↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
河灯未明  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/51

第三十六章 周明はまだ生きている

その言葉は、一本の棘のようだった。


帰り道ずっと、陳旺の心に刺さっていた。


――周明は、まだ生きている。


住まいに戻ると。


陳旺は一人、庭に座っていた。


机の上には、あの古い銅の留め具が置かれている。


彼は、もう何年もそれを見てきた。


以前なら、これを見るたびに思い出すのは、周明が死んだ日のことだった。


だが今は。


自分が覚えているものが、本当に事実なのか。


初めて、確信が持てなくなっていた。


沈砚が歩いてくる。


「陳叔」


陳旺は顔を上げなかった。


「さっき、どうして聞かなかった?」


「何を?」


「あいつに、周明がどこにいるのか」


沈砚は隣に座った。


「聞いても、教えてくれない」


陳旺が苦笑する。


「どうして分かる?」


「俺たち自身に調べさせたいからだ」


陳旺は黙った。


長い沈黙のあと。


ようやく口を開く。


「もし、周明が本当に生きていたら……」


「俺は、これまで何だったんだ?」


沈砚は答えなかった。


陳旺は銅の留め具を見る。


「俺はずっと思っていた」


「俺が、あいつを死なせたんだと」


「だから、あいつのことを誰かに話すのも怖かった」


「探しに行くこともできなかった」


「怖かったんだ」


「いつか誰かに聞かれるんじゃないかって」


「お前は知っていたんだろう」


「だったら、なぜ何もしなかったんだ、と」


沈砚は彼を見る。


「今、聞かれた」


陳旺が顔を上げる。


沈砚は言った。


「なら、今から始めればいい」


――


彼らは再び、旧河運司へ向かった。


今度は、四人一緒だった。


秦重は、あの臨時役工記録を手にしている。


「もし周明が本当にこの紙に署名したのなら」


「少なくとも九月初六以降は、生きていたことになる」


陳旺は、その名前をじっと見つめる。


「だが、なぜ時間が書かれていない?」


沈砚が答える。


「正式な引き継ぎじゃない」


「後から補記されたものだ」


秦重が眉をひそめる。


「誰が書き足した?」


「周明本人かもしれない」


「あるいは、別の誰かだ」


蘇晩晴が尋ねる。


「誰かが、彼の筆跡を真似た可能性は?」


沈砚は彼女を見る。


「ある」


「だから、原本を探す」


陳旺が突然、口を開いた。


「どこにあるか、俺は知っている」


三人が同時に彼を見る。


陳旺は河運司の裏庭を指差した。


「周明には昔、ある習慣があった」


「船を走らせるたびに」


「船牌を船底に隠していた」


「そのほうが安全だと言っていた」


沈砚が尋ねる。


「なぜ?」


「他人を信用していなかったからだ」


陳旺が苦笑する。


「俺は昔、笑ったよ」


「たかが古い木札一枚を、何で隠すんだって」


「今になって考えると……」


それ以上は言わなかった。


――


七号船は、とっくに存在しない。


だが、当時の船渠はまだ残っていた。


ただ、すでに廃墟となっている。


陳旺に案内され、彼らは一番奥まで進んだ。


厚く茂った雑草をかき分ける。


その下から、腐った木板が現れた。


陳旺がしゃがみ込む。


「ここだ」


刀で木板をこじ開ける。


中には――


何もなかった。


陳旺が呆然とする。


「そんな……」


沈砚は何も言わない。


しゃがみ込み、じっと調べる。


木板の内側には、ごく細い引っ掻き傷が一周残っていた。


まるで、後から誰かが開けたような跡だった。


秦重が言う。


「誰かが来ている」


陳旺の顔が険しくなる。


「いつ?」


「分からない」


蘇晩晴が突然、何かを見つけた。


「ここ」


木板の下。


小さな布切れが落ちていた。


濃い藍色。


そこには、黒ずんだ血が付着している。


沈砚が拾い上げる。


それを見た瞬間。


陳旺の顔色が変わった。


「周明のものだ」


「どうして分かる?」


「奴の服だ」


「俺には分かる」


秦重が布を受け取る。


しばらく調べたあと。


「血は新しくない」


「少なくとも二十年以上前のものだ」


沈砚が尋ねる。


「周明のものだと断定できるか?」


秦重は首を振る。


「できない」


だが陳旺は言った。


「周明だ」


「俺には分かる」


沈砚が彼を見る。


「陳叔」


「記憶だけで決めつけるな」


陳旺はしばらく黙った。


「分かってる」


「だが……」


彼は布を強く握りしめる。


「今回だけは、俺に信じさせてくれ」


沈砚は止めなかった。


――


その夜。


陳旺は大量に酒を飲んだ。


蘇晩晴が尋ねる。


「いつも、あんな感じなの?」


沈砚は首を振った。


「違う」


「ただ、初めて気づいたんだ」


「自分が、生きている人間を死人として覚えていたかもしれないことに」


蘇晩晴は何も言わなかった。


しばらくして。


