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河灯未明  作者: 亀


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第三十八章 名を書いた者

川面は静かだった。


あまりにも静かで。


さっき聞いた言葉すべてが、錯覚だったのではないかと思えてしまうほどだった。


蘇晩晴は、船板の上に置かれた銅牌を見つめていた。


「もう一人の子供……」


ゆっくりと顔を上げる。


「誰?」


周明は答えなかった。


代わりに沈砚が尋ねる。


「なぜ、二人の子供がいたと分かる?」


周明は彼を見る。


「俺が、この目で見たからだ」


「どこで?」


「七号船」


「いつ?」


「九月初六」


秦重が突然、口を開いた。


「お前は、あの時船に乗っていたのか?」


周明は頷く。


「船員だった」


陳旺が眉をひそめる。


「だが、お前は七号船には乗っていないと言ってなかったか?」


周明は彼を見る。


「俺は、そんなことを言っていない」


陳旺が一瞬、固まる。


周明は続けた。


「お前が勝手に、俺は船に乗っていないと思っていただけだ」


その言葉で、陳旺は完全に動けなくなった。


彼は突然、二十三年前のあの夜を思い出した。


自分が周明と一緒に川辺へ行ったこと。


そして周明が途中で離れたこと。


だが、その後に何が起きたのか。


彼は知らなかった。


ずっと、こう思っていた。


――周明は船に乗らなかったのだと。


――


沈砚が尋ねる。


「なぜ、父を騙した?」


周明が目を上げる。


「お前の父も、俺を騙した」


「どう騙した?」


「南平まで船を走らせれば」


「全員が無事に済む、と言った」


陳旺が咄嗟に口を挟む。


「その後は?」


周明は彼を見なかった。


「後になって分かった」


「全員じゃなかった」


船上が静まり返る。


蘇晩晴が尋ねる。


「誰が無事じゃなかったの?」


周明は彼女を見る。


「最後に何という名前になったのかは知らない」


「だが、元の名前なら覚えている」


蘇晩晴の呼吸が止まる。


「何という名前?」


周明はすぐには答えなかった。


沈砚を見る。


「本当に知りたいのか?」


「知りたい」


「知ったら、後悔するかもしれない」


沈砚は静かに言った。


「後悔することと、知らないことは別だ」


周明は長い間、彼を見つめた。


そして、三つの言葉を口にした。


「沈七娘」


蘇晩晴が呆然とする。


沈砚も眉をひそめる。


「沈七娘?」


周明は頷いた。


「正式な名前じゃない」


「当時、船にいた者たちがそう呼んでいた」


秦重が突然、呟いた。


「七娘……」


その顔色が変わる。


「義荘の古い記録に、『七娘』と書かれた者がいる」


沈砚がすぐに彼を見る。


「なぜ、今まで言わなかった?」


秦重は首を振った。


「死者の家族が呼んでいた名前だと思っていた」


「いつの記録だ?」


「九月初五」


沈砚の胸が沈む。


九月初五。


あの身元不明の死体が義荘へ運ばれてきた日だった。


――


彼らは、それ以上聞かなかった。


周明が突然立ち上がったからだ。


「今夜は、もう話せない」


陳旺が慌てて尋ねる。


「また行くのか?」


「行く」


「何を怖がっている?」


周明は陳旺を見る。


「怖がっているのは、俺じゃない」


そして蘇晩晴を見る。


「奴らだ」


沈砚がその視線を追う。


遠くの河岸。


人影が一つ、ちらりと見えた。


沈砚はすぐに立ち上がる。


「秦重、ここに残れ」


「陳叔、船を見ていてくれ」


「晩晴、俺と来い」


蘇晩晴は頷いた。


二人はすぐに人影を追った。


――


その人物は、速く走ってはいなかった。


まるで、わざと跡を残しているようだった。


廃屋の倉庫を通り過ぎたところで。


沈砚が突然、足を止めた。


地面に一本の赤い糸が落ちている。


細い糸だった。


木釘に結びつけられている。


蘇晩晴がしゃがみ込む。


「彼女が来た」


沈砚が頷く。


「赤い糸の女だ」


さらに進む。


壁に、新しい刻み跡があった。


「七」でもない。


「八」でもない。


そこには一つの完全な文字が刻まれていた。


「名」


その下には、さらに小さな文字。


――「名前は証拠ではない」


蘇晩晴が眉をひそめる。


「どういう意味?」


沈砚はその文字を見る。


「誰かが俺たちに警告している」


「名前を真実だと思うな、と」


蘇晩晴は黙った。


「でも、私たちが今調べているのは、名前でしょう?」


沈砚は反論しなかった。


確かに、それは問題だった。


蘇晩晴という名前。


それが彼女の元の名前ではないかもしれない。


周明という名前。


それだって、誰かがかつて使った名前かもしれない。


蘇河は、言うまでもない。


二十三年もの間。


その名前は、複数の人間に使われていた可能性すらある。


ならば――


名前で身元を証明できないのなら。


何が、証明になる?


