第六章 誰もいない義荘
南陵の義荘は、城の南側にある。
昼を過ぎると、空はかえって暗くなった。
川から吹いてくる風には湿気が混じり、通りや路地を冷たく抜けていく。
沈硯と蘇晩晴は、大勢を連れてはいなかった。
同行しているのは周平だけだ。
あの十二歳の少年は、ひとまず府衙の裏庭に預け、二人の差役に見張らせている。
沈硯は、最初は少年も連れて行くつもりだった。
だが、少年はどうしても嫌だと言った。
「趙六おじさんに言われたんだ。あそこへ行っちゃいけないって」
「なぜだ?」
「分からない」
「そこに何があるか、聞いていないのか?」
少年は首を横に振った。
ただ、何度も同じ言葉を繰り返した。
「……あそこにいる人たちは、僕を見れば分かるんだ」
その言葉を聞き、沈硯は結局、無理に連れて行くことをやめた。
⸻
義荘の門は、半分だけ開いていた。
門番の姿はない。
周平が門を押す。
軋んだ音が、静かな境内に響いた。
中は妙に静かだった。
まるで、人が住んでいる場所とは思えないほどに。
沈硯は門の外に立ったまま、すぐには入らなかった。
地面を見る。
門前の泥には、二種類の足跡が残っていた。
一つは、すでに乾いている。
もう一つは、まだ新しい。
靴底の模様まで、はっきり残っていた。
蘇晩晴もしゃがみ込み、足跡を見た。
「誰かが、ついさっきまでここにいた」
周平が刀を抜く。
「人を呼びますか?」
沈硯は首を横に振った。
「まず中へ入る」
三人は、順に義荘へ入った。
庭には古びた棺がいくつか並べられている。
隅には薪が積まれていた。
離れの一つは窓が少し開いており、そこからかすかな薬の匂いが漂っている。
沈硯が戸を押し開ける。
誰もいない。
だが、机の上には一杯の粥が置かれていた。
すでに冷え切っている。
その横には箸が二本。
周平が碗に触れた。
「まだ、そう時間は経っていません」
蘇晩晴が外を見る。
「人が急いで出ていったんだと思う」
沈硯は何も言わなかった。
壁際へ歩いていく。
そこには義荘の記録簿が掛けられていた。
開いてみる。
最初のページには、今年の記録が並んでいた。
遺体番号。
搬入日。
身元。
死亡場所。
引き取りの有無。
一見すると、何もおかしくない。
だが、三日前の記録まで進んだところで、沈硯の手が止まった。
趙六。
姓名――趙六。
身分――荷担ぎ人足。
死亡場所――城西。
引き取り――なし。
沈硯は、最後の二文字をじっと見つめた。
「趙六の遺体は、どこだ?」
誰も答えない。
周平が裏庭へ向かう。
しばらくして、声が響いた。
「沈推官!」
沈硯が急いで向かう。
裏庭には、粗末な棺が七つ並んでいた。
そのうち六つには錠が掛かっている。
一番奥の棺だけが、開いたままだった。
蓋がわずかにずれている。
周平が指を差す。
「これです」
沈硯は近づいた。
だが、すぐには開けなかった。
まず棺を調べる。
縁には、新しい水の跡が残っていた。
雨水とは違う。
まるで、誰かが濡れた布で拭ったような跡だった。
沈硯が指で触れる。
「誰かが動かしている」
蘇晩晴が横から見る。
「趙六の遺体?」
「おそらく」
周平が蓋を開けた。
中は――空だった。
三人とも、しばらく何も言わなかった。
棺の中に残っていたのは、一枚の古い布だけ。
青い布。
そこには、七本の弧を描いた模様が刺繍されていた。
これまで何度も見てきたものと、まったく同じだった。
蘇晩晴は手を伸ばさない。
ただ、その布を見つめている。
「……遺体を持ち去った」
沈硯は頷いた。
「だが、なぜだ?」
周平が尋ねる。
「証拠を消すためでは?」
沈硯は答えなかった。
もし単なる証拠隠滅なら、わざわざこの布を残す必要はない。
つまり――
この布は、最初から自分たちに見せるために置かれたのかもしれない。
⸻
沈硯は棺の横にしゃがみ込んだ。
棺底には、ごく浅い傷がある。
指先でなぞっていく。
そして、突然止まった。
「ここに何かある」
蘇晩晴が近づく。
文字ではなかった。
棺底に刻まれていたのは、三つの数字。
二。
三。
七。
沈硯は眉を寄せる。
「何の意味だ?」
蘇晩晴は首を振った。
「日付かもしれない」
「二月三日?」
「あるいは番号」
周平が口を挟む。
「二十三……ということでは?」
沈硯は顔を上げた。
二人とも、同じことを考えた。
二十三年前。
だが、本当に二十三を意味するのなら、なぜ最後に七がある?
