第八章 それぞれの答え
秦検視役が姿を消したあとも、沈硯はすぐには府衙へ戻らなかった。
一人、沈家の旧宅の外に立っていた。
夜はすでに深い。
塀の上の雑草が、風に吹かれてかすかに揺れている。
沈硯の手には、あの半分の銅牌が握られていた。
銅牌は重くない。
それなのに沈硯は初めて、それが刀よりも重いものに感じられた。
秦検視役が口にした言葉。
――もう会っている。
もし、それが蘇晩晴のことなら、どういう意味なのか?
彼女は二十三年前に生き残った者なのか?
それとも、生き残った者を知っているのか?
あるいは……。
秦検視役こそが、わざと自分を間違った方向へ誘導しているのか?
沈硯は目を閉じた。
しばらくして、銅牌を袖の中へしまった。
「周平」
「はい」
「今夜のことは、誰にも話すな」
周平は一瞬、戸惑った。
「蘇姑娘にもですか?」
沈硯は少し黙った。
「彼女にもだ」
⸻
翌朝。
蘇晩晴がやって来た。
彼女は府衙の門前に立ったまま、中へは入らなかった。
沈硯が出てくると、彼女は開口一番、こう言った。
「昨夜、沈家の旧宅へ行ったでしょう」
問いではなかった。
確信だった。
沈硯は彼女を見る。
「誰から聞いた?」
「誰からも」
「なら、なぜわかる?」
「秦検視役が昨夜、私のところへ来たから」
沈硯の目つきが変わった。
「いつだ?」
「あなたが出て行ったあと」
「何と言っていた?」
「もう調べるな、と」
沈硯は彼女を見つめた。
「彼を信じたのか?」
「いいえ」
「なぜ?」
蘇晩晴は沈硯を見た。
「彼が言ったことが、あなたが前に私へ言ったことと同じだったから」
沈硯は黙っていた。
「あなたたちは二人とも、私に調べるなと言う」
蘇晩晴は続けた。
「でも、なぜなのかは誰も教えてくれない」
沈硯は初めて、その言葉が胸に刺さるように感じた。
その通りだった。
自分は確かに、彼女へ何も話していない。
「何を知りたい?」
「全部」
「全部とは?」
「あなたが、なぜ私を疑い始めたのか」
沈硯は黙った。
蘇晩晴が彼を見る。
「あの紙でしょう?」
「そうだ」
「それで、私の何を疑っているの?」
「わからない」
「わからないのに、なぜ疑うの?」
沈硯はすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「捜査だからだ」
「捜査では、誰も信じてはいけない」
蘇晩晴は薄く笑った。
その笑みは、ほとんど表情と呼べないほど淡かった。
「ずいぶん賢そうに聞こえる言葉ね」
「でも、私は好きじゃない」
沈硯は眉を寄せた。
「なぜ?」
「誰も信じるに値しないのなら、最後に残るのは証拠の山だけだから」
「真実じゃない」
沈硯は彼女を見る。
「証拠は、真実に近づくためのものだろう?」
「そう」
蘇晩晴は頷いた。
「でも、証拠を残したのも人よ」
彼女は顔を上げた。
「人がなぜ証拠を残したのかを見ようともしないなら、最後にあなたが信じるのは、誰かが信じさせたいものかもしれない」
今度は沈硯が黙り込んだ。
⸻
二人は結局、一緒に府衙へ入った。
だが、以前とは空気が違っていた。
これまでのように、すべての情報を互いに伝えることはなくなった。
沈硯は銅牌のことを彼女に話さなかった。
蘇晩晴も、秦検視役が具体的にどこへ行ったのかを話さなかった。
二人とも、情報を手元に残し始めた。
決裂したわけではない。
ただ、初めて本当の警戒が生まれた。
⸻
昼過ぎ。
沈硯は人を連れて義荘へ向かった。
趙六の遺体は、いまだ見つかっていない。
秦検視役も戻っていなかった。
沈硯は周平に、義荘の記録簿をもう一度調べさせた。
すると、思いがけないことがわかった。
趙六の名は、あとから書き足されたものだった。
もともとのその頁には、趙六の名などなかった。
周平が墨跡を指差す。
「沈推官、この二文字だけ、隣の字より新しいです」
沈硯はしばらく見つめた。
「誰かがあとから書き足した」
「では、趙六はそもそも義荘に運び込まれていなかった?」
「そうとは限らない」
沈硯は首を振った。
「遺体は運び込まれたが、記録されなかった可能性もある」
「なぜ?」
「この遺体を記録に残したくない者がいたからだ」
周平が突然尋ねた。
「それなら、なぜあとから書き足したんでしょう?」
沈硯は答えなかった。
ただ、その二文字を見つめていた。
突然、事態は自分が思っていた以上に厄介なのかもしれないと思った。
誰かが記録を作っている。
そして別の誰かが、その記録を書き換えている。
自分たちが見ているものは、どの一つを取っても、最初からその形だったとは限らない。
