十一
佳奈恵さんが来る日になった。
つまり汞君に会える日だ。
そんな特別な日でも、私は留守番を言われた。当然だ。他の人にはいつもの日なんだから。
まだ佳奈恵さんから連絡は来ないけど、どうやって抜け出そうかと母屋の縁側で考えながら汞君の家の方を見る。
あと数時間もすれば汞君に会える。
そう思うだけで身体全体が高揚してくる。
早く、早く、汞君に会いたい。
今の私の頭の中は汞君でいっぱいだった。
昼になり、朝に用意した昼食をいつもの広間で食べる。
ののかが冷えた麦茶をコップに注いだ。
清把はおにぎりを取って食べる。
シンプルな塩味だけのおにぎり。絶妙な塩加減が美味しい。
「それにしても清把ちゃん、毎日毎日こんな所にいて退屈じゃないの?」
「全然。私はすごくほっとする」
清把は正直な気持ちを言った。
「えー。毎日いたら飽きるよ。何もないし、毎日手伝いはさせられるし。私は清把ちゃんの方が羨ましいよ」
ののかはおにぎりを片手に持ちながら言う。
「隣の芝生は青い、かもね」
清把は小さく笑いながら答える。
「かもね」
ののかの手前、清把はそう答えたが、本当にこっちで生活をしてもいいのになと思っていたが、田舎暮らしに嫌気がさしているののかに余計な事をいう気はなく、雑談をしながら昼食を終えた。
昼食の片付けを終え、清把はまた縁側へと戻る。ののかは自室に戻った。
さてどうすればここを出れるのかまた考え始めた時。
「清把ちゃん、ごめん。今から私、出かけてもいいかな? 一、二時間ぐらいで帰って来るから」
ののかが部屋から出てきて困った顔をしていた。
「いいよー」
清把は首だけののかの方に向けて答えた。
これはチャンスだ。あれこれと考えずに清把も外に出られるからだ。
「ありがとう、清把ちゃん! あ、もし誰か来ても……」
「うん、留守番だからわからないって言うから大丈夫だよ」
ののかが言い終える前に清把は答えた。
日中、人が来る事はほとんどない。来ても郵便配達の人か、何かの配送業者ぐらいだ。
「あー、もう本当、ごめんねえ」
ののかは謝りながらも顔はとても嬉しそうだ。多分、好きな人からの誘いなのだろう。彼氏はいないが気になる人はいると言っていたから。
バタバタ支度を整え、ののかはメタリックオレンジの軽自動車に乗って出て行った。おそらく三時間ぐらいは帰って来ないだろう。つい最近も同じ様な事があったからだ。
清把は出ていく車に手を振って見送った。車が見えなくなったのですぐに手元の携帯電話で佳奈恵にかける。
「もしもし、佳奈恵さん。清把です」
電話はすぐに繋がった。
「清把ちゃん! 久しぶり。元気だった?」
「はい。佳奈恵さんも元気そうで良かったです。あの、時間が無いのでこれからどうすればいいですか?」
誰も来ないだろうし、来ても留守だとわかれば客は帰っていく。問題は身内が帰って来た時だ。留守番が二人共いないとなれば確実に怒られるからだ。
「ああそうね。ちょっと待って」
保留音が鳴り少し待った後、佳奈恵が出た。
「もしもし、清把ちゃん。あのね、真っ直ぐ歩くと清把ちゃん家のガレージがあるでしょ。その少し後に山に続く細い道があると思うけど、その道をずっと登って。そしたら凛子さんが待ってるからって。わかる、道」
佳奈恵は汞の母親から言われた言葉をそのまま清把に伝えただけだ。だから佳奈恵には、清把がわかるのかわからないのかも、わからない。
「うん、大丈夫。わかるよ。じゃあ今すぐ出ます。……うん、大丈夫ですよ、佳奈恵さん。私もちょっとはこの土地の事はわかるので。……はい、じゃあまた後で」
清把は電話を切るとすぐに離れへと行き、小さめのトートバッグを掴んでまたすぐ出る。歩きながら携帯電話はトートバッグの中に入れ、軽く母屋を見る。開いたままの玄関のガラスの引き戸を閉める。鍵なんて無い。いやあるが、清把は持ってないし、そもそも縁側に戸が無いので仮に玄関の鍵をかけても意味がない。清把は幼い頃からこの習慣だけは泥棒に入られないかと心配で仕方なく、母親に訊けば「田舎はそんなものよ」と流され、伯父達に訊いても母親と同じ返事だった。確かにこんな山奥に空き巣に来る人もいないだろうとは思うが、それでも防犯意識が必要な場所で生活している清把としては、これだけはどうにも受け入れ難かった。
だが今清把は、そんな防犯意識も捨てて留守番を放棄し出て行く。だからもし清把のいない間に何かあったらどうしようかと罪悪感や良心が痛むのだが、汞に会えるとなればその罪悪感や良心などいくらでも捨てられる。
(ああ、私もののかちゃんと一緒だ。好きな人に会えるならちょっと怒られるぐらいどうでもいいや)
普段の清把なら頼まれた事を放棄するなど絶対にしない。するにしても無断で放棄するなどしない。だが今は違う。汞の事なら他の事なんて、心底どうでもいいのだ。
清把は最後に母屋を振り返る。
「ごめんなさい。……いってきます」
清把は小走りで坂を下り、山への小道へと向かった。




