↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
河灯未明  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/51

第七章 信じてはならない人

その紙は、長いあいだ机の上に置かれていた。


誰も口を開かなかった。


中庭から風が吹き込み、紙の端をそっと持ち上げる。


沈硯は手を伸ばし、紙を押さえた。


「この言葉、見たことがあるか?」


蘇晩晴は首を横に振った。


「ない」


「この字を書いた人を知っているか?」


「知らない」


「こういう薬水を使って字を書く人間に、心当たりは?」


「ない」


彼女は即座に答えた。


沈硯は彼女を見つめた。


今度は、すぐには信じなかった。


蘇晩晴もそれに気づいた。


怒ることはなかった。


ただ、尋ねた。


「私を疑っているの?」


「今は、全員を疑っている」


「私も?」


「君もだ」


蘇晩晴は頷いた。


「そうすべきね」


彼女はそれ以上、弁解しなかった。


代わりに振り返り、少年に尋ねる。


「さっき言っていた女の人は、どんな姿だった?」


少年はしばらく考えた。


「帽子をかぶってた」


「何歳くらい?」


「わからない」


「声は?」


「すごく小さかった」


「何か特徴は?」


少年は首を横に振った。


蘇晩晴はさらに尋ねた。


「その人、あなたに触れた?」


少年は一瞬、戸惑った。


「頭を撫でられた」


「左手? それとも右手?」


「左手」


蘇晩晴は黙り込んだ。


沈硯が尋ねる。


「なぜ、そこを聞く?」


「別に」


彼女は立ち上がった。


「その女を探しましょう」


沈硯は動かなかった。


「居場所がわかるのか?」


「わからない」


「じゃあ、どうやって探す?」


「趙六から」


沈硯は彼女を見る。


「趙六は、その女を知っていたと思うのか?」


「知っていたんじゃない」


蘇晩晴は言った。


「向こうが趙六を知っていたのよ」


⸻


二人は再び趙六の家へ戻った。


すでに日は落ちている。


近所の家々は、ほとんどが戸を閉めていた。


ただ、趙六の隣に住む老婆だけが、まだ門口に座っていた。


沈硯が尋ねる。


「この数日、趙六を訪ねてきた女はいなかったか?」


老婆は少し考えた。


「いたよ」


「いつ?」


「趙六が死ぬ二日前だ」


「どんな姿だった?」


「笠をかぶっていた」


「服は?」


「青い服だった」


蘇晩晴が尋ねる。


「家の中には入った?」


「入ってない」


「何を話していた?」


老婆は眉をひそめた。


「よく聞こえなかった」


「何か聞こえたことは?」


「趙六に、何かを渡すよう言っていたみたいだ」


「何を?」


「わからない」


「趙六は何と答えた?」


老婆は言った。


「確か……」


そこで言葉を止めた。


沈硯はしばらく待った。


「何と言った?」


「その物は、もう自分の手元にはない、と」


蘇晩晴が尋ねる。


「それから?」


「女は、そのまま帰った」


「どちらへ?」


老婆は裏手の路地を指差した。


「あっちだ」


沈硯と蘇晩晴は顔を見合わせた。


趙六の家の裏口と、同じ方向だった。


⸻


裏路地は狭かった。


両側を古い壁に挟まれている。


地面には、まだ乾いていない水たまりがいくつか残っていた。


沈硯はしゃがみ込んだ。


泥の中に、足跡がある。


深いものと、浅いもの。


蘇晩晴もしゃがんだ。


「かなり急いで歩いている」


沈硯は首を横に振った。


「違う」


「何が?」


「わざと急いでいる」


蘇晩晴が彼を見る。


沈硯は足跡を指差した。


「左足の跡のほうが深い」


「つまり?」


「左足を怪我しているか、靴の中に何かを仕込んでいる」