沈砚は突然、父の言葉を思い出した。


「死人の代わりに話すな。死人は答えない」


以前の彼は、それを事件を調べるための教えだと思っていた。


だが今。


突然、気づいた。


父が本当に言いたかったのは――


他人が何者なのかを、自分の判断で決めるな。


ということだったのかもしれない。


――


船へ戻ると。


周明は、すでにいなくなっていた。


陳旺が船首に立っている。


手には一枚の紙。


「奴が置いていった」


沈砚が受け取る。


そこには一文だけ。


「『蘇晩晴』という名前を書いた者を探せ」


その下には、住所が記されていた。


南陵府。


旧戸房。


丁字三号の棚。


秦重が一目見る。


「旧戸房は、もう封鎖されている」


沈砚が尋ねる。


「いつ封鎖された?」


「二十年前」


陳旺が聞く。


「なぜ?」


秦重は黙った。


「火事だ」


沈砚が顔を上げる。


また、火。


二十三年前。


沈家が焼けた。


二十年前。


旧戸房が焼けた。


これがただの偶然だというのなら。


あまりにも多すぎる。


――


翌朝。


四人は旧戸房へ向かった。


扉はすでに半分崩れている。


中には、廃棄された古い記録が山のように積まれていた。


沈砚は教えられた場所を探す。


丁字三号の棚。


鍵はかかっていなかった。


中にあったのは、一つの木箱。


箱には、こう書かれていた。


九月初七。


蘇晩晴は、その横に立っていた。


だが、手を伸ばそうとはしなかった。


沈砚が箱を開ける。


中には一枚の身分変更文書が入っていた。


一行目。


原身份:空。


二行目。


年齢:七歳。


三行目。


性別:女。


四行目。


変更後の姓名:蘇晩晴。


蘇晩晴の顔が、一気に青ざめた。


秦重が低い声で言う。


「本当に、ここだ」


沈砚はさらに下を見る。


文書の最後には、二つの署名があった。


一つは戸房の登録担当者。


そしてもう一つは――


沈懐川ではなかった。


周娘子。


全員が言葉を失う。


蘇晩晴がゆっくり言った。


「彼女は、義荘の人でしょう?」


秦重が頷く。


「そうだ」


「どうして戸籍を変更できたの?」


「できるはずがない」


沈砚はその文書を見つめる。


「だから、これは……」


そこで言葉を止めた。


「正式な戸籍じゃない」


秦重が受け取る。


印章を慎重に調べる。


「確かに府印がない」


「あるのは、一つの私印だけだ」


「誰の?」


秦重が紙を裏返す。


そこには、小さな文字が刻まれていた。


沈。


沈砚の顔色が変わった。


沈懐川の官印ではない。


一つの私印だった。


――


蘇晩晴が突然、尋ねた。


「沈砚」


「ん?」


「もし、これが本当に私の記録なら」


「私の元の名前は?」


沈砚はすぐには答えられなかった。


彼にも分からない。


その時。


秦重が木箱の底から、もう一枚の紙を取り出した。


そこには一行だけ。


「蘇晩晴は、作られた名前ではない」


その下。


「彼女は、残された」


沈砚は、その言葉をじっと見つめた。


そして突然。


今まで誰も気づかなかった問題に気づいた。


彼らはずっと聞いていた。


誰が蘇晩晴の名前を変えたのか。


だが、本当に問うべきなのは――


なぜ、変える必要があったのか。


もし、その子供がすでに「死者」として扱われていたのなら。


新しい名前を与えることは。


死を隠すためではない。


生き続けさせるためだった。


だが――


彼女を救うためだったのなら。


なぜ二十三年後になって。


誰かが何度も彼女を、この古い事件へ引き戻そうとしている?


沈砚がゆっくり顔を上げる。


「誰かが、ずっと彼女をここへ戻そうとしている」


蘇晩晴が彼を見る。


「なぜ?」


沈砚は答えなかった。


木箱の一番下に。


最後の一枚が残っていたからだ。


そこには名前がない。


ただ一文だけ。


「もし彼女が大人になったなら、真実を知るかどうかは、本人に決めさせろ」


署名。


沈懐川。


蘇晩晴は、その三文字を見つめたまま。


長い間、何も言わなかった。


やがて。


「沈砚」


「ん?」


「もし私が、知らないことを選んだら?」


沈砚は彼女を見る。


「調べない」


蘇晩晴が驚く。


「あなたは、ずっと真実を知りたかったんじゃないの?」


「そうだ」


「じゃあ、どうして……」


沈砚は文書を木箱へ戻した。


「真実は、お前のものだからだ」


「俺のものじゃない」


蘇晩晴は彼を見つめた。


その目から、初めて迷いが消えた。


残ったのは。


ごく淡い、複雑な感情だった。


彼女は手を伸ばす。


「蘇晩晴」と書かれた文書を手に取った。


「なら、知りたい」


沈砚は頷いた。


「分かった」


「でも、自分で決める」


「分かった」


二人は見つめ合う。


誰も、もう何も言わなかった。


その時。


窓の外から、馬の蹄の音が聞こえた。


秦重が入口へ向かう。


「誰か来た」


沈砚が振り返る。


通りの向こう。


一台の黒い馬車が、ゆっくりと止まった。


車内から、幕が上がる。


そこに一人の女が座っていた。


右手首には。


一本の赤い糸。


女は馬車から降りなかった。


ただ遠くから、蘇晩晴を見つめている。


そして言った。


「もう、決めたのね」


「なら、知るべきよ」


「あの時、本当に救われたのは――」


そこで言葉を止める。


視線が、沈砚へ移る。


「彼女じゃない」


沈砚の顔色が変わった。


女は幕を下ろす。


馬車は、ゆっくりと走り去っていった。


最後に残された言葉。


「あなたたちは、救う相手を間違えたのよ」

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