第九章 一人の命
河灯橋の下を流れる水音は、かすかだった。
沈硯は橋の上に立ち、あの銅銭を見つめていた。
蘇晩晴は何も説明しなかった。
ただ、銅銭を強く握りしめている。
「前から知っていたのか?」
沈硯が尋ねた。
「何を?」
「七本の水紋」
蘇晩晴はしばらく黙っていた。
「それが私と関係していることは知っていた」
「いつから?」
「船に縛り上げられたときから」
沈硯は彼女を見た。
「なぜ俺に言わなかった?」
「あなたが信じてくれるか、わからなかったから」
「だから隠した」
「そう」
沈硯は怒らなかった。
ただ、頷いた。
「わかった」
蘇晩晴のほうが、かえって戸惑った。
「聞かないの?」
「何を?」
「私が一体、何者なのか」
沈硯は背を向けた。
「俺が調べる」
「でも、今じゃない」
蘇晩晴は彼の背中を見つめた。
「なぜ?」
沈硯は足を止めた。
「今夜、まだ生きているかもしれない人間がいる」
「誰?」
「さっきの黒衣の男だ」
「追わないの?」
「追わない」
蘇晩晴は眉をひそめた。
「どうして?」
沈硯は川面を見た。
「奴は逃げた」
「でも――」
「逃げたなら、また探せる」
沈硯の声は静かだった。
「奴を捕まえるために、別の誰かを死なせたら、捕まえたところで何の意味がある?」
蘇晩晴は何も言わなかった。
二人が出会って以来、沈硯が初めて自分から口にした言葉だった。
これまでの彼は、いつも事件、証拠、手続きを最優先してきた。
だが今。
彼は、それよりも先に置くものを知り始めていた。
人の命を。
⸻
二人はすぐに、事態が想像以上に深刻であることに気づいた。
河灯橋の下に、小さな船があった。
船頭は船室の中で倒れている。
沈硯が飛び降りた。
「まだ息がある」
周平も急いで後に続いた。
船頭の胸には刀傷があった。
血がすでに衣服を赤く染めている。
蘇晩晴は膝をつき、手で傷口を押さえた。
「早く医者を!」
周平は沈硯を見る。
「あの黒衣の男は……」
「追うな」
沈硯は言った。
「先に人を助ける」
周平は一瞬ためらった。
だが、結局は身を翻して走っていった。
蘇晩晴は顔を上げた。
「本当に逃げられても怖くないの?」
「怖い」
「なら、なぜ追わない?」
沈硯は船頭を見た。
「逃げた奴なら、後で捕まえられる」
「この人が死んだら、もう後はない」
蘇晩晴は俯いた。
そのまま船頭の傷口を押さえ続けた。
それ以上、何も言わなかった。
⸻
医者が到着した頃には、船頭はすでに意識を失っていた。
傷は深い。
医者は長いあいだ傷口を診ていた。
「助かるかどうかは、私には何とも言えません」
沈硯が尋ねる。
「何が必要だ?」
「湯。清潔な布。止血薬」
「すべてある」
「それから、誰かがずっと傷口を押さえていなければならない」
蘇晩晴はすぐに座り込んだ。
「私がやる」
医者は彼女を見る。
「数刻かかるかもしれません」
「わかってる」
「手がかなり痛くなる」
「わかってる」
彼女は手を動かさなかった。
沈硯は傍らに立っていた。
ふと尋ねる。
「知り合いなのか?」
蘇晩晴は首を横に振った。
「知らない人よ」
「なら、なぜ助ける?」
蘇晩晴は意識を失った船頭を見つめた。
「まだ生きているから」
沈硯は一瞬、言葉を失った。
蘇晩晴は小さな声で言った。
「それで十分よ」
⸻
夜が明けようとしていた。
船頭はようやく目を覚ました。
目を開けて最初に口にした言葉は――
「子供……」
沈硯はすぐに近づいた。
「どの子供だ?」
船頭は息を切らしながら答える。
「河……」
「ゆっくり話せ」
「奴らが……子供を河運の倉庫へ……」
沈硯の顔色が変わった。
「どの倉庫だ?」
船頭は手を上げた。
そして城西を指差した。
「第七……」
そこまで言うと、再び意識を失った。
沈硯は立ち上がった。
「周平」
「はい」
「城西へ行け」
周平がすぐに出ようとする。
だが、蘇晩晴が呼び止めた。
「待って」
彼女は沈硯を見る。
「先に一つ聞きたい」
「何だ?」
「なぜ船頭が、あの子供のことを知っているの?」
沈硯は眉をひそめた。
二人は同時に、寝台の上の船頭へ視線を向けた。
もし、この男がただの船頭なら。
なぜ、失踪した少年の行方を知っている?