蘇晩晴はしばらく足跡を見つめた。


「わざと残した可能性もある」


沈硯は彼女を見る。


「すべての手掛かりが偽物だと思うのか?」


「そうじゃない」


「なら、なぜ?」


「整いすぎているから」


蘇晩晴は立ち上がった。


「さっき私たちは、趙六の家の裏口を見つけた」


「今度は、この足跡まで見つかった」


「答えに近づいたと思うたびに、次の手掛かりが現れる」


彼女は暗い路地を見つめた。


「誰かが逃げているようには見えない」


「むしろ、誰かが私たちを案内しているみたい」


沈硯は何も言わなかった。


認めざるを得ない。


今の蘇晩晴の言葉には、筋が通っていた。


⸻


二人は趙六の家へ戻った。


沈硯は、もう一度部屋を調べ始めた。


机。


寝台。


竈。


壁際。


一つ残らず調べていく。


やがて、彼は趙六の寝台の下にあった木箱を開けた。


中には古着。


破れた靴が一足。


何枚かの借用証文。


そして、一枚の布。


沈硯は布を取り出した。


赤い布だった。


蘇晩晴が一目見る。


「青い布じゃない」


「ああ」


沈硯は布を広げた。


中央には、針で縫ったような裂け目がある。


その裂け目の中に、小さく折られた紙が隠されていた。


沈硯はそれを取り出した。


書かれていたのは、数字一つ。


「七」


蘇晩晴が眉をひそめる。


「また七……」


沈硯は答えなかった。


そして突然、尋ねた。


「趙六に妻はいたか?」


「近所の人は、いないと言っていた」


「子供は?」


「いない」


「両親は?」


「どちらも亡くなっている」


「兄弟姉妹は?」


「いない」


沈硯は手にした赤い布を見る。


「身寄りのない一人の人足が、なぜこんなものを隠していた?」


蘇晩晴は答えなかった。


ただ竈のそばへ歩き、炉灰に手を触れた。


「ここで紙を燃やした人がいる」


沈硯も近づいた。


灰はすっかり冷えていた。


蘇晩晴は灰の中から、焼け残った小さな紙片を拾い上げた。


そこには、まだいくつかの文字が残っている。


「……七人……」


「……南陵……」


「……沈……」


それ以外は、すべて燃え尽きていた。


沈硯はその三つの言葉を見つめた。


「趙六の字じゃない」


「どうしてわかるの?」


「借用証文だ」


沈硯は借用証文を取り出した。


二枚の紙に書かれた文字は、明らかに違っていた。


蘇晩晴も一目見て言った。


「確かに違う」


沈硯は紙片をしまった。


「趙六は、誰のためにこれを燃やした?」


蘇晩晴がふと口にする。


「燃やしたんじゃないかもしれない」


「どういう意味だ?」


「何かを処分していたのかもしれない」


沈硯が顔を上げる。


蘇晩晴は炉灰を指差した。


「ただの紙を燃やしただけなら、こんな小さな紙片だけが残ることはない」


「誰かが、一束の書類を燃やした」


「しかも、趙六が死ぬ前に」


⸻


夜も更けた頃。


沈硯は一人で府衙へ戻った。


蘇晩晴はついてこなかった。


周平が門前で待っていた。


「沈推官」


「どうした?」


「手紙が一通、届いています」


「誰からだ?」


「わかりません」


周平が手紙を差し出す。


封筒には名前がなかった。


沈硯は封を切った。


中には一文だけ。


――


「沈知遥が誰なのか知りたければ、沈家の旧宅を調べろ」


沈硯は読み終えると、すぐに尋ねた。


「誰が届けた?」


「子供です」


「男か、女か?」


「男です」


「何歳くらいだ?」


「十歳くらいです」


沈硯は黙った。


「他には?」


周平は首を横に振った。


「一言だけ言っていました」


「何だ?」


「一人で行け、と」


沈硯は手紙を折り畳んだ。


「いつだ?」


「今夜、子の刻です」


