第四十七章 名のない者
夜が明けたばかりだった。
南平の雨は、ようやく止んだ。
秦重は、あの七文字をもう一度読み返した。
「本当の第八の人間は、死んでいない」
沈砚は、すぐには何も言わなかった。
手を伸ばし、巻物を受け取る。
「この言葉は、俺たちに向けて書かれたものじゃない」
秦重が戸惑う。
「どういう意味だ?」
沈砚は、落款を指差した。
「沈知遥がこれを残した時、いつか誰かがここまで辿り着くと分かっていた」
「なのに、名前を書かなかった」
「つまり、後から来る人間に答えを直接教えるつもりはなかった」
蘇晩晴が近づいてくる。
「どうして?」
沈砚は、その一行を見つめた。
「名前を残せば、人はその名前を追う」
「だが、彼女が本当に探してほしかったのは、その人間が何をしたのかだ」
秦重が俯く。
しばらくして、ふと口にした。
「第八の人間」
「最初から、船に乗った八人目じゃなかったのかもしれない」
沈砚が秦重を見る。
秦重は、その一行を指で叩いた。
「俺たちはずっと『第八』を人数だと思っていた」
「でも沈知遥が書いたのは、『本当の第八の人間』だ」
「たぶん、俺たちに気づかせようとしたんだ」
「第八というのは、人数じゃない」
沈砚は黙った。
この答えには、これまでにも何度も近づいていた。
ただ。
今になってようやく。
すべての証拠が一つにつながった。
⸻
周明は壁際に座っていた。
肩の傷は、簡単に包帯が巻かれている。
話を聞き終えると、突然口を開いた。
「俺は、誰か知っている」
全員が周明を見る。
だが周明は首を横に振った。
「それでも、直接は言えない」
陳旺が眉をひそめる。
「知ってるなら、何をもったいぶってる?」
周明は苦笑した。
「もったいぶってるんじゃない」
「俺が言い間違えるのが怖いんだ」
沈砚が歩み寄る。
「なら、なぜその人間が第八だと思うのかだけ教えてくれ」
周明は長い間、考えた。
「二十三年前」
「七号船にいた人間は、みんな記録することができた」
「ただ一人を除いて」
「誰だ?」
「記録する側の人間だ」
沈砚が固まる。
周明は続けた。
「当時、船員も、役工も、護送役も」
「二人の子供でさえ、名前を変えることはできた」
「だが、記録をつける人間だけは違う」
「そいつ自身の名前が記録に残ったら、その夜、そこにいたことを証明できる」
秦重がゆっくり顔を上げた。
「つまり……」
周明を見る。
「本当の第八の人間は」
「送り出された人間じゃない」
「全員を名簿から消した人間だ」
部屋の中が静まり返った。
沈砚は、二十三年前の言葉を思い出す。
「人已送走,不入册」
――人はすでに送り出した。名簿には入れない。
「不入册」だったのは、一人だけではなかった。
誰を名簿に入れるか。
それを決めた人間もまた、記録の外にいた。
⸻
沈砚は振り返り、南平令を見る。
「当時の記録を書いたのは誰だ?」
南平令は答えなかった。
沈懐山が、ゆっくり目を閉じる。
「彼じゃない」
沈砚が兄を見る。
「知っているのか?」
沈懐山は頷いた。
「当時、本当に河運の名簿を管理していた人間は別にいた」
「誰だ?」
沈懐山は言った。
「お前たちが会ったことのある人間だ」
全員が同時に固まる。
「誰?」
沈懐山は、もう引き延ばさなかった。
「周娘子だ」
秦重が勢いよく立ち上がる。
「だが、彼女は……」
「死んでいない」
沈懐山が言った。
「ただ、別の名前に変えただけだ」
蘇晩晴の顔色が変わる。
「赤い糸の女?」
沈懐山は答えなかった。
その時。
門のところから声がした。
「違う」
全員が振り返る。
赤い糸の女が立っていた。
彼女は笠を外す。
