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河灯未明  作者: 亀


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第三十九章 救い間違えた者

馬車は、もう遠くへ走り去っていた。


通りは、再び静かになった。


だが、あの言葉だけは、誰の耳にも残っていた。


――あなたたちは、救う相手を間違えた。


蘇晩晴は、旧戸房の前に立っていた。


顔は真っ青だった。


それでも、追いかけようとはしなかった。


沈砚は彼女を一度見た。


「焦るな。あの女の言葉を、すぐに信じるな」


蘇晩晴は首を横に振った。


「分かってる」


「わざと、ああ言ったのかもしれない」


「本当なのかもしれない」


沈砚は否定しなかった。


それこそが、今の彼らが最も無視してはいけない可能性だったからだ。


秦重は、あの文書をもう一度しまった。


「まず戻ろう」


「どうして?」


「少なくとも、一つ分かったことがある」


秦重は、馬車が消えていった方角を見た。


「当時の出来事を、最初から最後まで知っている人間がいる」


「しかも、俺たちに知られることを恐れていない」


⸻


住まいに戻ると、四人は持っている古い記録をすべて机の上に並べた。


沈砚は、まずいくつかの名前を書いた。


沈知遥。


蘇晩晴。


沈七娘。


周明。


蘇河。


その下に、さらに一言を書き加えた。


「誰が、誰なのか?」


陳旺は、机いっぱいに広がった紙を見た。


「俺たち、また最初に戻ったんじゃないか?」


沈砚は首を横に振った。


「違う」


「これまでは、身元を一本の線として考えていた」


「でも今になってみれば――」


「それは、むしろ一枚の網に近い」


秦重が頷いた。


「誰かが名前を変える」


「誰かが名前を借りる」


「死んだあとも、記録の中では生き続ける者がいる」


「逆に、生きているのに、記録の上では死んだことになっている者もいる」


蘇晩晴が、突然口を開いた。


「じゃあ……」


彼女は自分の名前を指差した。


「本当の蘇晩晴は、もう死んでいる可能性もある」


部屋の中が、一瞬で静まり返った。


陳旺が顔を上げる。


沈砚は、すぐには答えなかった。


蘇晩晴は続けた。


「そして私は、ただ彼女の名前を使っているだけ」


「もし、そうだとしたら……」


彼女は沈砚を見た。


「あなたがずっと守ってきた人は、あなたたちが思っていた人物とは、まったく違うかもしれない」


沈砚は黙っていた。


しばらくしてから、口を開いた。


「可能性はある」


蘇晩晴の目が、わずかに動いた。


彼女は、沈砚がすぐに否定すると思っていた。


だが、彼は否定しなかった。


「……怖くないの?」


沈砚が尋ねた。


「怖い」


彼女は迷わなかった。


「でも、それ以上に怖い」


「あなたが、その可能性と向き合いたくなくて、私を騙すことのほうが怖い」


沈砚は頷いた。


「だから、調べる」


⸻


秦重が突然、あの戸籍文書を手に取った。


「ここがおかしい」


彼は最後の日付を指差した。


「九月初七」


「それがどうした?」


「もし、この文書が本当に九月初七に書かれたものなら――」


「なぜ周娘子が署名している?」


沈砚は、はっとした。


「人を救うことに関わっていたからだ」


「違う」


秦重は首を横に振った。


「そこじゃない」


「周娘子は義荘の人間だ」


「彼女が触れられるのは、せいぜい死者のことだ」


「戸籍に関わる権限なんてない」


沈砚はすぐに理解した。


「つまり、誰かに署名させられた」


秦重は頷いた。


「そして、その誰かは……」


彼の指が、裏面の「沈」という字に落ちた。


「おそらく沈懐川だ」


陳旺が眉をひそめた。


「さっき、断定できないと言ってただろ」


「断定できないとは言った」


秦重は陳旺を見る。


「だが、確かめることはできる」


「どうやって?」


「彼の印を探す」


⸻


沈家の旧宅は、すでに焼け落ちている。


だが、沈懐川が残した物がすべて消えたわけではなかった。


以前、彼らは古い書斎の地下から、一つの木箱を見つけていた。