彼女が尋ねる。


「もし、周明が本当に生きているなら」


「どうして戻ってこないの?」


沈砚は川面を見る。


「可能性はいくつもある」


「無理やり離れさせられた」


「名前を変えた」


「誰かに守られている」


「あるいは……」


一瞬、言葉を止める。


「本人が戻りたくない」


蘇晩晴が眉をひそめる。


「どうして?」


沈砚は答えなかった。


一つの考えが浮かんだからだ。


もし周明が、七号船以降の身分の入れ替えに関わっていたのなら。


彼は知っているかもしれない。


誰が残されたのか。


誰が送り出されたのか。


そして――


沈懐川が、いったい何をしたのか。


――


深夜。


突然、陳旺が扉を叩いた。


「沈推官」


沈砚が扉を開ける。


陳旺が立っていた。


手には、一通の手紙。


「誰かが届けてきた」


「誰が?」


「子供だ」


沈砚が受け取る。


封筒は古びていた。


そこには三文字だけ。


「陳旺へ」


陳旺は開けようとしない。


「お前が読んでくれ」


沈砚が彼を見る。


「お前宛ての手紙だ」


「怖い」


「何が?」


「中身が、本当にあいつのものだったら……」


沈砚は何も言わなかった。


手紙を開く。


中には一枚の紙だけ。


文字は少し歪んでいた。


まるで、大人の男がわざとゆっくり書いたような筆跡だった。


そこには一文だけ。


「陳旺、俺はお前を恨んでいない」


陳旺の手が震え始めた。


沈砚はさらに読む。


二行目。


「お前があの時、『那不是我的事情』と言った時、俺はとても腹が立った」


三行目。


「だが、後になって分かった」


四行目。


「お前は、ただ怖かったんだ」


陳旺の目が赤くなる。


最後の一行。


そこには、七文字だけが書かれていた。


「だが今度は、お前の番だ」


手紙の末尾に。


名前はなかった。


ただ、小さな七水の印だけが残っていた。


――


陳旺が突然、立ち上がった。


「生きている」


沈砚は何も言わなかった。


陳旺は初めて、泣かなかった。


ただ、その手紙を強く見つめていた。


「あいつは、本当に生きている」


蘇晩晴が扉のところに立っている。


彼女は陳旺を見る。


慰めもしない。


止めもしない。


ただ尋ねた。


「これから、どうする?」


陳旺は長い間、黙っていた。


そして言った。


「探す」


「見つけたら?」


「聞く」


「何を?」


陳旺は彼女を見る。


「なぜ戻ってこなかったのか」


「この二十三年間、どこにいたのか」


「なぜ俺一人に、このことを二十三年間背負わせたのか」


一度、言葉を止める。


「それから……」


「謝る」


沈砚が彼を見る。


「もし、受け入れてもらえなかったら?」


陳旺は俯いた。


「それも、あいつの選択だ」


――


翌日。


彼らは手紙の紙質と墨の跡から、出所を調べた。


結果は出なかった。


だが秦重が、奇妙なことに気づいた。


「この字……」


彼は手紙の「旺」の字を指差す。


「見たことがある」


沈砚が顔を上げる。


「どこで?」


「二十三年前だ」


「誰が書いた?」


秦重は首を振る。


「分からない」


「だが、覚えている」


「そいつは、あの時義荘に来た」


「そして、一つのことを聞いた」


「何を?」


秦重はゆっくりと言った。


「周明は、死んだのか、と」


沈砚の呼吸が、一瞬止まった。


「誰だ?」


秦重は目を閉じる。


必死に記憶を探る。


「若い男だった」


「当時、十七か十八くらい」


「入口に立っていた」


「顔には、一筋の傷があった」


「そいつは……」


秦重が突然、目を開いた。


「自分は……」


そこで言葉が止まった。


記憶の中にあった名前が。


二十三年の埃の中から。


少しずつ浮かび上がってきた。


「そいつは、自分の名を……」


その時。


窓の外から、轟音が響いた。


全員が同時に振り返る。


川辺で。


一艘の小舟が突然、燃え上がった。


炎が空へと噴き上がる。


そして船首には、青い旗が掲げられていた。


そこに記されていたのは。


ただ一つの数字。


八。


沈砚が窓辺へ駆け寄る。


「行くぞ!」


四人は同時に川へ向かって走り出した。


誰も気づかなかった。


あの手紙が風に煽られて開いたことに。


裏側には、先ほどまで見えていなかった小さな文字があった。


「周明を見つけたいなら、蘇晩晴を船に乗せるな」


そして川の奥。


別の船の上に、笠をかぶった男が立っていた。


彼は静かに燃え上がる炎を見つめていた。


立ち去ろうとはしない。


ただ、低い声で呟く。


「今度こそ」


「彼女を船に乗せるな」


そして。


男が顔を上げる。


そこには、歳月を刻んだ顔があった。


その顔には。


二十三年前に残ったものと思われる、古い傷が一本。


浅い傷だった。


だが――


間違いない。


その男こそ。


周明だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。