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河灯未明  作者: 亀


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第三十五章 向かいに立つ者

翌朝。


沈砚がまだ起きる前に、外から急なノックが響いた。


「沈推官!」


陳旺だった。


沈砚が扉を開ける。


陳旺の顔色は悪かった。


「秦重がいない」


沈砚は一瞬、言葉を失った。


「いつから?」


「夜が明けたばかりだ」


「どうして分かった?」


「探しに行ったら、もう義荘にいなかった」


「何か残していたか?」


陳旺は首を振った。


「何もない」


沈砚はすぐに外衣を取った。


隣の部屋から蘇晩晴も出てくる。


「どうしたの?」


「秦重が消えた」


彼女はそれ以上、聞かなかった。


自分の刀を手に取る。


「行こう」


――


義荘は静まり返っていた。


秦重が使っていた部屋には、争った跡がない。


机の上の物も、荒らされた形跡はなかった。


ただ一つだけ、なくなっているものがあった。


周娘子の古い木櫛。


沈砚は机の前に立った。


「自分から出ていった」


陳旺が眉をひそめる。


「なぜ?」


「誰かに無理やり連れていかれたのなら」


沈砚は入口を指した。


「こんなに綺麗なはずがない」


蘇晩晴が窓を見る。


「ここ」


窓枠に、泥の跡が一筋残っていた。


ごく薄い。


誰かが窓から出た時についたような跡だった。


沈砚が指で触れる。


まだ湿っている。


「それほど時間は経っていない」


陳旺が尋ねる。


「追うか?」


沈砚は首を振った。


「追う」


「ただし、むやみに追うな」


地面の泥跡を見る。


「一人だ」


「布靴を履いている」


「つま先は南を向いている」


「おそらく、秦重自身がついていった」


蘇晩晴がふと口を開いた。


「誰に会いに行ったと思う?」


沈砚は答えなかった。


机の上に残った木屑を見る。


そこには、もともと一枚の紙が置かれていた。


誰かに持ち去られたのだ。


だが、机の表面には二文字が残っていた。


爪で引っ掻いた文字。


「七契」


――


三人は城南まで追った。


そこには、廃れた渡し場がある。


二十三年前、七号船が停泊していた場所だった。


沈砚は河岸に立つ。


「ここだ」


陳旺が尋ねる。


「どうして分かる?」


「泥跡だ」


「ここの泥は、義荘のものとは違う」


沈砚は川辺を指した。


「誰かが水から上がってきた」


「先にここへ来ていたはずだ」


蘇晩晴が突然、刀を抜いた。


「誰かいる」


河岸の向こう。


古い船のそばに、一人の灰衣の男が立っていた。


以前、彼らが見た男だった。


男は三人を見る。


逃げようとはしない。


「秦重はどこだ?」


沈砚が尋ねる。


男は答えない。


「なぜ、そこまでこの件を追い続ける?」


「お前たちが、ずっと人を死地へ追い込んできたからだ」


沈砚は刀を握り直した。


「お前は誰だ?」


男は少し笑った。


「お前の父親は、教えてくれなかったのか?」


「父から聞いたことは多い」


「だが、お前の名前は聞いていない」


男はしばらく黙った。


「俺には、名前がないからだ」


沈砚が眉をひそめる。


男が手を上げた。


その手には、一枚の七水銅銭が握られていた。


「この物は、もう何度も見ただろう」


「だが、お前たちは一度も聞かなかった」


「なぜ、それが七契と呼ばれるのか」


沈砚が言う。


「つまり、お前は知っているのか?」


「知っている」


「教えろ」


男は蘇晩晴を見る。


「先に、彼女に聞け」


蘇晩晴が戸惑う。


「私に、何を?」


「子供の頃のことだ」


「誰かに、言われたことはないか」


「生き残りさえすれば」


「もう振り返るな、と」


蘇晩晴の顔色が変わった。


思い出した。


あの少女。


燃え盛る炎。


川辺。


そして、あの言葉。


「振り返らないで」


男が言う。


「あの言葉は、過去を忘れろという意味じゃない」


「生き延びろ、という意味だ」


沈砚が冷たく言った。


「だから、お前はずっと彼女を守っていたのか?」


男は否定しなかった。


「守る?」


男が小さく笑う。


「お前たちは、何でも守ることと傷つけることに分けたがる」


「だが、時には」


「守ることそのものが、傷つけることになる」


蘇晩晴が男を見る。


「人を殺したことがある?」


男は黙った。


「ある」


「人を脅したことは?」


「ある」


「それでも、私を守っていたと言うの?」


男は彼女を見る。


「もし、あの時誰もそうしなかったら」


「お前は、とっくに死んでいた」


蘇晩晴は何も言わなかった。


沈砚が彼女の前に立つ。


「つまり、お前は思っているんだな」


「最後に彼女が生きていれば」


「何をしても許される、と」


男は首を振った。


「違う」


「俺が知っているのは」


「世の中には」


「そんなに綺麗なことばかりじゃない、ということだ」


――


その時。


船室から声が聞こえた。


「沈砚」


秦重の声だった。


沈砚が勢いよく振り向く。


秦重は船室の中で縛られていた。


だが、怪我はしていないようだった。


沈砚が駆け寄る。


灰衣の男は止めなかった。


縄を解く。


だが、秦重が最初に口にした言葉は――


「殺すな」


沈砚が秦重を見る。


「なぜ?」


秦重は息を切らしながら言った。


「こいつは、俺たちを騙していない」


灰衣の男が低く笑う。


「聞いたか?」


「こいつのほうが、お前たちより分かっている」


沈砚は男を無視した。


「秦重。何があった?」


秦重は灰衣の男を見る。


「こいつに、ここへ連れてこられた」


