十七
瑣高は母屋に行き、祖母と話している母親に縁側から声をかけた。
「母さん、佳奈恵さん、もう帰るって」
「あらそう。じゃあ佳奈恵ちゃんの見送りしなきゃね」
凛子は畳から立ち上がり、縁側から外に出た。
「瑣高はいいの?」
凛子がついてこない息子に気づき、振り向いて声をかけた。
「うん。もう僕は挨拶したからいいよ」
「そう。あ、夕飯ちょっと遅くなるけど我慢してね」
「別に構わないよ。小さな子供じゃないんだし。ねえ祖母ちゃん」
瑣高は苦笑して答えた。
「ああ」
祖母は浴衣を縫いながら頷いた。
「それはそうなんだけどね。やっぱり気にしちゃうのよ」
主婦ってそんなものなのよと言って、凛子は母屋へと戻った。凛子の姿が見えなくなると瑣高は祖母に声をかけた。
「祖母ちゃん、僕はもう少し散歩してくるよ。夕飯までには戻るから」
「ああ。気いつけてな」
祖母は淡々と答えた。
「うん」
瑣高は母屋の裏側に回り、そこから山へと登り始めた。
がさがさと道なき道を歩き、瑣高は山を登る。
獣道ですらない道をただひたすら上に向かって登る。三十分程登っただろうか。
ふっ、と空気が変わった。
薄い空気の膜を通り抜けた感触。
音が消えた。今まで聞こえていた蝉の声や葉ずれの音が一瞬で消えた。テレビを消す様に、聞こえていた音がぶつっと強制遮断されたのだ。
そこからまた数分歩くと、少し開けた場所に出た。
そこには古ぼけた大きな社が一つ、ぽつんとあった。
瑣高はその社を睨み、大声で言葉を吐き出す。
「お前はっ、今日あの子が来るのを知ってたんだな! だからこんな力を僕に入れたんだな!」
風も無いのに突如周りの木の枝がわさわさと鳴りながら揺れた。
はははっ! その通りだ! だが全く面白くなかった。お前より、もう一人の小童の方が我を楽しませてくれたぞ! はははっ!
声が笑う度に周りの木々も呼応するかの様に揺れ、さわさわ、ざわざわと葉音が響く。
「っつ……」
痛みを感じる程、瑣高は奥歯を強く噛み締めた。
なにせもう黄泉路へと足を踏み入れている小童が、黄泉路へ進む理由となった小娘にどう接するのか興味が湧いた。だが、結果は全く面白くなかった。残念過ぎるわ。
声は呆れているようで、時間と力を無駄にしたと言外でも言っている。その言葉を聞いた瑣高は感情が切れた。
「うるさいっ! お前に何がわかる! 僕の気持ちなんてどうでもいいくせになんで関わる!? 関わるなら助けろよ、どうにかしろよっ! 僕はまだ死にたくない、生きて、生きて、生き、て……」
瑣高は声を荒げたが、言葉に詰まった。
生きて、生きて……何をしたいんだろうと。
生きながらえて何をしたい?
したい事などあったか?
そもそもこの世に未練や執着なんてあったのか?
そんな風に生きてこれたのか?
そんな風に生きたらすぐに死が向かって来たのではないか?
ぐるぐると自問自答する瑣高に声が降って来た。
はははっ! 憐れ、憐れよなあ! 生きる意味さえ見出せぬとはなあ。それなのに生きたいと言葉にする。本当は生きる理由などわかるくせにわかろうと、いや、認めようとしない。それは仕方なし。なにせそれが小童を黄泉路へ進ませた元凶だものなあ! ははっ! だがもう小童に残された時間は少ない。思うがままに生きて散った方が良いとは思わぬかや? くくくっ。
響く声は的確に瑣高の心を暴いた。
瑣高が黄泉路へと下る時間を早めたのはモノは——清把。
清把への想いだ。
小さな、小さな、他愛もない話や、優しさや気遣いを後々の面倒にならない様に施しただけ。それなのに、そんなどうでもいい行動に対して返ってくる、礼の言葉と可愛らしいはにかんだ笑顔。
そんな小さなやりとりが積み重なる度に、可愛い、面白い、と思う様になり、次第にこれは怒っている、不貞腐れている、我慢している等、表面の感情の裏に隠れている気分までわかる様になった。
さらに観察していると、好みの傾向や行動などもわかってきた。
色は重めの色より軽めの色が好き、和食より洋食が好き等。
そんな些細な事を知り、理解する度に言い様のない喜びや達成感、楽しさが身体中を駆け巡った。
それと同時に身体が、心が、魂が、自分の何かが壊れて失われていくのを感じた。
それが頂点に達した今——、自分は黄泉路へと確実に歩み出した。
死が確実になった今、最後に何をしたいかだと?
そんな事、決まってる。
清把が欲しい
自分を『普通の人間』にした清把を『普通の人間』らしく好きになりたい。
だけど清把のせいで自分はこんなにも早く死に向かわされた。清把が心底憎い。村の奴等の血を引く清把が赦せない。だから身も心もめちゃくちゃに蹂躙して絶望させてから殺したい。一緒に黄泉路を歩みたい。
でもそんな事はしたくない。
本当はなんのしがらみもなく、ただ好きになって——愛して、普通に生きたい。
でもこの身体に流れる血はこの村と、村人を憎悪し怨嗟してやまない。五百年も虐げられ、蔑まされ、穢され続けている時間を赦せるわけがない。
愛したい。
赦せない。
愛したい。
赦せない。
愛しさが募れば憎悪も募る。
苦しい。
狂しい。
苦しい。
狂しい。
生きたい。
死にたくない。
生きたい。
死にたくない。
ぐるぐるぐるぐる終わりの無い問答が頭の中を回り続ける。
「あっ、あっ、うああーっ!!」
瑣高はその場に崩れ落ち、両手で柔らかな地面を力任せに叩いた。
だんっ、だんっ、だんっ。
呼吸が上手くできなくなる程、泣き叫び、咆哮した。
あっはははははっ!
