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河灯未明  作者: 亀


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第五十章 人の世の昔事

南陵府衙の記録庫は。


いつもより、ずっと静かだった。


二十三年前の河運事件は、改めて記録し直された。


各地に散らばっていた文書も。


一枚ずつ回収されている。


頁が欠けているもの。


火に焼かれたもの。


後から書き足された跡が残っているもの。


沈砚は机の前に座り。


暗くなるまで、それらを見続けていた。


秦重が、最後の一束を抱えて入ってくる。


「これで最後だ」


沈砚が受け取る。


「全部確認したか?」


「した」


秦重は、その中の一冊を机に置く。


「趙六の記録も入っている」


沈砚は開いた。


趙六は、もともと河運司が臨時で雇った雑役だった。


記録には。


「無断放火により旧記録を焼失させ、河船を損壊」


とある。


その下にも、数行。


だが。


「船上に人はいなかった」


という記述は、後から線を引かれて消されている。


その横には。


「船上に人がいる可能性を知りながら、なお放火した」


と書き直されていた。


秦重は、しばらく見つめる。


「重い罪になるだろうな」


「たぶんな」


「惜しいな」


沈砚が顔を上げる。


「何が?」


秦重は首を横に振った。


「何でもない」


少しして。


また口を開く。


「俺は昔、死体を調べていた時」


「死人が一番扱いやすいと思っていた」


沈砚は彼を見る。


秦重は苦笑した。


「死人は話さない」


「反論もしない」


「だから死因さえ書いてしまえば、それで終わりだと思っていた」


彼は、その記録を指差す。


「後になって分かった」


「そうじゃない」


「一人の死因を明らかにした後も」


「そのことに責任を負う人間は、まだ大勢いる」


沈砚は何も言わなかった。


ただ、記録を閉じる。


「だから、今回は急いで終わらせるな」


秦重は頷いた。


「分かっている」


⸻


翌日。


南平令は南陵を離れ、護送されていった。


見せしめにされることも。


人前に引き出されることもなかった。


二人の役人に付き添われ。


一台の馬車に乗せられただけだった。


出発する直前。


南平令が突然、沈砚を呼び止めた。


「沈推官」


沈砚が歩み寄る。


南平令は袖から、一つの物を取り出した。


古い印だった。


「これをお前に」


沈砚は受け取らない。


「何だ?」


「当時、河運司で使われていた副印だ」


「これを持っていれば、昔の人間を動かすこともできた」


「いつか、また使う日が来るかもしれないと思っていた」


老人は印を見る。


「もう必要ない」


沈砚は、それでも受け取らない。


「府衙に渡せ」


南平令が笑う。


「用心深いな」


「記録に必要だ」


南平令は頷いた。


そして印を役人へ渡した。


馬車がゆっくりと走り出す。


沈砚は、その場に立ったまま。


車輪が角の向こうへ消えるまで見送った。


秦重が隣へ歩いてくる。


「お前は、あいつを恨んでいないのか?」


沈砚は遠くを見る。


「恨んでいるかどうかは、事件とは関係ない」


「お前自身は?」


秦重が尋ねる。


沈砚は答えなかった。


ただ。


府衙へ向かって歩き出す。


「まだ整理してない記録がある」


⸻


陳旺は、その後も南陵に残り、証言を続けることになった。


本人は、自分が捕らえられると思っていたらしい。


だが府衙が最後に渡したのは。


一枚の文書だけだった。


そこには。


「旧案の経緯を証言し、調査に協力すること」


と記されている。


陳旺は、その文書を長い間眺めた。


「これだけ?」


沈砚は頷く。


「他に何がある?」


「分からない」


陳旺は頭を掻く。


「昔は、誰にも探されなければ」


「何もしなくていいと思っていた」


「今は?」


「今になって分かった」


彼は手の中の文書を見る。


「そう簡単な話じゃなかった」


沈砚は笑った。


「じゃあ、これからは自分で余計な面倒を増やさないことだ」


陳旺も笑う。


「その言い方、お前らしくないな」


「どういう意味だ?」


「昔のお前なら、何でも調べろって言ってただろ」


沈砚は首を横に振る。


「調べるべきことだけ調べる」


陳旺は一瞬、戸惑った。


「じゃあ、何が調べるべきことなんだ?」


沈砚は、彼の手にある文書を指差す。


「今日から、自分で考えろ」


陳旺は俯き。


長い間、その文書を見つめた。


そして。


大切そうに懐へしまった。


⸻


周明は南陵には残らなかった。


北へ向かうことにした。


出発前。


府衙へ沈砚を訪ねてきた。


二人は庭に座り。


しばらく話した。