⸻
そのときだった。
若い下役が駆け込んできた。
「沈推官!」
「何だ?」
「趙六が見つかりました」
沈硯はすぐに立ち上がった。
「どこだ?」
「城南の河原です」
⸻
遺体が発見されたのは、午後になってからだった。
川の水位が下がり、趙六の遺体は二つの岩の間に挟まっていた。
衣服は水に浸かり、白く変色している。
周囲には野次馬が数人集まっていた。
沈硯は全員を下がらせた。
検視役は来ていない。
仕方なく、周平に手伝わせて調べることになった。
「目立った外傷はありません」
周平が言う。
沈硯はしゃがみ込んだ。
「顔色がおかしい」
「溺死のようにも見えます」
「まだ決めつけるな」
沈硯は手を調べた。
爪の中には泥が入っている。
だが、掌には何もない。
誰かに川まで引きずられたのなら、抵抗した痕跡がもっと残っているはずだ。
沈硯は趙六の手首を返した。
そのとき、細い縄の跡に気づいた。
「ここだ」
周平が顔を寄せる。
「縄ですか?」
「おそらくな」
沈硯は立ち上がった。
「自分で川に落ちたんじゃない」
そのとき。
人混みの中から突然、声が上がった。
「こいつは酔っ払って川に落ちたんだ!」
全員がそちらを見る。
中年の男が、人垣の後ろに立っていた。
「俺は昨夜、こいつが酒を飲んでいるのを見た」
「どこで?」
男は一瞬、言葉に詰まった。
「それは……」
沈硯は男を見つめた。
「どこで見た?」
男は一歩後ずさった。
「酒場だ」
「どこの酒場?」
男は答えなかった。
周平が一歩前へ出る。
「言え」
男は突然、背を向けて走り出した。
周平が追いかける。
人々は一斉にざわめき始めた。
だが、沈硯は追わなかった。
彼は趙六の遺体を見下ろした。
そして、あることに気づいた。
趙六の右手が、何かを強く握りしめている。
沈硯はゆっくりと指を開いた。
中にあったのは、小さな紙片だった。
すでに川の水でふやけている。
それでも、まだ一文字だけ読めた。
――「南」
沈硯は紙片をしまった。
その瞬間、彼は突然気づいた。
なぜ奴らは趙六の遺体を川へ捨てたのか。
遺体を隠すためではない。
もっともらしい死因を作るためだ。
酔って川へ落ちた。
事故死。
それで事件は終わる。
一人の人足に起きたことなら、その説明はあまりにも受け入れられやすい。
沈硯は河原に立っていた。
これまでの彼は、証拠をすべて集めれば、真実は自然と姿を現すと思っていた。
だが今、初めて強い違和感を覚えていた。
時に最も危険なのは、証拠がないことではない。
それは――
誰かがあらかじめ、全員のために一つの「もっともらしい答え」を用意していることだった。
⸻
夕暮れ。
蘇晩晴は一人、古びた茶屋へやって来た。
店の一番奥の席に座る。
向かいには笠をかぶった男。
秦検視役だった。
「来るべきではなかった」
秦検視役が言う。
蘇晩晴は茶を一杯注いだ。
「昨日、調べるなと言ったでしょう」
「ああ」
「聞かなかったわ」
秦検視役は彼女を見る。
「なぜ?」
「誰かに私の行動を決められるのが嫌いだから」
秦検視役はしばらく黙った。
「沈硯がお前を疑っていることは知っているか?」
蘇晩晴は答えなかった。
「なぜ疑っているかも?」
「知っている」
「それでも、なぜ離れない?」
蘇晩晴は目を上げた。
「彼が最後に何を信じるのか、知りたいから」
秦検視役は彼女を見つめた。
「もし、彼が君ではなく、証拠を選んだら?」
「選ばせればいい」
「怖くないのか?」
「怖い」
蘇晩晴は静かに答えた。
「でも、私を信じるために、証拠すら見ようとしなくなるほうが怖い」
秦検視役の表情が、初めてわずかに変わった。
「お前は変わったな」
「変わってない」
蘇晩晴は首を横に振った。
「ただ、昔の私は失うものが何もなかった」
彼女は茶杯を置いた。
「今は、ある」
秦検視役は何も尋ねなかった。
だが、彼女が誰のことを言っているのかは、もうわかっていた。
⸻
その頃。
府衙では、沈硯がすべての記録をもう一度整理していた。
趙六。
失踪した少年。
七号埠頭。
青い布。
七本の水紋。
沈知遥。
二十三年前の火事。
河運の旧記録。
義荘。
秦検視役。
すべての手掛かりを紙に書き出す。
そして線で結んでいく。
だが、線を増やすほど、事態は混乱していった。
ついに沈硯は、すべての線を引き消した。
残したのは三つの名前だけ。
趙六。
沈知遥。
蘇晩晴。
沈硯は、その三つの名前を見つめた。
そして突然、これまで一度も考えたことのなかった疑問が浮かんだ。
なぜ、すべての出来事が「消えた人間」と結びついている?