「そして、あるものを見せられた」


「何を?」


秦重は懐から一枚の紙を取り出した。


紙はすでに黄ばんでいた。


端には焼け跡もある。


沈砚が受け取る。


一目見ただけで――


動きが止まった。


それは二十三年前の臨時役工記録だった。


そこには八つの欄がある。


最初の七つには、すでに名前が書かれている。


最後の一つ。


そこだけは、空白だった。


だが、その下には手書きの文字があった。


「人已送走,不入册」


人はすでに送り出した。


記録には入れない。


沈砚が顔を上げる。


「どういう意味だ?」


灰衣の男が言った。


「お前たちは、ずっと第八の人間を探している」


「だが、第八の人間は、最初から七号船の正式な記録には入っていない」


「なぜなら」


「船に乗せられた人間ではないからだ」


「船から降ろされた人間だ」


沈砚の胸が震える。


「いつ?」


「九月初六」


「どこで?」


「南平」


秦重が突然、呟いた。


「だから……」


「八去七帰は、船から一人減ったという意味じゃない」


灰衣の男が秦重を見る。


「ようやく分かったな」


「七号船が戻ってきた時」


「本来なら戻ってくるはずだった一つの名前が、消えていたんだ」


沈砚は紙を見下ろす。


「誰が書いた?」


男は答えなかった。


ただ最後の行を指差す。


そこには、極めて薄い印が残っていた。


沈砚には分かった。


父、沈懐川の筆跡だった。


だが、その隣にはもう一人の署名がある。


沈砚が一度も見たことのない名前。


周明。


沈砚は固まった。


「周明?」


陳旺の顔色が、一瞬で変わった。


「そんなはずがない」


灰衣の男が彼を見る。


「なぜ、そんなはずがない?」


「あの時、周明はもう死んでいた」


「お前は、この目で見たのか?」


陳旺は答えられなかった。


男が彼の前まで歩いてくる。


「お前があの時見たのは、空の船だけだ」


「死体は見ていない」


「違うか?」


陳旺の顔から血の気が引いた。


沈砚は彼を見る。


初めて気づいた。


陳旺がずっと背負っていたのは、周明の死だった。


だが今となっては。


周明が本当にあの日に死んだのかさえ――


分からなくなった。


――


灰衣の男が振り返る。


「もう行っていい」


沈砚は動かなかった。


「お前が俺たちをここへ呼んだ」


「まさか、紙を一枚見せるためだけじゃないだろう」


男が足を止める。


「当然だ」


振り返る。


「一つ、知ってほしいことがある」


「何だ?」


「沈懐川は、お前たちが憎むべき人間じゃない」


沈砚の目が冷たくなる。


「俺は、父を憎むなんて言っていない」


「だが、もう疑い始めている」


「疑うことと、憎むことは別だ」


男は笑った。


「いい答えだ」


「少なくとも、お前はまだ、あいつのようにはなっていない」


「どういう意味だ?」


男は答えなかった。


ただ蘇晩晴を見る。


「彼女に聞いてみろ」


「あの時、誰が彼女を周娘子に渡したのか」


蘇晩晴が呆然とする。


「知っているの?」


「知っている」


「誰?」


男は彼女を見つめる。


長い沈黙のあと。


ようやく口を開いた。


「沈懐川だ」


蘇晩晴の顔が、一気に青ざめた。


沈砚も黙り込む。


だが男は、それ以上説明しなかった。


ただ振り返り、船室へ入っていく。


「なぜなのか知りたいなら」


「調べ続けろ」


「ただ、覚えておけ」


男が振り返り、沈砚を見る。


「もし、お前たちが最後まで真実を見つけたなら」


「きっと気づく」


「お前の向かいに立っている者が」


「必ずしも敵とは限らないことに」


そう言い残すと。


男は船から降りた。


そして河岸の向こうへ消えていった。


――


帰路。


誰も口を開かなかった。


長い通りを歩き終えたところで。


蘇晩晴が突然、足を止めた。


「沈砚」


「ん?」


「あなたは、あの男の言葉を信じる?」


沈砚はすぐには答えなかった。


「どの言葉だ?」


「その……」


彼女は俯いた。


「私を周娘子に渡したのが、あなたのお父さんだという話」


沈砚は彼女を見る。


「分からない」


蘇晩晴が少し笑った。


「最近、あなたはその三文字をよく言うね」


「分からない時に」


「分からないと言ったほうが、誰かを適当に信じるより安全だからな」


彼女はしばらく黙っていた。


「もし、本当にあなたのお父さんだったら」


「どうする?」


沈砚は彼女を見る。


「真相を確かめる」


「確かめたあと?」


「もし父が間違っていたなら」


「間違っていたと認める」


蘇晩晴が顔を上げる。


「たとえ、あなたのお父さんでも?」


沈砚は迷わなかった。


「たとえ、俺の父親でもだ」


蘇晩晴は彼を見つめる。


その目が、初めて本当に柔らかくなった。


「じゃあ、私はあなたを信じる」


沈砚が一瞬、戸惑う。


「なぜ?」


「あなたは、お父さんのために弁解しなかったから」


彼女は振り返り、歩き出した。


「それに、私を守るべき人だからって」


「私に嘘をつかなかった」


沈砚はその場にしばらく立っていた。


やがて、彼女の後を追った。


そして二人の後ろにいた秦重は――


遠ざかっていく船を、ずっと見つめていた。


彼には分かっていた。


事態は、もう変わり始めている。


誰もが隠してきた、あの二十三年前の物語。


それが少しずつ、自分から水面へ浮かび上がろうとしている。


そして今度こそ。


彼らの向かいに立つ、あの男は。


本当に真実へ辿り着くのを阻むためではなく。


彼らに、真実を受け入れる準備をさせるために――


追わせているのかもしれない。

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