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河灯未明  作者: 亀


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第十章 旧き契り

松明が、一つ、また一つと灯された。


倉庫の中が、一気に昼間のように明るくなる。


沈硯は入口に立ったまま、それ以上は進まなかった。


蘇晩晴も足を止めた。


十二歳の少年は柱に縛られ、口には布を詰められている。

その顔は涙で濡れていた。


灰色の衣を着た男が、その隣に立っている。


その手にあるのは、一枚の完全な銅牌。


七道の水紋。


そして三つの文字。


沈知遥。


沈硯はその銅牌を見つめた。


「何が欲しい?」


男が笑った。


「沈推官は、噂どおり賢い方だ」


「何が欲しいと聞いている」


「私が欲しいんじゃない」


男は首を横に振った。


「誰かが、あなたに知ってほしいのだ」


「誰だ?」


男は答えなかった。


ただ、銅牌を裏返した。


その裏に刻まれた小さな文字を見て、沈硯の顔色が初めて変わった。


そこに刻まれていたのは、沈知遥ではない。


――沈家第七契。


蘇晩晴も、それを見た。


「契……?」


男が笑う。


「蘇姑娘も知っているようだな」


蘇晩晴は答えなかった。


沈硯が尋ねる。


「何の契約だ?」


男はすぐには説明しなかった。


ただ、少年のそばまで歩いていく。


「二十三年前、沈家は全部で七つの契約を結んだ」


「一つ目は、土地」


「二つ目は、河運」


「三つ目は、金銭」


「四つ目は、人」


沈硯の目が鋭くなる。


「五つ目は?」


「五つ目は、身分」


「六つ目は、死」


男は一度言葉を切った。


「そして七つ目は……」


「生きることだ」


倉庫の中が静まり返った。


沈硯は刀の柄を強く握った。


「何を言っている?」


男は答えなかった。


代わりに尋ねた。


「沈推官。あなたの父親は、昔、あなたに話さなかったのか?」


沈硯の身体がわずかに強張る。


「何をだ?」


「なぜあなたが府衙に入ったのか」


沈硯は男を見つめた。


男は笑った。


「本当に思っているのか?」


「あなたの父親が、ただあなたに推官になってほしかっただけだと」


その瞬間。


二十三年前の沈家旧宅と、沈硯自身の過去が、一本の線でつながった。


⸻


沈硯の父は、沈懐川という。


南陵の人間だった。


一生、大きな官職に就いたことはない。


朝廷に入ったことすらない。


ただの一人の県吏だった。


若い頃は、主に公文書や事件記録の整理を担当していた。


その後、ある事件をきっかけに南陵府へ異動した。


幼い頃の沈硯には、父親のことがよく分からなかった。


彼の記憶の中で、父はほとんど口を開かなかった。


仕事から帰ると、いつも何度も手を洗っていた。


特に冬になると、手の甲はひび割れていた。


母が理由を尋ねたこともある。


父はいつも、こう答えるだけだった。


「紙に墨がついているからだ」


幼い沈硯は、それを信じていた。


だが十六歳になった年。


父が重い病に倒れた。


死の間際、父は沈硯を枕元へ呼んだ。


その夜は雨だった。


沈硯は今でも覚えている。


父は枕の下から古びた木箱を取り出した。


中に金はなかった。


入っていたのは、一冊の薄い冊子だけだった。


父は言った。


「いつか、お前が官になるなら」


沈硯は尋ねた。


「何の官に?」


父は少し笑った。


「何でもいい」


「ただ、一つだけ」


父は沈硯の手を握った。


「死者の代わりに話すな」


少年だった沈硯は、戸惑った。


「どうして?」


父は首を横に振った。


「死者は答えてくれない」


「お前は、生きている人間のために話せ」


あの時の沈硯には、その意味が分からなかった。


だが父は死ぬ直前、もう一言だけ残した。


「もし、いつか」


「律法と、一人の命が、別々の側に立つことがあったら」


「覚えておけ」


「先に人を救え」


それが沈硯が初めて聞いた言葉だった。


そして後に、彼が推官になることを選んだ理由でもあった。


沈硯はずっと、それを父親が死の間際に息子へ残した、ただの言葉だと思っていた。