趙六は死んだ。
少年は一度、姿を消した。
沈知遥も行方不明になった。
そして蘇晩晴は――
川から救い上げられた。
その瞬間、一つの考えが沈硯の頭をよぎった。
彼はすぐに立ち上がった。
「周平!」
周平が駆け込んでくる。
「どうしました?」
「趙六の遺体を調べろ」
「もう義荘に運ばれています」
「遺体じゃない」
沈硯は首を振った。
「靴を調べろ」
「靴?」
「そうだ」
沈硯は記録を指差した。
「俺たちはずっと、誰が趙六を殺したのかを調べている」
「だが、もし趙六が死ぬ前に、七号埠頭へ行っていたとしたら?」
周平は目を見開いた。
「なら、靴底には石灰が付いているはずです」
沈硯は頷いた。
「見てこい」
周平が出ていこうとした。
そのとき、一人の下役が突然駆け込んできた。
「沈推官!」
「今度は何だ?」
「蘇姑娘がいなくなりました」
沈硯の顔色が一瞬で変わった。
「いつだ?」
「半刻ほど前です」
「どこへ行った?」
「わかりません」
下役は一枚の紙を差し出した。
そこには一文だけ書かれていた。
――
「蘇晩晴が誰なのか知りたければ、今夜、河灯橋へ来い」
沈硯はその紙を見つめた。
長い沈黙のあと。
ふっと笑った。
喜びから出た笑みではない。
ようやく、何かを理解したのだ。
「向こうも、とうとう焦り始めた」
周平が尋ねる。
「誰がです?」
沈硯は紙をしまった。
「俺に蘇晩晴を調べさせたいんじゃない」
「俺に、彼女を恐れさせたいんだ」
彼は窓の外を見た。
「この二つは、同じじゃない」
⸻
夜が訪れた。
河灯橋の上。
蘇晩晴は一人、橋の中央に立っていた。
川の水が、ゆっくりと流れている。
彼女の手には、一枚の銅銭が握られていた。
遠くから。
一人の黒衣の男が、ゆっくりと歩いてくる。
「来たか」
蘇晩晴は振り返らない。
「あなたが来いと言ったんだから、来るわ」
「私が誰か、聞かないのか?」
「重要じゃない」
黒衣の男が小さく笑った。
「相変わらずだな」
蘇晩晴の身体が、わずかに強張った。
「私を知っているの?」
「知っている」
「いつから?」
「ずっと昔からだ」
蘇晩晴が振り返る。
だが、黒衣の男はすでに橋の下へ退いていた。
残されたのは、一言だけ。
「本当に、自分があの火事から逃げ延びたと思っているのか?」
蘇晩晴の顔色が、瞬時に変わった。
そのとき。
橋の反対側から。
沈硯が駆けつけた。
彼は蘇晩晴を見た。
そして、橋の下を離れていく黒い影も見た。
だが、すぐには追わなかった。
ただ、その場に立っていた。
なぜなら、彼は突然気づいたからだ。
蘇晩晴の手にある、あの銅銭。
沈家の旧宅で見つけた銅牌と――
同じ紋様だった。
七本の弧線。
ただし、銅銭の裏には。
二つの文字が刻まれていた。
――
「第七」
沈硯は蘇晩晴を見つめた。
蘇晩晴も、沈硯を見つめ返した。
二人とも、何も言わなかった。
この瞬間。
二人は初めて、本当の意味で気づいた。
自分たちが調べていたのは、最初から別々の二つの事件ではなかったのかもしれない。
同じ一つの事件だった。
ただ、二十三年前には、それは「沈家」と呼ばれていた。
そして二十三年後。
それは別の名前に変わった。
その名前は――
蘇晩晴。