沈硯は、それ以上推測しなかった。
数字を書き写す。
そして記録簿を見る。
「今年ここへ運ばれた遺体の記録を、全部持ってこい」
周平が取りに行こうとする。
しかし蘇晩晴が口を開いた。
「待って」
沈硯が振り返る。
「なぜだ?」
「まず古い記録を見るべき」
「今、一番重要なのは趙六だ」
「だからこそ、今年の記録だけを見るべきじゃない」
蘇晩晴は、空になった棺を指した。
「誰かが趙六の遺体を持ち去った。それなのに、わざと手掛かりを残している」
「つまり、趙六の遺体にはまだ何かある?」
「分からない」
蘇晩晴は、あっさりと言った。
「でも、今ここに残されたものをそのまま追えば、相手の次の行動を手伝うことになるかもしれない」
沈硯はしばらく黙っていた。
「では、どうする?」
「義荘の人間を探す」
「ここには誰もいない」
「なら、最後に趙六の遺体を見た人間を探せばいい」
沈硯は彼女を見る。
「仵作か?」
「そう」
⸻
義荘の仵作は秦という男だった。
五十を過ぎた男で、義荘の裏にある小屋に住んでいる。
だが、その小屋にも人影はなかった。
机の上には脱いだ上着。
その横には、飲みかけの茶。
周平が触れる。
「これも、まだ温かい」
沈硯は室内を見回した。
そのとき、机の端に紙が一枚、押さえられているのに気づいた。
紙には、たった一文だけ書かれていた。
――「趙六は城西で死んだのではない」
沈硯が拾い上げる。
蘇晩晴も覗き込んだ。
「誰が書いたの?」
「秦仵作か?」
「違うと思う」
「なぜ?」
蘇晩晴は紙を指差した。
「筆跡」
「どういう意味だ?」
「この人は、右手にかなり力を入れて書いている」
沈硯が彼女を見る。
「どうして分かる?」
「子供の頃、よく人の代わりに帳簿を書いていたから」
少し間を置いて、続ける。
「こういう字は、意図的に筆圧を強くしている」
沈硯は黙って彼女を見る。
「この筆跡を知っているのか?」
「知らない」
「なら、なぜ分かる?」
蘇晩晴は答えなかった。
ただ、紙を見つめている。
「……昔、似た字を見たことがある」
沈硯は、それ以上聞かなかった。
そのときだった。
突然、外から足音が聞こえた。
周平が即座に刀を抜く。
灰色の粗末な服を着た男が、門から飛び込んできた。
三人の姿を見た瞬間、男は足を止める。
次の瞬間――
踵を返して逃げ出した。
「止まれ!」
周平が追う。
男は驚くほど速かった。
塀を飛び越え、そのまま姿を消す。
しばらくして、周平が戻ってきた。
その手には、一足の靴。
「奴の足から無理やり脱がせました」
靴底には白い粉が付いている。
沈硯が見る。
「石灰だ」
蘇晩晴も気づいた。
七号埠頭。
廃倉庫。
石灰窯。
点だった場所が、再び一本の線でつながった。
沈硯はふと尋ねる。
「秦仵作は、城西へ行ったことがあるのか?」
周平は首を振った。
「分かりません」
「調べろ」
⸻
夕方。
三人が府衙へ戻る。
少年はまだ中庭に座っていた。
沈硯の手にある靴を見た瞬間、少年の顔色が変わった。
「……あいつだ」
沈硯が足を止める。
「知っているのか?」
少年は頷いた。
「間違いない」
「誰だ?」
少年は首を振る。
「名前は知らない」
「なぜ、その靴を知っている?」
少年は俯いた。
「……あの人、僕に飴をくれたから」
「いつ?」
「趙六おじさんが死ぬ前」
沈硯は少年の前にしゃがむ。
「何と言っていた?」
少年はしばらく考えた。
「もし誰かに、趙六おじさんがどこへ行ったのか聞かれたら――」
そこで言葉を止める。
「何と言えと言われた?」
「……趙六おじさんは、河へ行ったと言えって」
沈硯の表情が沈む。
趙六は城西で死んだ。
その遺体は義荘から持ち去られた。
そして今、誰かが少年に、最初から「河へ行った」と言わせようとしている。
これは、その場で思いついた話ではない。
少なくとも、誰かが前もって準備していた。
蘇晩晴が横から尋ねる。
「ねえ」
「うん?」
「あなた、趙六の遺体を見たことがある?」
少年は首を横に振った。
「ない」
「なら、どうして死んだと知っているの?」
少年は答えなかった。
沈硯がすぐに気づく。
「誰から聞いた?」
少年が顔を上げる。
その目に、初めてはっきりとした恐怖が浮かんだ。
「……女の人」
「どんな女だ?」
「趙六おじさんのお姉さんだって」
沈硯と蘇晩晴は同時に息を呑んだ。
趙六に姉はいない。
それは近所の者たちから、すでに確認している。
少年は続けた。
「その人が、銅銭を一枚くれた」
「それで?」
「覚えておけって」
少年は懐から一枚の銅銭を取り出した。
以前見つけたものと同じ、古びた銅銭だった。
少年は小さな声で言った。
「二人に伝えてくれって……」
「何を?」
少年は沈硯を見る。
「沈知遥は、まだ生きている」
庭が、一瞬で静まり返った。
沈硯は動かなかった。
蘇晩晴だけが、勢いよく顔を上げる。
少年を見つめる。
「……もう一度言って」
少年は怯えて、一歩後ずさった。
「その人が……」
「沈知遥は、まだ生きているって」
風が門から吹き込んできた。
沈硯の手にあった紙が、風に煽られて裏返る。
何も書かれていなかったはずの裏側。
そこに、いつの間にか薄い文字が浮かび上がっていた。
墨ではない。
色のない薬品で書かれていたような文字。
水に触れて、初めて姿を現したのだ。
そこに書かれていたのは、たった一文。
――
「蘇晩晴を信じるな」
沈硯は、その文字を見つめた。
初めて、すぐには蘇晩晴のほうを見なかった。
蘇晩晴も何も弁解しない。
ただ、その紙を見つめている。
長い沈黙のあと。
彼女は静かに言った。
「これからは、私のことも信じないほうがいい」
沈硯が顔を上げる。
二人は初めて、本当の意味で同じ線の両端に立った。
そして、二人とも知らなかった。
この言葉が――
相手への警告なのか。
それとも、相手を守るための言葉なのか。