昨日よりも、顔の疲れが深くなっていた。
「私は周娘子じゃない」
沈砚を見る。
「私は、ただの娘です」
「彼女の娘」
秦重が呆然とする。
「娘……?」
女は頷いた。
「母はまだ生きている」
「ただ、もうあなたたちには会えない」
沈砚が尋ねる。
「なぜ?」
「病気が重いから」
「それに」
女は続ける。
「母は分かっている」
「あなたたちは、いつか必ず母を見つけると」
⸻
女は部屋へ入った。
袖の中から布包みを取り出す。
中に入っていたのは、錆びた銅の鍵だった。
「これは母から、あなたに渡せと言われた」
沈砚は受け取らなかった。
「中には何がある?」
女は沈砚を見る。
「母が言っていた」
「もしあなたが、なぜ名前を変えたのかと聞いたら」
「こう答えてほしい、と」
「名前は変えていない」
沈砚が眉をひそめる。
「どういうことだ?」
「本当の名前を、隠しただけ」
女は鍵を机の上に置く。
「二十三年前」
「母があの二人の子供を初めて見た時」
「すぐに分かったそうです」
「誰かが、あの子たちを殺そうとしていると」
「だから、二人の身分を一時的に分けた」
「一人は蘇家の記録へ」
「もう一人は沈家の記録へ」
「そして、元の記録を隠した」
蘇晩晴が小さな声で尋ねる。
「どうして、誰かに本当のことを話さなかったの?」
女は少し黙った。
「母は、人を信じていたから」
「でも、後になって分かった」
「人は、怖くもなる」
「悪人じゃない人間も」
「自分の家族を失うことを恐れる」
「だから、一人は知らないと言った」
「もう一人は、見ていないと言った」
「そして、別の一人は命令されただけだと言った」
「最後には」
「誰も自分は人を殺していないと言えた」
「それでも」
「人は死んだ」
沈砚は何も言わなかった。
それこそが、二十三年前の事件で最も答えの出なかったことだった。
誰一人、自分が殺したとは認めない。
それなのに。
死者だけが増えていった。
⸻
女は続けた。
「母は、後になって気づいた」
「本当に恐ろしいのは、一人の悪人じゃない」
「大勢の普通の人間なんだ、と」
「一人ひとりが、ほんの少しずつ何かをする」
「それだけで」
「最後には、誰にも背負えないほど大きなことになる」
陳旺は俯いた。
何も言わない。
沈砚は彼を一度だけ見た。
陳旺にも分かっている。
二十三年前。
彼も、その一人だった。
火をつけたわけじゃない。
人を殺したわけでもない。
名前を変えたわけでもない。
ただ船を動かした。
ただ黙った。
そして、自分に言い聞かせた。
「俺には関係ない」と。
だが。
一人の沈黙もまた。
時には、その出来事の一部になる。
⸻
沈砚は銅の鍵を手に取った。
「周娘子はどこにいる?」
女は南を指した。
「白石横丁」
秦重が驚く。
「ずっとそこに?」
「違う」
女は首を横に振る。
「母はここ数年、ずっと場所を変えている」
「ただ、どこへ行く時も」
「最後に一度だけ、あの井戸を見に戻る」
沈砚は、ふと思い出した。
二十三年前。
周娘子が井戸のそばで、一本の木の櫛を洗っていた。
その櫛には、こう刻まれていた。
「私が善人だったと証明するな」
ようやく分かった。
あの言葉は遺言ではなかった。
警告だった。
彼女は、自分が子供を救ったからといって。
後世の人間に「善人」にされることを望んでいなかった。
なぜなら。
彼女自身が一番よく知っていたからだ。
自分もまた、間違いを犯した。
他人の運命を、他人に代わって決めたこともある。
ただ。
その後、その責任を背負い始めたのだ。
⸻
白石横丁へ着いた時には。
すでに昼近くになっていた。
古い家には、誰もいない。