だが今日になって初めて知った。


もしかすると父は、二十三年前に起きたことを、最初から知っていたのかもしれない。


⸻


「あなたの父親は、何も教えなかったんだな」


灰衣の男の声が、沈硯を現実へ引き戻した。


沈硯は顔を上げる。


「お前は父を知っているのか?」


「知っている」


「どこで会った?」


「私が会ったんじゃない」


男は薄く笑った。


「父上のほうが、私を見たのだ」


沈硯はそれ以上尋ねなかった。


この男が簡単に答えるはずがないと分かっていたからだ。


沈硯は縛られた少年を見る。


「まず、子供を放せ」


「いいだろう」


男は答えた。


「だが、一つ約束してもらう」


「何だ?」


「今夜を最後に、沈家旧案を調べないことだ」


沈硯は答えなかった。


代わりに蘇晩晴が口を開いた。


「もし、彼が約束したら?」


男が彼女を見る。


「当然、子供は放す」


「契約?」


蘇晩晴が尋ねた。


男は一瞬、怪訝な顔をした。


「何?」


「さっきから、あなたは契約の話ばかりしている」


蘇晩晴は男をまっすぐ見つめた。


「なら、私たちも一つ契約を結びましょう」


男が笑う。


「何を契約する?」


「あなたは子供を放す」


「私たちは沈家旧案を調べない」


「その代わり、あなたは他の人間を傷つけない」


男はすぐには答えなかった。


蘇晩晴は続けた。


「受け入れられないのなら」


「あなたが今まで話した契約も、ただの嘘ということになります」


男の笑みが、ゆっくりと消えていった。


そして初めて、彼は蘇晩晴を真剣に見た。


「お前は、ある人間によく似ている」


蘇晩晴の顔色がわずかに変わる。


「誰に?」


男は答えなかった。


その時。


倉庫の外から、馬蹄の音が聞こえてきた。


男の顔色が変わる。


「誰か来た」


沈硯にも聞こえた。


一頭ではない。


少なくとも十数人。


男は倉庫の奥を見る。


「お前たち、下役は連れてきていないんじゃなかったのか?」


沈硯は答えなかった。


男はすぐに気づいた。


「下役じゃない……」


沈硯は蘇晩晴を見る。


蘇晩晴も首を横に振った。


彼女にも、誰なのか分からない。


⸻


次の瞬間。


倉庫の側壁が突然、内側へと突き破られた。


十数人の男たちが、一斉に中へ入ってくる。


先頭に立っているのは、五十歳ほどの男だった。


濃い青色の長袍を着ている。


刀は帯びていない。


だが、その後ろには十数人の護衛が従っていた。


灰衣の男は、その姿を見た瞬間、顔色を変えた。


「なぜ、お前が来た?」


青袍の男は答えなかった。


ただ、縛られた少年を見る。


「放せ」


灰衣の男が冷笑する。


「何の権利がある?」


「お前が何者なのか、知っている」


倉庫の中が、一瞬で静まり返った。


青袍の男は沈硯を見る。


「沈推官」


「ここへ来るべきではなかった」


沈硯が尋ねる。


「あなたは何者だ?」


男は答えなかった。


代わりに蘇晩晴へ視線を向けた。


長い間、彼女を見つめる。


そして、静かに言った。


「その女は生かしておけない」


沈硯の目が冷たくなる。


「なぜだ?」


「彼女は、蘇晩晴ではない」


蘇晩晴はそこに立ったまま。


否定しなかった。


沈硯は彼女を見る。


「どういう意味だ?」


青袍の男はゆっくりと言った。


「彼女の本当の名前は――」


「沈知遥だ」


空気が、凍りついたように静まった。


沈硯は動かなかった。


蘇晩晴も動かなかった。


ただ、あの十二歳の少年だけが突然泣き出した。


灰衣の男が笑う。


「ついに言ったな」


青袍の男の顔が険しくなる。


「黙れ」


沈硯は蘇晩晴を見つめた。


「本当なのか?」


蘇晩晴は答えなかった。


ただ、沈硯を見ていた。


長い沈黙のあと。


彼女が尋ねた。


「もし、本当だったら」


「あなたはどうする?」


沈硯はすぐには答えなかった。


これが、彼にとって初めて本当の意味で向き合う問題だった。


もし彼女が本当に沈知遥なら。


二十三年前のあの火事から生き残った、唯一の人間かもしれない。


そして、この事件における最も重要な証人でもある。


だが同時に――