それに――
なぜ彼は河灯橋にいた?
⸻
半刻後。
船頭は再び目を覚ました。
今度は、少し意識がはっきりしている。
沈硯は寝台の脇に座った。
「名前は?」
「陳……陳旺」
「趙六を知っているか?」
陳旺は目を閉じた。
長い沈黙のあと。
頷いた。
「知っている」
「奴から何かを運ぶよう頼まれたのか?」
「物じゃない」
「では、何だ?」
陳旺は答えなかった。
沈硯は無理に聞き出そうとはしなかった。
ただ言った。
「言いたくないなら、言わなくていい」
陳旺が目を開いた。
「お前たちは……俺を守ってくれるのか?」
沈硯は彼を見た。
「守る」
陳旺は苦笑した。
「昔も、府衙は同じことを言った」
沈硯は黙った。
「その後は?」
「人がいなくなった」
「誰が?」
陳旺は窓の外を見た。
「二十三年前だ」
沈硯の胸が震えた。
「沈家を知っているのか?」
陳旺は頷いた。
「あの頃、俺はまだ若かった」
「関わっていたのか?」
「俺はただ、船を出しただけだ」
「誰を運んだ?」
陳旺は目を閉じた。
「七人だ」
部屋が突然、静まり返った。
蘇晩晴がゆっくりと立ち上がる。
「七人?」
陳旺は頷いた。
「その中に、一人の女がいた」
「沈知遥?」
陳旺は答えなかった。
沈硯が続ける。
「どこへ行った?」
「川の上だ」
「その後は?」
「知らない」
「知らない?」
「船の途中で、俺は降ろされた」
沈硯は彼を見つめた。
「誰に降ろされた?」
陳旺の唇がかすかに震えた。
「沈家の人間だ」
その言葉に、全員が息を呑んだ。
「なぜ沈家の人間がお前を降ろした?」
「奴らが言ったんだ……」
陳旺は一度、唾を飲み込んだ。
「これは逃亡じゃない」
「では、何だ?」
「取引だ」
⸻
蘇晩晴が突然尋ねた。
「誰と取引したの?」
陳旺は首を横に振った。
「知らない」
「では、その七人は?」
「知らない」
「沈知遥は?」
陳旺は長いあいだ黙っていた。
やがて、口を開いた。
「彼女は船に乗っていない」
沈硯の目つきが変わった。
「どういうことだ?」
「七人の中には、本来なら彼女もいるはずだった」
「だが、彼女はいなかった」
「では、誰が乗った?」
陳旺は答えなかった。
手が突然、震え始めた。
「言えない」
沈硯は彼を見た。
「なぜ?」
「ある人と約束した」
「誰と?」
「彼女に頼まれた」
「何を約束した?」
陳旺は沈硯を見る。
「何があっても、その人の名前を口にしない」
沈硯は黙った。
だが蘇晩晴が、ふと口を開いた。
「なら、言わなくていい」
陳旺は呆然と彼女を見た。
蘇晩晴は続けた。
「あなたは、その人と約束したのでしょう?」
「だから、私たちに問い詰められたからといって、約束を破るべきじゃない」
沈硯が彼女を見る。
蘇晩晴は彼を見なかった。
ただ、続ける。
「約束が、自分に都合のいい時だけ守ればいいものなら、それは約束じゃない」
陳旺は彼女を見つめた。
その目が、初めて変わった。
「お前は……それを信じるのか?」
「信じる」
「たとえ、その人が悪人でも?」
蘇晩晴はしばらく黙った。
「もし、その人があなたに人を殺せと言ったのなら、私は守らせない」
「誰かを傷つけろと言われても、同じよ」
「でも、ただ一つの名前を守るだけなら」
彼女は陳旺を見つめた。
「それは、あなた自身が選ぶことよ」
沈硯は何も言わなかった。
ただ、蘇晩晴を見る目が変わっていた。
その瞬間、彼は初めて、彼女が言う「約束」というものを本当の意味で理解した。
盲目的に守ることではない。
ただ――
その約束自体が誰かを傷つけるものでないのなら、誠実に果たすべきものなのだ。
⸻
陳旺は結局、その名前を口にしなかった。
沈硯も無理に聞き出さなかった。
だが、彼は別のことを一つ教えた。
「趙六は、あの子供を知っていた」
「どの子供?」
「お前たちが探している子だ」
「なぜ趙六が助けた?」
陳旺は目を閉じた。
「趙六も、ある人と約束していたからだ」
「誰と?」
「その女だ」
沈硯と蘇晩晴は同時に黙り込んだ。
また一つ、約束。
また一人、女。
そして、また二十三年前。
すべての手掛かりが、再び同じ場所へ戻っていく。
⸻
その夜。
沈硯が府衙へ戻ると、周平が待っていた。
「沈推官」