扉の錠は、錆びついていた。
沈砚は銅の鍵を取り出す。
ゆっくり回す。
「カチッ」
扉が開いた。
中には家具がない。
ただ一つ、机だけが置かれていた。
その上に、木箱。
木箱の横には、黄ばんだ紙が一枚。
沈砚は広げた。
そこには一文だけ。
「もし、ここまで辿り着いたのなら、沈知遥はあなたたちを騙していない」
落款はない。
沈砚は、その下を読む。
二行目。
「本当の第八の人間は、私だ」
秦重が息を呑む。
だが沈砚は驚かなかった。
すでに、気づいていたからだ。
周娘子。
彼女こそ。
七号船の正式な名簿に入っていなかった人間だった。
子供ではない。
船員でもない。
護送役でもない。
すべての身分の変化を知っていた人間。
二人の子供を見た。
沈懐川を見た。
蘇河を見た。
そして、誰が記録を書き換えていたのかも知っていた。
だから。
彼女は消えなければならなかった。
二十三年前。
彼女自身もまた。
「名前のない者」になった。
⸻
木箱の中には、さらに三つの物が入っていた。
一つ目。
沈知遥の古い簪。
二つ目。
蘇河の帳簿の切れ端。
三つ目。
完全な名簿。
沈砚が広げる。
今度は。
十二人ではなかった。
七つの名前だけ。
そして最後の欄。
「第八:周娘子」
その下に。
「事情を知る者」
さらに一行。
「殺してはならない」
沈砚の手が止まる。
秦重が、その三文字を見る。
「殺してはならない?」
沈砚は頷く。
「当時、誰かが彼女を殺そうとしていた」
「だが、誰かがこの一文を残した」
誰だったのか。
答えはない。
だが沈砚は、ふと父の言葉を思い出した。
「死人の代わりに話すな。死人は答えない」
「お前が話すべきなのは、生きている人間だ」
ようやく分かった。
父が残したかったものは。
名簿でもなかった。
一つの身分でもなかった。
一つの、最低限の線引きだった。
どれほど複雑な事情があっても。
真実を消すために。
もう一人、人を殺してはならない。
⸻
その時。
家の外から足音が聞こえた。
沈砚が振り返る。
白髪の老女が、門のところに立っていた。
杖をついている。
身体は、すでにひどく弱っていた。
それでも。
彼女はずっと沈砚を見ていた。
「お前は、あの人によく似ている」
沈砚が尋ねる。
「沈懐川か?」
老女は小さく笑う。
「そうだ」
「あなたが周娘子か?」
老女は否定しなかった。
「そうだ」
沈砚は近づかなかった。
ただ尋ねる。
「二十三年前、火をつけたのは誰だ?」
周娘子は窓の外を見る。
長い沈黙のあと。
答えた。
「趙六」
「だが、彼が最初ではない」
沈砚の眉が動く。
「他にもいるのか?」
「いる」
「誰だ?」
周娘子は沈砚を見る。
「名前は知らない」
「ただ、その身分だけは知っている」
「誰だ?」
周娘子は、ゆっくりと言った。
「当時、七号船を南陵から出させた人間」
「河運司ではない」
「南平令でもない」
「それは……」
言葉が、そこで途切れた。
手にしていた杖が落ちる。
老女の身体が前へ倒れた。
沈砚は咄嗟に支える。
秦重が駆け寄り、脈を確かめる。
「まだ息がある」
蘇晩晴がしゃがみ込む。
「早く助けて」
沈砚は頷いた。
「先に人を救え」
机の上の名簿が、風に煽られて開いた。
最後の頁。
墨で塗り潰された名前が一つ見える。
墨はすでに薄れていた。
そこに残っているのは、二文字の輪郭だけ。
沈……
沈砚は一度だけ見た。
だが、触れなかった。
ただ名簿を閉じる。
なぜなら。
彼は初めて、本当の意味で理解したからだ。
真実は、待つことができる。
人は、待ってくれない。
そして今度こそ。
彼は、真実を知るために。
誰一人として死なせない。