そう、それよ! そうやって無様に泣き叫び悶える姿が見たかったのだ! ようやっと見れたわ! ははははあっ!
ゲラゲラと響き渡る姿なき声と、瑣高の絶望の咆哮が重なり合い、普段は静寂な場も、今は声を聞くだけで恐怖する様な殺伐とした場になった。
しばらくして、瑣高の咆哮がおさまると、瑣高が蹲りながら声に問う。
「……僕はあとどれぐらいだ?」
ふむ。そうさな……、秋口程かの。
声は先程の哄笑とはうって変わり、淡々と告げた。
「そうか」
瑣高は精気のない声でぼそりと答えた。
そんなに早いのか。
生きる事は山道を登る様に大変だったのに、逝く時は山道を滑り落ちる様に早いのか。
瑣高はまだしばらく蹲ったままでいたが、ゆっくりと顔上げ、正面にある古ぼけた社を虚ろな目で見据え、言った。
「おい。僕の願いを叶えろ」
……ほう。
我に願うか。
その意味、わかって言っておろうな。
「当然だ。もう僕には何も無い。それならせめて思う様に死にたい。それに気づいたんだ、僕は。死んだら何をしたって構わないってね。そうだろう? だって死んだんだから。くっ、はははっ、あはははははっ!」
瑣高は陰惨な表情で哄笑した。
ふっ。
そうさな。
死ねばこの世の理など死人には関係無いな。
くっ、くくっ、ははははっ!
いいだろう。小童と契約してやろう!
して、何を望むのだ、お前は。
声は高らかに響き渡り、瑣高に問う。
「清把が欲しい。ただ、条件がある。それを満たした時のみ、契約を実行しろ」
ほう。
いいだろう。
「契約が果たされなかった場合でも対価は払う」
ふむ。
して内容は——
瑣高は契約内容を告げた。
ふっ、ふふっ。ははっ!
甘いのお、小童は。
はっはっはと声は笑い、落ち着くと続きを話し出す。
まあ良い。
我はそれを実行するのみだ。
では小童よ、社を開けよ。
瑣高はのろのろと立ち上がり、手入れはされてきれいだが、古ぼけている社を開けた。
中はがらんとして目立つものは何も無かったが、よく見ると床に一本の棒の様なものが転がっていた。
その角を取れ。
声が指示した。
瑣高は社の中に入り、社の中央にある角を取った。元は白かったのだろうが、今は薄汚れ黄ばんでいて、所々傷がついていたり欠けていたりしている。大きさは五十センチ程で太さはそんなに無い。瑣高の手の中に収まる程度の太さだ。だが、この大きさの角持つ何かは結構大きい生物ではないかと思われる。
ではその角を小童の心臓に突き刺せ。
「は?」
瑣高は思わず顔を上げ、社の中を見回した。
だが社の中には誰も、何も無い。
はははっ!
大丈夫だ、死にはせぬ!
まあ刺す時には多少の痛みはあるだろうが、それだけだ。
声は事もなげに言う。
瑣高は右手で握った角をじっと見ていたが、両手で掴み直すと一気に心臓に突き刺した。
「ぐっ、がはっ!?」
瑣高が角を心臓に突き刺さすと、グイグイと容赦なく心臓に角が押し込まれる。誰もいないのに、見えない何かに押し込まれる。押し込まれる度に耐えがたい程の壮絶な痛みが全身を駆け巡る。
「あっ、ぐっ、あっ、ああああああああーーっ!!」
瑣高はあまりの痛みに血を吐きながら、その場に膝をつく。
角はどんどんと瑣高の中に入って行くが、背中の方に突き抜けてはこない。まるで心臓に吸い込まれている様だ。ズブズブと角がのみこまれ、全てが瑣高の体内に入るとゲラゲラと社内に哄笑が響き渡る。
瑣高はあまりの激痛で、前のめりで倒れた。
あーっははははははは!!
感じる、感じるぞ!!
小童の憎悪、欲望、渇望、執着、愛憎を!!
良い、良いぞ、この醜悪で無様、汚ならしい感情のなんと心地の良きことか……。
恍惚とした響きの声が社の中に響き、突然瑣高の正面にじっとりと湿った黒い靄が湧き出した。その黒い靄の中から二つの真紅の光が現れた。
よく見るとそれは目だった。
その目は瑣高に向き、また声がしたがそれは正面の靄からだった。
『小童、我とお前の契約は今ここで恙無く結ばれた。我——夜刀神とのな。くくっ』
正面の靄が揺らめき、中から大きな漆黒の蛇の頭が出て来た。瑣高を一呑みできる程の大きさだ。
漆黒の蛇——夜刀神はちろちろと血の色をした舌を出し、瑣高の顔を舐めた。
生温かい舌に気持ち悪さを感じた瑣高は少し頭を上げて、正面にいる夜刀神を上目遣いで見た。
『くくっ、小童よ。我の情けでお前の寿命をほんの少しだけ伸ばしてやろう。喜べ、冬までは生きられるぞ。くくっ。小童に流れ込む穢れは我の糧にもなるからな。お前からの供物という事で我からは寿命を施してやるのだ。有り難く思えよ、くくっ』
夜刀神は靄に溶け込み姿が消えていった。
黒い靄が消えたあとは、入った時と同じで何も無い社だった。
瑣高は目を開けていられず、瞼を閉じた。
何も考えられず意識は深い闇の中に落ちていった。




