第五十一章 河灯明
南陵に秋が訪れてから。
川の水は、例年よりずっと澄んでいた。
府衙に残っていた最後の記録も。
この日、封をされた。
沈砚は封印の上に、自分の名を書いた。
隣にいた若い役人が尋ねる。
「沈推官、この一冊は旧記録に戻しますか? それとも別に保管しますか?」
沈砚は一度、記録を見た。
「旧記録でいい」
「これから先、また取り出すことはありますか?」
「ある」
「いつです?」
沈砚は少し考えた。
「必要とする人が現れた時だ」
若い役人は頷き。
記録を棚へ収めた。
扉が閉まる。
鍵が記録庫へ返される。
今度は。
新しい文書が届くことはなかった。
⸻
秦重は、南陵を離れる準備をしていた。
出発する前。
自分の検死刀を府衙へ預けた。
沈砚は、その木箱を見る。
「もう使わないのか?」
「何年も使ったからな」
秦重は笑った。
「そろそろ、別の人間に任せてもいい」
「どこへ行く?」
「まだ決めてない」
「北へ行きたいんじゃなかったのか?」
「そう思っていた時期もある」
秦重は木箱を押し出す。
「でも、今は急がなくていい」
沈砚は彼を見る。
「なぜ?」
秦重は笑った。
「昔は、人生は先に答えを出してから歩くものだと思っていた」
「でも今は分かった」
「歩きながらでも、次に行く場所は見つかる」
そう言って。
荷物を背負う。
門のところまで行き。
もう一度振り返った。
「沈砚」
「ん?」
「これから検死するときは」
「死因だけを見るなよ」
沈砚は笑った。
「覚えておく」
秦重は手を振った。
「今度こそ、本当に行く」
門が開く。
そして閉じた。
⸻
陳旺は南平に残った。
古い船を一艘借りた。
大きくはない。
船首には、新しい塗料を塗った。
もう七号旗を掲げることはなかった。
その代わり。
船室には一冊の帳面が増えた。
その日に何を運んだのか。
どこへ行ったのか。
誰が乗ったのか。
誰が降りたのか。
すべて一つずつ書き留める。
ある日、誰かが笑った。
「昔の船頭は、そんな面倒なことまでしなかっただろ」
陳旺は顔を上げない。
「今はする」
「なんで?」
陳旺は少し考えた。
「忘れっぽいからな」
男は笑って去っていった。
陳旺は再び筆を取る。
書き終えると。
帳面を閉じ。
机の端に置いた。
⸻
周明も、南陵を離れた。
周娘子の体は、少しずつ回復していた。
彼女が捕らえられることはなかった。
ただ府衙から、一通の召喚状を渡されている。
必要があれば。
証言のために戻らなければならない。
彼女はその文書を折り。
衣柜の一番下へしまった。
蘇晩晴が訪ねた時。
周娘子は庭で薬草を干していた。
「これから、どこへ行くの?」
蘇晩晴が尋ねる。
周娘子は顔を上げる。
「まずは、残してしまった名前を」
「一つずつ、整理していく」
「時間がかかるよ」
「分かってる」
「全部終わらないかもしれない」
周娘子は笑った。
「なら、後の人に残せばいい」
薬草を一つ、裏返す。
「誰かが、続きをやってくれる」
蘇晩晴は門のところに立っていた。
それ以上、何も言わなかった。
帰ろうとした時。
周娘子が突然呼び止める。
「晩晴」
蘇晩晴が振り返る。
「何?」
「その名前」
周娘子は彼女を見る。
「本当に、好きかい?」
蘇晩晴は頷いた。
「好き」
「それなら、よかった」
周娘子は、それ以上聞かなかった。
⸻
南陵の最後の秋雨が降ったあと。
沈砚のもとに、北から一通の手紙が届いた。
短い手紙だった。
周明からだった。
古い家を見つけたという。
庭は残っていた。
だが、門は新しくなっていた。
隣人も、もう昔とは違っていた。
二十三年前に何があったのか。
覚えている者は、一人もいなかった。
手紙の最後には。
こう書かれていた。
「そこで一晩、泊まった」
「翌朝、目を覚ましたら」
「もう空は明るくなっていた」
沈砚は読み終えると。
手紙を折った。
引き出しにしまう。
返事は書かなかった。
