第四十一章 彼女はいったい誰なのか
秦重の言葉が落ちたあと。
部屋には、誰一人として言葉を発する者はいなかった。
蘇晩晴は秦重を見つめた。
「私が……送り出されたって?」
秦重は頷いた。
「今のお前の身分じゃない」
「じゃあ、何だったの?」
「分からない」
蘇晩晴は、かすかに笑った。
とても小さな笑みだった。
だが、そこには笑いの気配など一つもなかった。
「みんな、『分からない』って言う」
「でも、みんな少しずつ知っている」
「そして、その少しずつを繋ぎ合わせていく」
彼女は沈砚を見る。
「最後は?」
「全部繋がったら、私はいったい誰なの?」
沈砚は答えなかった。
彼にも、分からなかったからだ。
⸻
秦重は、あの紙を机の上に置いた。
「さっきの言い方は、正確じゃなかった」
蘇晩晴が秦重を見る。
「どういうこと?」
「俺は『本当に送り出されたのは彼女だ』と言った」
「だが、本当は――」
秦重は、あの一文を指差した。
「彼女は一度も南陵を離れていない」
「これは、彼女がずっと南陵に住んでいたという意味じゃない」
「つまり……」
秦重は一度、言葉を止めた。
「彼女の身分が、ずっと南陵に残っていたということだ」
沈砚が勢いよく顔を上げた。
「身分?」
秦重は頷く。
「二十三年前、誰かが一人の子供を送り出した」
「だが、その子の元の身分までは一緒に送り出さなかった」
「だから、送り出されたのは人間」
「残されたのは、名前だった」
蘇晩晴は、ゆっくりと理解し始めた。
「つまり……」
「蘇晩晴という名前は、南陵に残された」
「そして私が送り出されたあと、誰かがその名前を別の子供に与えた?」
秦重は答えなかった。
沈砚が口を開いた。
「別の子供じゃない」
「君だ」
蘇晩晴が彼を見る。
沈砚は続けた。
「俺たちはずっと、『蘇晩晴』を一人の人間の名前だと思っていた」
「だが、二十三年前――」
「それは、ただの身分だったのかもしれない」
「誰かがそれを使えば、その人間が『蘇晩晴』になれる」
部屋は再び静まり返った。
⸻
陳旺が突然、口を開いた。
「でも、それじゃおかしい」
全員が彼を見る。
彼は机の上の記録を指差した。
「ただ身分を入れ替えただけなら」
「なぜ周明は、本当に送り出されたのが彼女だと言った?」
沈砚は答えなかった。
陳旺は続ける。
「俺は、あの子を自分の目で見た」
蘇晩晴が息を呑んだ。
「私を?」
陳旺は首を横に振った。
「お前だったかどうかは分からない」
「船倉には、二人の子供がいた」
「一人は少し年上」
「もう一人は幼かった」
「年上の子が、ずっと年下の子を守っていた」
蘇晩晴が尋ねる。
「年上は、誰?」
陳旺は黙った。
「覚えているのは……」
「手に傷があったことだけだ」
蘇晩晴の顔色が、一瞬で変わった。
右手首。
あの古い傷。
幼い頃から残っている傷だった。
「あの人……」
彼女は小さな声で尋ねた。
「私なの?」
陳旺は彼女を見る。
「分からない」
また、この言葉だった。
蘇晩晴は目を閉じた。
突然、疲れを感じた。
身体の疲れではない。
二十三年間。
誰もが彼女に言い続けてきた。
お前は誰だ。
お前の名前は何だ。
何を覚えているべきだ。
何を知ってはいけない。
彼女自身の過去さえ。
誰かが勝手に書き換えられる、一枚の文書のようだった。
⸻
沈砚が突然、木箱を手に取った。
「もう一つある」
彼は箱を裏返した。
底に、細い隠し溝がある。
刀の先を差し込み、軽くこじ開ける。
中から、小さな薄い木片が落ちた。
そこには一行の文字が刻まれていた。
「九月初六、南平碼頭、第三船杭」
陳旺がすぐに立ち上がった。
「第三船杭なら、まだ残ってる」
沈砚が彼を見る。
「行こう」
⸻
南平码头は、何年も前に廃れていた。
第三船杭は水辺に埋まっている。
地上に出ているのは、半分だけだった。