「本当に、一緒に来ないのか?」


沈砚が尋ねる。


周明は首を横に振る。


「俺は二十三年間、離れていた」


「今度は、帰ってみたい」


「どこへ?」


周明は少し笑った。


「昔の家へ」


沈砚は、それ以上聞かなかった。


周明は立ち上がる。


二歩ほど歩いたところで。


振り返った。


「沈砚」


「ん?」


「お前の父親だが……」


長い沈黙。


「当時、あの人は確かに」


「他人には理解できないことを、たくさんした」


沈砚は頷く。


「分かっている」


「それでも、まだ恨んでいるか?」


沈砚は少し考える。


「時々は」


周明は、ほっとしたように息を吐いた。


「それならいい」


沈砚が彼を見る。


「なぜ?」


周明は言った。


「もし誰かが間違ったことをして」


「その人を恨む人間すらいなくなったら」


「その人がしたことは、本当に誰にも覚えられなくなるからだ」


周明はそう言って。


歩いていった。


門が閉じたあと。


沈砚は長い間、そこに座っていた。


追いかけることはしなかった。


⸻


夜。


蘇晩晴が沈砚を訪ねてきた。


手には、一着の服。


「これ」


沈砚が受け取る。


新しく仕立てた外衣だった。


色はごく普通。


刺繍もない。


「なぜ?」


「あなたの服、古くなったから」


「服ならある」


「知ってる」


蘇晩晴は言う。


「だから、新しいもの」


沈砚は服を見る。


「いつ作った?」


「数日前」


「なぜ、もっと早く渡さなかった?」


「その頃はずっと事件を調べていたから」


沈砚が笑う。


「今度こそ事件は終わったのか?」


蘇晩晴は答えなかった。


庭へ出ていく。


月明かりが青石の上に落ちている。


「沈砚」


「ん?」


「これからも事件を調べる?」


「調べる」


「私は?」


沈砚は彼女を見る。


「お前は何をしたい?」


蘇晩晴は首を横に振る。


「分からない」


「昔は、過去を全部知れば」


「これからどこへ行けばいいのかも分かると思っていた」


「でも、今は過去が分かった」


「なのに」


「逆に、何をすればいいのか分からなくなった」


沈砚は少し黙る。


「なら、今は決めなくていい」


「それでもいい?」


「いい」


蘇晩晴は彼を見る。


「前は、いつも答えを出さなきゃいけないって言ってた」


「物事には、答えが必要だ」


沈砚は言った。


「でも、人間までそうとは限らない」


彼女は一瞬、目を見開く。


それから笑った。


「その言葉」


「今のあなたらしいね」


⸻


夜が更けて。


沈砚は一人、書斎へ戻った。


机の上には。


沈懐川の手紙が置かれている。


もう何度も読んだ。


だが今回は。


開かなかった。


引き出しから、新しい紙を一枚取り出す。


筆を取る。


そして書いた。


「父さん」


そこで手が止まる。


長い時間を置いて。


続ける。


「事件は、もう調べ終わった」


「二十三年前に起きたことも、大半は分かった」


「まだ分からないこともある」


「これから先、永遠に分からないこともあるかもしれない」


ここで。


また筆が止まった。


長い沈黙のあと。


最後の一文を書いた。


「それでも、俺は自分の道を歩いていく」


紙を折る。


封筒に入れる。


だが。


送ることはしなかった。


⸻


窓の外から、川の流れる音が聞こえる。


南陵の町は、すでに静まり返っている。


蘇晩晴が長廊を歩いていく。


手には、一つの河灯。


川辺まで来る。


だが。


火はつけなかった。


そのまま岸辺に置く。


しばらくして。


沈砚もやって来た。


「どうして流さない?」


蘇晩晴は川面を見る。


「急に、いらない気がして」


「なぜ?」


「前は、河灯は死んだ人のためのものだと思っていた」


彼女は灯籠の縁に、そっと触れる。


「今は」


「生きている人のために残してもいい気がする」


沈砚は何も言わない。


二人は並んで川辺に立つ。


遠くを、一艘の船が通り過ぎる。


船首には、一つの灯り。


その光が。


水面に揺れながら、ゆっくり遠ざかっていく。


蘇晩晴が、ふと尋ねた。


「沈砚」


「ん?」


「明日は何する?」


沈砚は少し考える。


「飯を食べる」


「それだけ?」


「まず飯だ」


彼女が笑う。


「それから?」


「それから考える」


蘇晩晴は頷く。


「うん」


彼女は河灯を拾い上げた。


川には流さなかった。


二人は並んで、川岸を歩いて戻っていく。


背後では。


川が変わらず、ゆっくり流れていた。


火のついていない河灯を。


蘇晩晴は手にしたまま。


一度も消すことなく。


歩いていった。

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