「少年は?」
「まだ後院にいます」
「無事か?」
「無事です」
沈硯は安堵した。
だが、周平は一通の手紙を取り出した。
「先ほど、誰かが届けてきました」
沈硯は開いた。
今度は隠された文字ではなかった。
一文だけ。
――
「少年を助けたいなら、今夜の子の刻、下役を一人も連れてくるな」
その下には、もう一行。
「さもなくば、あの子は死ぬ」
周平は読み終えると尋ねた。
「どうします?」
沈硯は答えなかった。
蘇晩晴が門口に立っていた。
彼女も手紙を見た。
「行ってはだめ」
沈硯は顔を上げた。
「なぜ?」
「下役を連れてくるなと言っている」
「それで?」
「つまり、私たちが行くと知っている」
「罠かもしれない」
「罠よ」
沈硯は頷いた。
「なら、少年はどうする?」
蘇晩晴は黙った。
「行かないという選択もある」
「その後は?」
「……」
「行かなければ、あの子は死ぬかもしれない」
蘇晩晴は顔を上げた。
「行けば、死ぬのは私たちかもしれない」
「少なくとも、助けられる可能性はある」
「沈硯」
蘇晩晴の声が強くなった。
「一人の子供のために、全員を巻き込むことはできない」
沈硯は彼女を見る。
「全員を連れて行くとは言っていない」
「一人で行くつもり?」
「ああ」
「駄目」
「なぜ?」
「あなたも死ぬかもしれないから」
沈硯は小さく笑った。
「君も俺を心配することがあるんだな」
蘇晩晴は笑わなかった。
「冗談じゃない」
「俺も冗談じゃない」
沈硯は立ち上がった。
「十二歳の子供が、誰かに連れ去られた」
「その子には、選択肢がない」
「俺たちにはある」
「だからこそ、行くべきなんだ」
蘇晩晴は沈硯を見つめた。
「もし、今回のことがあなた自身だったら?」
沈硯は答えなかった。
「もし、捕らえられたのがあなたなら」
蘇晩晴は続けた。
「自分を助けるために、罠だとわかっていても入ってきてほしい?」
「そうだ」
「なぜ?」
「俺は、そこで死にたくないからだ」
蘇晩晴は一瞬、呆然とした。
沈硯は彼女を見る。
「だから、他の人をそこに置き去りにもできない」
二人は長いあいだ黙っていた。
やがて。
蘇晩晴が小さく息を吐いた。
「わかった」
「約束するのか?」
「一緒に行く」
沈硯は首を横に振った。
「俺一人で行く」
「嫌」
蘇晩晴は彼を見つめた。
「さっきあなたが言ったでしょう」
「私たちには、選択肢がある」
「だから私は、あなたと一緒に行くことを選ぶ」
沈硯は、もう拒まなかった。
ただ袖の中から、一枚の銅銭を取り出した。
そして机の上に置く。
「なら」
「約束をしよう」
蘇晩晴は銅銭を見る。
「どんな約束?」
「今夜、何が起きても」
「まず子供を助ける」
「危険に遭ったら?」
「退く」
「相手が子供を人質にして脅してきたら?」
「それでも、まず子供を助ける」
「一人しか助けられないとしたら?」
二人は同時に黙った。
初めて、この問いに向き合った。
長い沈黙のあと。
沈硯が言った。
「子供だ」
蘇晩晴は頷いた。
「子供」
二人は、大仰な誓いを立てたわけではない。
ただ、簡単な約束を交わした。
まだ生きている人間を、どうにかできる限り、自分たちの目の前で死なせない。
⸻
子の刻。
二人は城西へやって来た。
下役は連れていない。
護衛もいない。
二人だけだった。
遠くの倉庫には明かりがない。
だが、扉は開いていた。
中から、子供の泣き声が聞こえる。
蘇晩晴が足を止めた。
沈硯は刀を握りしめる。
「入るか?」
「入る」
二人が中へ足を踏み入れた、その瞬間。
倉庫の扉が轟音とともに閉じた。
突然、火の光が灯る。
周囲で同時に松明が燃え上がった。
暗闇から、何十人もの人影が現れる。
そして倉庫の中央。
あの十二歳の少年が、柱に縛りつけられていた。
その傍らに、一人の男が立っている。
昼間の、あの灰衣の男だった。
男は沈硯を見る。
そして笑った。
「沈推官」
「お帰りなさい」
沈硯は何も言わなかった。
男はゆっくりと手を上げた。
その手には、一枚の銅牌が握られている。
完全な形の銅牌。
七本の水紋。
そして、三つの文字。
――沈知遥。
男は言った。
「さて」
「二十三年前のことを、話し合おうじゃないか」