陳旺が飛び降りる。
手でしばらく探る。
突然、声を上げた。
「何かある!」
泥水の中から、油布に包まれたものを引きずり出す。
開いてみる。
中には古い船票が一枚。
銅銭が一枚。
そして、とても小さな紙切れが一枚。
紙は水に浸かって脆くなっていた。
それでも、いくつかの文字は残っている。
「九月初六」
「南平」
「一人」
陳旺が眉をひそめる。
「一人だけ?」
沈砚は船票を受け取った。
裏には、さらに一行。
「白石横丁へ送る」
蘇晩晴は、その文字を見た瞬間。
動きを止めた。
「白石横丁……」
沈砚も気づいた。
周婆。
彼らはずっと、こう考えていた。
周明は船の上で、あの姉と妹を見た。
だが、もしこの船票が本物なら。
少なくとも一人の子供が。
九月初六のあと。
白石横丁へ送られている。
⸻
彼らはすぐに周婆を訪ねた。
だが、周婆の家の門は閉ざされていた。
何度か叩く。
返事はない。
陳旺が扉を蹴り破った。
中には誰もいなかった。
ただ、机の上には冷え切った粥が一杯。
その横には、一足の靴。
靴底には、まだ泥が付いている。
まるで、誰かがついさっき帰ってきたようだった。
蘇晩晴が奥の部屋へ入る。
そして、突然立ち止まった。
壁に。
一枚の古い肖像画が掛けられていた。
描かれている女は、十六、七歳ほど。
髪は簡素に結われている。
右手首には、一本の赤い糸。
蘇晩晴の呼吸が、瞬間的に止まった。
「この人……」
沈砚が近づく。
肖像画の下には、一行の文字。
「阿遥」
沈砚は、その肖像画を見つめた。
「沈知遥」
だが、蘇晩晴は首を横に振った。
「違う」
「何?」
彼女は肖像画を指差した。
「この人、知ってる」
「子供の頃に」
「火の中で見た」
蘇晩晴は目を閉じた。
記憶が、少しずつ浮かび上がってくる。
一人の少女。
川辺に立っている。
顔には灰が付いている。
手には、もっと幼い子供の手を握っていた。
少女は泣いていなかった。
ただ、何度も繰り返していた。
「怖くない」
やがて、誰かがやって来た。
少女は子供を別の女へ押し出す。
そして言った。
「この子を送り出して」
女が尋ねる。
「あなたは?」
少女は答えた。
「私は残る」
蘇晩晴が、勢いよく目を開いた。
「この人は姉さんじゃない」
「じゃあ……」
彼女は沈砚を見る。
「もう一人の子供の母親」
沈砚の胸が震えた。
「母親?」
蘇晩晴は頷いた。
「誰なのかは分からない」
「でも、あの子を抱いていた」
「姉じゃない」
「母親だった」
⸻
そのとき。
秦重が突然、肖像画の前まで歩いた。
彼は長い間、絵を見つめていた。
そして、顔色が少しずつ変わっていく。
「俺は、この人を見たことがある」
沈砚がすぐに振り返った。
「どこで?」
「義荘」
「二十三年前だ」
秦重の声が震え始める。
「九月初五」
「彼女は一人の子供を抱いていた」
「俺を訪ねてきた」
沈砚が尋ねる。
「それから?」
「彼女は……」
秦重は目を閉じた。
「その子は、もう死んだと言った」
全員が凍りついた。
蘇晩晴が尋ねる。
「でも、その子は死んでいない」
秦重は首を横に振った。
「俺も、そのときは知らなかった」
「なぜなら、彼女が抱いてきた子供は……」
秦重はゆっくりと目を開いた。
「彼女自身の子供じゃなかった」
部屋は、死んだように静まり返った。
⸻
沈砚は、ようやく一つの部分を理解した。
九月初五。
身元不明の遺体。
一人の女。
一人の子供。
身分の入れ替え。
七号船。
八去七帰。
おそらく、本当に起きたことは。
単純な「一人の子供を救った」という話ではない。
二人の子供が、入れ替えられた。
一人の子供が送り出された。
もう一人の子供が残された。
そして、そのうち少なくとも一人が。
「蘇晩晴」という名前を使った。
だが、問題はまだ残っている。
本当の蘇晩晴は、誰なのか?