彼女こそが、二十三年前のあの取引に関わっていた人間である可能性もある。


沈硯はゆっくりと言った。


「真相を調べる」


蘇晩晴の目が、わずかに動いた。


「それだけ?」


「そうだ」


「もし、最後に私が悪人だと分かったら?」


「捕らえる」


「もし、無実だったら?」


「守る」


蘇晩晴は沈硯を見つめた。


そして、ふっと笑った。


「分かった」


「あなたを信じる」


今度は沈硯のほうが、言葉を失った。


⸻


青袍の男が突然、刀を抜いた。


沈硯に向けたのではない。


蘇晩晴に向けてだった。


刀光が走る。


沈硯はほとんど考えることなく、蘇晩晴の前へ身を投げ出した。


刃が、彼の腕を切り裂いた。


血が一気に流れ出す。


蘇晩晴が沈硯の身体を支える。


「何をしてるの?」


沈硯は歯を食いしばった。


「あいつは、お前を殺そうとした」


「だから?」


「だから、見ているわけにはいかない」


蘇晩晴は、彼の腕から流れる血を見つめた。


初めて、何も言わなかった。


沈硯の脳裏に、父が死の間際に残した言葉が浮かぶ。


――


もし、いつか。


律法と、一人の命が、別々の側に立つことがあったら。


先に人を救え。


沈硯はこれまでずっと、その言葉を父親個人の選択だと思っていた。


だが今になって、ようやく分かった。


もしかすると、それは父が一生をかけて守った信念だったのかもしれない。


⸻


混乱の中。


灰衣の男が突然、少年を縛っていた縄を解いた。


「行け!」


男は少年を沈硯のほうへ押し出した。


沈硯は少年を受け止める。


そして顔を上げた時には。


灰衣の男は、すでに消えていた。


青袍の男も、部下を連れて入口まで退いている。


去り際、男はもう一度、蘇晩晴を振り返った。


「二十三年前の契約は、まだ終わっていない」


「一生、逃げ続けることはできないぞ」


蘇晩晴は答えなかった。


倉庫が再び静まり返る。


彼女はようやく、ゆっくりと地面に座り込んだ。


沈硯は彼女を見る。


「本当に、沈知遥なのか?」


蘇晩晴は俯いた。


しばらくして。


小さな声で答えた。


「分からない」


「分からないとは、どういう意味だ?」


「覚えていることが、ほとんどないの」


「火」


「河」


「一人の女」


「それから、ある人が私に言った」


蘇晩晴は顔を上げた。


「もし誰かに名前を聞かれたら」


「こう答えろって」


「私の名前は、蘇晩晴だと」


沈硯は何も言わなかった。


蘇晩晴は彼を見る。


「だから、もう分かったでしょう?」


「私は、あなたを騙そうとしたんじゃない」


「本当に、自分が誰なのか分からないの」


沈硯は長い間、黙っていた。


そして、最後に言った。


「なら、今から調べよう」


蘇晩晴は一瞬、呆気に取られた。


「何を?」


「お前が誰なのか」


「そして、沈知遥が誰なのか」


「二十三年前に、何が起きたのかも」


蘇晩晴は沈硯を見る。


「もし、最後に分かったら」


「私が、彼らの言っている人間だったら?」


沈硯は立ち上がった。


「その時は、向き合う」


「もし、違っていたら?」


「その時は、お前に本当の名前を返す」


蘇晩晴は何も言わなかった。


ただ、沈硯を見つめていた。


長い沈黙のあと。


彼女は手を差し出した。


「じゃあ、もう一度、約束しない?」


沈硯はその手を見る。


「どんな約束だ?」


「最後に何が分かったとしても」


「真相が明らかになる前に、誰も相手の結論を決めつけない」


沈硯は手を差し出した。


二人の手が、静かに重なった。


「分かった」


今度は。


銅銭もない。


契約書もない。


第三者の証人もいない。


ただ二人だけ。


そして、まだ答えの分からない、一つの約束だけがあった。


倉庫の外では。


夜が明けようとしていた。


誰も気づかなかった。


いつの間にか、あの完全な銅牌が地面に落ちていたことを。


その裏面が、上を向いている。


「沈家第七契」の下に。


これまで誰にも見つけられなかった、小さな文字がもう一行刻まれていた。


――


立約之人:沈懐川。

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