中には、いくつかの私印が入っていた。


そのうちの一つ。


ちょうど角が欠けていた。


沈砚はそれを取り出した。


そして、文書に残された印と重ねる。


ぴたりと一致した。


陳旺が息を呑んだ。


「本当に……あの人のものだ」


蘇晩晴は、その印を見つめた。


何も言わなかった。


だが、沈砚は突然、何かがおかしいと感じた。


あまりにも順調だった。


順調すぎる。


これほど長く追い続けてきた事件が、こんなに簡単に答えへ近づくはずがない。


「待て」


沈砚は文書を取り上げた。


「もし父上が本当に直接関わっていたなら――」


「なぜ正式な記録を残さなかった?」


秦重が答える。


「残せなかったからだろう」


沈砚は首を横に振った。


「違う」


「もし本当に隠したかったなら」


「こんな私印の文書すら残さないはずだ」


秦重は黙った。


沈砚は、その印を見つめた。


そして、突然あることに気づいた。


「この文書……」


「誰が保管していた?」


誰も答えなかった。


なぜなら、彼らは今までずっと、これがここに隠されていたものだと思い込んでいたからだ。


だが、旧戸房は二十年前に火事に遭っている。


しかも、一度焼け落ちている。


それなのに、なぜこの文書だけが焼けずに残っている?


⸻


彼らは再び、旧戸房へ戻った。


今度、沈砚が見たのは木柜ではなかった。


壁だった。


秦重はすぐに気づいた。


丁字三号柜の裏にある煉瓦壁。


一枚だけ、明らかに色が違っている。


叩いてみる。


中が空洞だった。


陳旺が鉄棒を持ってきた。


煉瓦をこじ開ける。


中にあったのは、隠し部屋ではなかった。


人ひとりがようやく手を入れられるほどの、細い隙間だった。


その中には、十数巻の紙が収められていた。


沈砚は、一番上の一巻を取り出した。


表紙には、こう書かれていた。


「九月初五至初七 臨時登記」


開く。


一枚目。


そこには、彼らがずっと探していた記録があった。


だが、本当に重要なのは二枚目だった。


そこには七つの名前が書かれていた。


そして、第八行。


名前はない。


ただ一言だけが記されている。


「此人不宜入冊」


この者は、名簿に入れてはならない。


沈砚の胸が沈んだ。


さらに読み進める。


第九行。


「若有人問,答已死」


誰かに尋ねられたら、死んだと答えよ。


第十行。


「若本人回来,不得承認」


本人が戻ってきても、認めてはならない。


蘇晩晴は、その数行を見つめた。


「これは、人を殺すためじゃない」


沈砚は頷いた。


「そうだ」


「一人の人間を、完全に消すためだ」


秦重が低く呟いた。


「記録から……消す」


陳旺が尋ねる。


「なぜ?」


誰も答えなかった。


沈砚が最後の一行を見つけるまでは。


その文字だけは、明らかに沈懐川の筆跡ではなかった。


そこに書かれていたのは、たった五文字。


「因为他不能活」


――彼は、生きていてはならない。


その下に、署名はなかった。


⸻


蘇晩晴が突然、手を伸ばした。


「待って」


彼女は、その一行を指差した。


「この字……」


「どうした?」


「見たことがある」


沈砚が彼女を見る。


「どこで?」


蘇晩晴は目を閉じた。


必死に記憶を探る。


火の光。


川の水。


一人の男。


一人の女。


そして――一つの手。


その手には、筆が握られていた。


紙の上に、文字を書いている。


あの頃、彼女はまだ幼かった。


何が書かれているのかまでは見えなかった。


ただ、その人が字を書くとき。


手首に、一本の傷があった。


蘇晩晴が目を開いた。


「赤い糸の女」


沈砚が息を止めた。


「間違いないのか?」


「分からない」


「ただ……覚えてる」


「字を書いているとき、その人の手首に傷があった」


秦重はすぐに、これまでの記録を取り出した。


「なら、なぜ彼女は『彼は生きていてはならない』と書いた?」


沈砚は答えなかった。


その瞬間、気づいたからだ。


彼らはずっと、赤い糸の女が守っているのは蘇晩晴だと思っていた。


だが――


もし、本当に守っていた相手が、蘇晩晴ではなかったとしたら?


