ったわけだが。
最悪だった。
焼香だけでいいと思っていたのになんであんな話になるんだ。
二十年以上ぶりに会った凛子は昔と変わらず俺を見下し、軽蔑していた。
なんであんな女をモノにしようとしたのかと今では後悔しかない。しかも瑣高を作ってしまったから一生あいつらから逃れられない鎖を自分で作ってしまった。
いや、凛子が妊娠した事を俺が言わなければ今、こんな目に合わずに済んでいたんだ。
だって凛子は言った。
俺の子なんて堕ろして当然、だけど俺が言いふらしたから堕ろせなくなった、なら産んで一生苦しませてやると。
そのときの俺は、俺におちない女なんていないと信じて疑わなかったし、凛子は俺に相応しい女だと思っていた。
凛子は名前の通り、凛とした雰囲気で容姿も理知的な美人だった。高嶺の花、という存在。
ただそれは普通の奴らの場合であって、俺にはすぐに手折れる存在でしかなかった。
だが実際は違った。
あいつは見かけは美しいが、中身は毒に侵された毒花だ。扱い方を知らずに気軽に触れたら、死ぬ程後悔するものだ。
俺は扱い方を間違えた。
あいつがあんなに恐ろしく悍ましいものだとは思わなかった。
今でも過去に戻りたいと願う程、俺はあいつとはもう絶対に関わりたくない。
あの日——、フロアで凛子の妊娠さえばらさなければ俺は今、どんな人生を送っていたんだろう?
周りを巻き込んでしまえば凛子は俺から逃げられなくなる。そう考えてあの日妊娠をバラした。
だがそれは致命的な間違いだった。
俺が凛子から逃げられなくなったのだ。
あの日から凛子は俺だけではなく、関わる人間全員と、不必要な話は一切しなくなった。元々人付き合いのいい方ではなかったが、仕事が円滑にいくよう、最低限ではあったが軽い雑談ぐらいはしていたのだ。だがその日を境に凛子は一切の表情をなくし、無表情でただ淡々と仕事をこなすだけになった。会話もなく、口頭で済む様な連絡事項もメールやメッセンジャーで行い、徹底して人と話すという事をしなくなった。
そんな凛子の態度が一週間、一ヶ月と続くと俺達の仲に疑問をもつ者が出てきた。妊娠なんておめでたい出来事なのに、当の本人達は幸せムードが全くないどころか、凛子は冷たい態度で周りと距離を置く。
俺が凛子に話しかけても返事どころかいないものとして扱われている。そんな光景を何度も目撃されれば、俺達の関係がいいものではないと皆察する。話しかけるのはいつも俺から。凛子からは一度も無い。となれば、何かしらのよくない疑惑を持たれるのは俺の方だ。
上司や同僚から俺達の関係について訊かれるが、本当の事など言えるわけもない。曖昧に濁して逃げるしかない。同時に、凛子も上司から俺と同じ様に訊かれたらしい。けれど俺達の本当の関係を喋られたら俺はどうなるのか。想像しただけでゾッとした。
だから俺はある日の昼、カフェに行った凛子を見つけて直接言った。
「見つけたよ、凛子。一人で出かけて俺を心配させないで。なあ、もう一人の身体じゃないんだから、早く仕事を辞めて一緒に暮らそう。俺の給料だけで生活できるんだから、ね?」
俺はお前が心配だからという顔をなんとか作って言った。
凛子はサンドイッチを取ろうとした手を止め、無表情な顔で俺を見上げた。
「凛子?」
俺は無言の凛子に内心怯えながら、いかにも恋人を心配してる風に装い、軽く首を傾げて訊いた。
凛子は無表情だが、口角を少しだけ上げた。
「私、クズに養ってもらう程、おちぶれていないの。それに私、この子がどうなっても別にどうもしないわよ」
俺は全身から血がなくなったような感覚におそわれた。一瞬で全身が冷えたがすぐに身体は熱を取り戻した。怒りで凛子を罵倒したくなったが、ここはカフェだからと湧いてくる怒りを抑えるが、顔は笑顔を維持できず、ついポロリと本音が零れた。
「可愛くない女だな」
しまったと思ったがもう遅い。
「私、別に可愛くないけど。あなた馬鹿かしら?」
凛子は俺の言葉以上に可愛く無い言葉を言った。俺はそれを聞いてもう付き合っていられず、さっとその場を離れた。
そしてこの一件のせいで俺はさらに追い詰められ、会社を辞める事になった。
会社近くの昼時のカフェだったから、社内の人間もちらほらいて、今の会話があっという間に広まった。俺は周りの視線や陰口に耐えられなくなり、辞める予定は無かった会社を辞めた。
しかも同業他社には転職できない。転職先でもいつか俺の話が回ってくる様な業界なのだ。
だから俺は他業種へ行くしかなく、大変な思いをした。
そこで結奈や真理と出会ったが、凛子の事があったので正直しばらく女とは付き合いたくなかったが、結果的には二人が俺の心を癒してくれた。
ただ誤算だったのが子供だった。
凛子との事があり、子供を持とうは思えなくなっていたので女を抱く時は必ず避妊をしていた。
それなのに結奈は妊娠をした。
妊娠した事を結奈に言われた時は頭が真っ白になり恐怖した。
だから俺は即座に堕ろしてくれと言った。
結奈はキョトンとした顔からすぐに可愛い顔をくしゃっと歪ませて泣き出した。
可愛い結奈に泣かれるのは辛かったが、子供の事だけは譲れない。
「結奈、俺と約束したよね。もし妊娠したら堕ろして欲しいって。それを約束してくれないと結奈を抱けないよって」
「……っく、それっ、それはっ……約束、したけど……」