周平はすぐに言った。


「行ってはいけません」


沈硯は頷いた。


「わかっている」


周平はほっと息をついた。


「では……」


「お前には六人連れてきてもらう」


周平は目を丸くした。


沈硯は彼を見る。


「一人で来いと言ってきた」


「なら、相手は人数が増えることを恐れているということだ」


⸻


子の刻。


南陵城は、すでに完全な静寂に包まれていた。


沈家の旧宅は城東にある。


二十三年前の火事以来、そこには誰も住んでいない。


その後、買い手がついたこともあった。


だが、やがて手放された。


そして最後には、荒れ果てたまま放置された。


沈硯は正門からは入らなかった。


周平と六人の下役を連れ、裏塀から中へ入った。


庭の雑草は、すでに膝の高さまで伸びている。


壊れた扉や窓が、風に吹かれてかすかな音を立てていた。


周平が低い声で言う。


「ここには、人が住んでいるようには見えません」


沈硯は頷いた。


「だが、誰かが来ている」


地面には足跡があった。


まだ新しい。


それは一路、母屋へと続いていた。


沈硯は提灯を掲げた。


母屋の扉には錠がかかっていた。


錠はすでに錆びついている。


だが、鍵穴の周りだけは妙に綺麗だった。


誰かが何度も開けている。


周平が刀でこじ開けた。


扉が開いた瞬間。


かび臭い空気が一気に押し寄せてきた。


室内には家具が一つもない。


あるのは、黒く焼けた壁だけだった。


沈硯はその場に立ち尽くした。


二十三年前。


ここで火事が起きた。


そして今では、すべての物が片付けられている。


そのときだった。


周平が声を上げた。


「ここに何かあります!」


彼が指差したのは、壁際だった。


一枚の煉瓦が緩んでいる。


その奥に、木箱が隠されていた。


沈硯が蓋を開ける。


中に金銀はなかった。


入っていたのは、一枚の銅牌。


半分だけだった。


倉庫で見つけた銅牌と、ぴたりと合う。


銅牌の裏には、三つの文字が刻まれていた。


沈知遥。


沈硯の呼吸が、一瞬止まった。


そのとき。


屋外から足音が聞こえた。


とても小さい。


一人分だけ。


周平がすぐに刀を抜いた。


「誰だ!」


返事はない。


足音だけが、次第に遠ざかっていく。


沈硯は外へ駆け出した。


塀の向こう。


灰色の衣をまとった男が、一瞬だけ姿を見せた。


沈硯は数歩追った。


だが、突然足を止めた。


男が振り返ったからだ。


月明かりの下。


沈硯は、その顔をはっきりと見た。


見知らぬ男ではない。


秦検視役だった。


義荘から姿を消した、あの検視役。


秦検視役は塀の外に立っていた。


逃げる様子はない。


ただ沈硯を見つめている。


そして言った。


「もう調べるな」


沈硯は刀を握り直した。


「なぜだ?」


秦検視役は答えなかった。


その視線は沈硯を越え、背後の旧宅へ向けられた。


「お前が見つけたものは、すべて奴らがお前に知らせたかったものだ」


沈硯が尋ねる。


「奴らとは誰だ?」


秦検視役はしばらく黙っていた。


「二十三年前に生き残った者たちだ」


「誰だ?」


秦検視役は沈硯を見つめた。


「もう会っている」


そう言い残すと、彼は暗闇の中へ消えていった。


沈硯はその場に立ち尽くした。


脳裏に、一人の女の姿が浮かぶ。


蘇晩晴。


だが、次の瞬間。


あの紙の言葉が脳裏をよぎった。


――蘇晩晴を信じるな。


沈硯は初めて気づいた。


もし秦検視役の言葉が本当なら。


最も危険なのは、蘇晩晴が自分を騙しているかもしれないことではない。


それよりも――


誰かが、沈硯の「蘇晩晴への疑い」を利用していることだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。