彼女が守っていたのは――


もう一人の子供かもしれない。


⸻


その夜。


蘇晩晴は一人で川辺に座っていた。


沈砚が歩いてくる。


何も言わず、隣に座った。


蘇晩晴が尋ねた。


「あなたは、私を誰だと思ってる?」


沈砚は座ったまま答えた。


「今は、分からない」


彼女は少し笑った。


「やっと、『分からない』って言ったね」


「前にも言った」


「でも、今回は違う」


沈砚は川面を見つめた。


「前の『分からない』は、証拠が足りなかったからだ」


「今の『分からない』は――」


「最初から、問いそのものを間違えていた可能性があるからだ」


蘇晩晴は黙った。


しばらくして、口を開いた。


「もし、最後まで調べて」


「私が本当に蘇晩晴じゃなかったら」


沈砚が彼女を見る。


「じゃあ、君は誰なんだ?」


「分からない」


「なら、調べ続ける」


「調べ終わったあと、私があなたの知らない人間だったら?」


沈砚は答えなかった。


蘇晩晴が彼を見る。


「それでも、私を守ってくれる?」


沈砚は長い間、考えた。


「すべてのことを約束することはできない」


「でも、一つだけならできる」


「何?」


「君自身が決める前に」


「誰にも、君が誰なのかを決めさせない」


蘇晩晴は彼を見つめた。


そして、静かに頷いた。


⸻


翌日。


彼らはついに、まだ生きている旧戸房の書吏を見つけた。


老人は、すでに八十を超えていた。


「九月初七」という言葉を聞いた瞬間。


その手が震え始めた。


「お前たち……」


「もしかして、あれを見つけたのか?」


沈砚が尋ねた。


「知っているのか?」


老人は頷いた。


「あれは戸籍じゃない」


「では、何だ?」


老人は彼らを見た。


「生きていることを証明するためのものだ」


沈砚が眉をひそめる。


「どういう意味だ?」


老人はゆっくりと口を開いた。


「あの頃、二人の子供がいた」


「一人は、すでに死んでいた」


「もう一人も、死ぬことになっていた」


「だから、誰かが交換した」


蘇晩晴の顔が青ざめる。


「誰と……誰を?」


老人は首を横に振った。


「分からん」


「ただ、これだけは知っている……」


老人は顔を上げた。


蘇晩晴を見る。


「当時、本当に送り出された子供は――」


「お前じゃない」


蘇晩晴は、呆然とした。


老人は続ける。


「お前は、残されたんだ」


沈砚の胸が大きく揺れた。


「何のために?」


老人は目を閉じた。


長い沈黙のあと。


ようやく答えた。


「ある人が戻ってくるのを、待つためだ」


「誰が?」


老人は答えなかった。


その代わり――


外から、突然足音が聞こえた。


全員が振り返る。


戸口に立っていたのは、一人の男。


灰色の衣。


斗笠。


つい先ほど、もう去ったと思っていた男だった。


男は沈砚を見つめた。


そして、一言だけ言った。


「ようやく分かったな」


「蘇晩晴は、救われた人間じゃない」


男は蘇晩晴を見る。


「彼女は、残された人間だ」


沈砚が立ち上がる。


「誰を待つために残された?」


灰衣の男は、しばらく黙っていた。


やがて、口を開いた。


「二十三年後――」


「本当のその人間を、もう一度送り戻すためだ」


その言葉が落ちた瞬間。


屋外から、突然、悲鳴が響いた。


老人が、勢いよく目を開いた。


灰衣の男が振り返る。


沈砚は、外へ駆け出した。


通りの角。


一人の男が、血だまりの中に倒れていた。


そして、その手には――


真っ二つに折れた七水銅牌が、固く握りしめられていた。


片方に刻まれているのは――


「七」


もう片方に刻まれているのは――


「沈」。

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