結奈は泣きながら、下腹部に両手をそっと置いた。
「なら、わかってくれるよね? 可愛い結奈」
俺は泣きぐずる結奈の額に優しくキスをし、抱きしめた。
だが結奈は首を振って、いやいやをし、俺にしがみついた。
「やだ、やだっ! 結奈、宏貴さんとの子供を堕ろすなんてやだっ! 結奈が……結奈が約束破って、悪いのはっ……わかってる。でも、でもっ、大好きな……一番大好きな宏貴さんとの子供っ、堕ろすの、結奈、やっぱり嫌ぁ……」
「結奈……」
俺は内心面倒な女だなと毒づきながら、結奈を宥めた。
それからしばらく産む産まないで結奈ともめたが、結奈に押し切られる形で仕方なく俺が折れた。
そのせいで俺は結奈からしばらく距離を置いた。認知をする気も無い、何もしたくないと言って。
結奈はそれでも構わないと言い、一人で子供——結貴を産み、育てた。
それから定期的に結貴の写真を送ってくるぐらいで何事もなかったが、結貴が小学生に入学する頃に一度会ってほしいと言われた。正直、まったく気は進まなかったが、送られてくる写真の結貴はいつも笑顔で楽しげだった。
瑣高とは違って。
同じマンションに住んでいるから、たまに偶然、すれ違うことがあったが、あいつはにこりともせず、いつも無表情で凛子と歩いていた。まあ俺が父親だと知らなかったせいもあるだろうが。だからだろうか。
対照的な結貴にほんの少し興味がわき、父親としてではなく、親戚として会うならと条件を付けて会った。
無邪気に懐いてくる結貴に俺はなんとも言えない複雑な気持ちになったが、ほんの少し、結貴に興味を持ってしまった。
それから紆余曲折を経て、俺は結奈と結婚し、結貴の父親になった。
俺は誰もいない助手席に顔を向けた。
結貴は外に飲み物を買いに行っている。
凛子の家から追い出され帰路に着いたが、想像もしない出来事ばかりで少し休みたかったのだ。余計な事を考えて事故を起こすわけにはいかない。
……それにしても……あれが凛子の息子、か。
確かに半分は俺の血が入っているが、アレは完全に凛子似だ。ちらりとしか顔は見えなかったが、見えなくてもそう感じるのだから。
息子、と言われても正直今の俺には親戚の子かなぐらいの気持ちしかない。俺がその程度の感情しか持って無いんだ。向こうだってそうだろう。もし性格も凛子似なら、俺の事を父親とすら思って無いはずだ。それなら何故俺を、結貴まで呼んだのかがわからない。凛子だって遺言じゃなければ呼ば無かったと言った。生きている内ならまだわかるが、死んでから呼ぶ意味なんてあるのか?
俺は考えてみるが、これだという理由が思い浮かばない。
ガチャリと扉を開ける音がして俺はハッとした。
「パパ。はい、コーヒー」
笑顔で結貴が缶コーヒーを俺に突き出す。
「あ、ああ。ありがとう」
冷え切った缶コーヒーを掴むと「冷てっ」と思わず言葉が出、冷たすぎで手を引っ込めてしまった。
「ほらっ、言った通りだろ」
ははっといたずらっ子の笑みを結貴は見せた。結貴は手袋をしていたので、あの冷え切った缶コーヒーを平然と持てていたのだ。
宏貴は苦笑しながら改めて缶コーヒーを受け取り開けた。冷たいコーヒーを一口飲むと、ごちゃごちゃしていた思考も落ち着いた気がした。缶コーヒーをドリンクホルダーに入れると結貴が声をかけた。
「パパ。あのおばさんが言ったこと、嘘だよな」
宏貴はぎくりとし、ぎごちなく助手席の結貴の方に首を向けた。結貴は温かい缶コーヒーを両手で包んで持って、俯いていた。
「あ……」
宏貴はすぐに否定できなかった。否定できない、つまり肯定した様なものだ。
結貴はゆっくり父親の方へ顔を向けた。そこには狼狽した表情の父親がいた。
結貴はその顔を見て、心の何処かで失望した。
いつも女性には優しくしろと言っていたのに、父親は優しく所か薬を盛ってレイプしたのだ。男として最低最悪の行為だし、同じ男としても軽蔑する、が……。
でもこの父親がそんな事を本当にしたのだろうか。
いつも母親に優しく、大事に接するこの父親が。
信じられない。
信じられない、けど。
でも……。
でももし、父親が誠意を込めて接したのにその心を無視し続けていたのなら、無視し続けて父親の心を傷付けていたのなら……悲しんだ父親が何をしたっていいじゃないか。
結貴はそう思った。
自分だって心を捧げた清把に本意ではないだろうが、無下にされ続けていた。もしこれ以上無視され続けたら、自分は清把を正気に戻すため、力づくになっても説得するだろう。そう、清把の意思なんて無視して。だがもう清把を誑かしていたあいつはいない。騙され傷付いた清把を慰め、これからはじっくり時間をかけて自分の女だという事を教えてあげなければいけない。
結貴は父親に小さく笑んだ。
「パパ、俺はパパを尊敬してる。だからパパのやる事は正しいし、俺はパパの味方だよ」
「結貴……」
宏貴は目を見開き、息子を見た。
「ねえパパ、やっぱりここでママへのお土産買おうよ。食べた事ないやつもあったしさ。ね、パパ」
結貴は無邪気な顔で言い、父親の腕を軽く引っ張る。そんな姿を見ると宏貴は無下にもできず、同意するしかできない。
「わかったよ」
苦笑しながら宏貴はドアに手をかけた。
「やったね!」
結貴も車から下り、父親と仲良く並んで店舗へと向かった。