ここまで来れば。
もう、書かなくてもいい言葉がある。
⸻
夕暮れ。
沈砚は川辺へ蘇晩晴を探しに行った。
やはり、そこにいた。
手には。
あの河灯。
ただ今日は。
灯の中に、蝋燭が入っていた。
沈砚が近づく。
「今日は流すのか?」
「うん」
「急にどうした?」
蘇晩晴は川面を見る。
「今日は、もう誰も探してないから」
沈砚は一瞬、黙った。
彼女は少し笑う。
「事件のことじゃないよ」
「人のこと」
沈砚には、その意味が分かった。
彼女の隣に立つ。
「これから、何をするつもりだ?」
「南陵に残りたい」
「なぜ?」
「ここには、私の知っている人がたくさんいるから」
「それだけか?」
蘇晩晴は少し考えた。
「文字を覚えたい」
沈砚は彼女を見る。
「読めるだろ?」
「少しだけ」
「なら、なぜ?」
彼女は河灯を沈砚へ渡す。
「自分で、昔の名前を読めるようになりたいから」
沈砚は河灯を受け取った。
「分かった」
「教えてくれる?」
「いい」
「面倒じゃない?」
「面倒じゃない」
「あなた、怒りっぽいから」
「いつ?」
「事件を調べてる時」
沈砚は笑った。
「じゃあ、もうお前のことを調べない時は優しい」
蘇晩晴も笑った。
「約束だよ」
「約束する」
⸻
川面には、ぽつぽつと灯りが浮かんでいた。
先祖を弔う者。
旅立つ人を見送る者。
ただ子供を連れて、川辺へ灯を見に来た者。
沈砚はしゃがみ。
蘇晩晴の河灯を水面へ置いた。
蘇晩晴が蝋燭に火をつける。
炎が二、三度揺れた。
だが。
消えなかった。
川の流れが。
ゆっくりと灯を運んでいく。
二人は岸辺に立つ。
誰も、何も言わない。
河灯は少しずつ遠ざかっていく。
その時。
一陣の風が吹いた。
蘇晩晴は手を伸ばし。
灯の前を覆う。
小さな火が再び安定するまで。
その手を動かさなかった。
やがて。
手を下ろす。
沈砚が彼女を見る。
「行こう」
「どこへ?」
「飯を食いに」
蘇晩晴は笑った。
「またご飯?」
「今日は、もう一つある」
「何?」
沈砚は袖から一枚の紙を取り出した。
彼女に渡す。
蘇晩晴が開く。
そこには数文字だけ書かれていた。
「南陵府学 識字旁聴名簿」
彼女は、しばらく動かなかった。
「いつ、これを?」
「今朝」
「事件が終わったら、考えるって言ってなかった?」
「事件は終わった」
沈砚は言った。
「だから、今考えた」
蘇晩晴は紙を見つめる。
長い時間が過ぎてから。
紙を丁寧に折り。
大切そうにしまった。
「沈砚」
「ん?」
「ありがとう」
沈砚は答えなかった。
ただ前を向いて歩き出す。
数歩進んだところで。
蘇晩晴がついてきていないことに気づいた。
振り返る。
「どうした?」
蘇晩晴は川辺に立っていた。
「ちょっと待って」
もう一度、川面を見る。
最後の河灯は。
ずっと遠くまで流れていた。
小さな火。
それでも。
まだ消えていない。
蘇晩晴は振り返り。
沈砚の後を追った。
二人の影が月明かりに引き伸ばされ。
長く、地面に落ちている。
川は南へ流れ続ける。
古い船。
古い橋。
古い船着き場。
すべてが、ゆっくりと背後へ遠ざかっていく。
誰も。
もう振り返らなかった。
⸻
それから、何年も経った。
南陵府衙の旧記録には。
今も二十三年前の河運事件が残されている。
記録の最後の頁には。
結論は書かれていない。
ただ、後になって一行だけ。
小さく書き足された。
「姓名、確認済み。死者、記録済み。生者、それぞれ帰るべき場所へ。」
その下に。
署名はない。
日付もない。
ただ。
ごく薄い墨印だけが残されていた。
窓の外では。
川が何年も何年も、南へ流れていく。
誰かが船着き場を通り過ぎる。
誰かが新しい船を造る。
誰かが川辺で灯を流す。
灯は時に、風に吹かれて消える。
時に、遠くまで流れていく。
それでも。
誰かがもう一度、火を灯す限り。
川面には、いつまでも光がある。
――『河灯未明』・完