そのとき。
外から足音が聞こえた。
全員が同時に振り返る。
戸口に、一人の女が立っていた。
右手首には赤い糸。
あの赤い糸の女だった。
彼女は沈砚を見なかった。
ただ、蘇晩晴だけを見つめている。
「やっと、思い出したのね」
蘇晩晴は彼女を見つめた。
「あなたは誰?」
女は黙った。
そして、ゆっくりと斗笠を外した。
青白く、疲れ切った顔が現れる。
女は蘇晩晴を見た。
そして言った。
「私は、あのときあなたを船に乗せた人間」
陳旺が拳を固く握った。
沈砚は蘇晩晴の前に立つ。
「お前は、いったい誰だ?」
女は彼を見る。
「私の名は……」
そこで、言葉を止めた。
視線が、壁の肖像画へ向かう。
その瞬間。
彼女の目に、初めて苦痛が浮かんだ。
「沈知遥」
沈砚の身体が、完全に固まった。
蘇晩晴も愕然とする。
「あり得ない」
「なぜ?」
「すべての記録に、あなたは死んだとある」
沈知遥は笑った。
「だからこそ、今日まで生きてこられた」
彼女は手を上げた。
手首に巻かれた赤い糸が見える。
「奴らが欲しかったのは、沈知遥の死体」
「だから、私は奴らに一つの死体を与えた」
「奴らが欲しかったのは、蘇晩晴」
「だから私は、もう一人の蘇晩晴を与えた」
沈砚の顔色が変わった。
「お前は、いったい何度、身分を入れ替えた?」
沈知遥は答えなかった。
ただ、蘇晩晴を見る。
「私が入れ替えたのは、一度だけ」
「でも、誰かが私の代わりに二度目を入れ替えた」
蘇晩晴が尋ねる。
「誰?」
沈知遥は彼女を見つめた。
その目には、複雑な感情が浮かんでいた。
ほとんど悲しみに近い。
「あなたの父親」
「蘇河?」
「違う」
彼女は首を横に振る。
「沈懐川」
沈砚が勢いよく顔を上げた。
沈知遥が言う。
「当時、本当に送り出された子供は――」
「あなたじゃない」
「あなたたちがずっと探していた第八の人間でもない」
彼女が一歩、前へ出る。
その声は、とても小さかった。
だが、刃物のように鋭かった。
「沈懐川自身の娘よ」
沈砚は、完全に言葉を失った。
「沈……懐川?」
沈知遥は頷いた。
「あなたはずっと思っていた」
「父上は、誰かを救おうとしていたと」
「でも二十三年前」
彼女は沈砚を見つめる。
「彼が本当に救おうとしたのは――」
「あなたよ」
部屋には、誰一人として言葉を発する者はいなかった。
そのとき、蘇晩晴は突然思い出した。
あの火事の中で。
あの少女が最後に言った言葉。
――「あの人を戻してはならない」
ようやく分かった。
その「あの人」とは。
他の誰でもない。
沈砚だった。
その瞬間。
屋外から突然、銅鈴の音が響いた。
沈知遥の顔色が変わる。
「奴らが来た」
沈砚が尋ねる。
「誰だ?」
彼女は振り返った。
暗闇に包まれた通りを見る。
「二十三年前に死ななかった者たち」
「今度は、自分の名前を取り戻しに来る」




