第三十二章 死人の髪を梳いた者
周娘子。
その名が秦重の口から出た瞬間、部屋は静まり返った。
沈砚が尋ねる。
「彼女は今、どこにいる?」
秦重は首を横に振った。
「分からない」
「いつから姿を消した?」
「二十年くらい前だ」
「死んだ?」
「分からない」
「南陵を離れた?」
「それも分からない」
沈砚は秦重を見た。
「何も分からないんだな」
秦重は苦笑した。
「あの頃は、誰も彼女を気に留めなかった」
「彼女は、死人の服を整えたり、髪を梳いたり、顔を拭いたりするだけだった」
「誰が死んだのかも、気にしない」
「誰が生きているのかも、聞かない」
「そういう人間は、義荘では一番、記憶に残りにくい」
沈砚は何も言わなかった。
だが、その言葉だけは覚えていた。
最も記憶に残らない人間。
そういう人ほど、人が残したくないことを知っている。
⸻
翌朝。
沈砚は古い義荘へ向かった。
今では、そこはすっかり荒れ果てている。
塀には蔓が絡みつき、
かつて遺体を安置していた部屋も、空になった木の台が並んでいるだけだった。
秦重が先を歩く。
裏庭まで来たところで、足を止めた。
「ここだ」
隅に、小さな小屋があった。
入口は低い。
大人なら、頭を下げなければ入れない。
中には木の寝台が一つ。
机が一つ。
そして、ひびの入った銅鏡が一面。
沈砚は入口に立った。
「彼女はここに住んでいたのか?」
「昔はな」
「来たことは?」
「ある」
「いつ?」
「二十三年前だ」
秦重の声は低かった。
「あの夜だ」
沈砚は何も聞かなかった。
もう分かっていた。
それは九月五日。
あの身元の分からない遺体が義荘へ運び込まれた夜だった。
秦重は机のそばまで歩き、手で机の表面を撫でた。
そして、ふと口を開く。
「ここには昔、櫛が一本あった」
「木でできたやつだ」
「歯が細かくてな」
「周娘子は毎日、それを使っていた」
「その後は?」
「なくなった」
沈砚は周囲を見回した。
「本当に、普通の義荘の雑役ではなかったのか?」
秦重は首を横に振る。
「違う」
「彼女には、一つ癖があった」
「何だ?」
「一人の髪を梳き終えるたびに」
秦重は言葉を切った。
「必ず、こう聞くんだ」
「何と?」
秦重は、ひびの入った銅鏡を見つめた。
「『お前は、何という名だ?』」
蘇晩晴が目を瞬いた。
「死人に?」
「死人にだ」
「死人が答えるの?」
秦重は笑わなかった。
「だから、彼女自身が答える」
「死人の代わりに、名前を一つ口にするんだ」
沈砚は眉を寄せた。
「なぜ?」
「彼女は言っていた」
秦重は少し間を置いた。
「人は死んでも、名前くらいは残るべきだってな」
⸻
沈砚は銅鏡の前まで歩いた。
鏡のひびは左上から中央まで伸びている。
彼は手で埃を拭った。
すると、鏡枠の裏に細い隙間があることに気づいた。
「ここは?」
秦重が近づく。
「昔は見たことがない」
沈砚は刃先を差し込み、そっと持ち上げた。
鏡枠が外れる。
中には、折り畳まれた紙が一枚隠されていた。
紙はすでに黄ばんでいる。
そこには二列の名前が並んでいた。
一列目。
七人の名前。
二列目。
そこには一文字だけ。
「空」
沈砚は、その文字を見つめた。
「どういう意味だ?」
秦重は答えなかった。
蘇晩晴が近づく。
「この名前……」
彼女は一列目を指差した。
「このうち、三人は知ってる」
沈砚が顔を上げる。
「誰だ?」
「蘇河」
「周明」
「それから……」
蘇晩晴は言葉を止めた。
「沈知遥」
沈砚の胸が震えた。
残り四人の名前は、彼にも一つも分からない。
だが、そのうちの一つの名前の下に、
一本の赤い線があった。
書いたものではない。
針と糸を通して残した線だった。
赤い糸は名前を貫き、
そのまま紙の裏側へ伸びている。
沈砚は紙を裏返した。
そこには、一文が書かれていた。
「名ある者は死ねる。名なき者は死ねない」
秦重の顔色が変わった。
「彼女が書いたものだ」
「確かなのか?」
「間違いない」
「なぜ?」
「昔、彼女が言っていた」
秦重は低い声で続けた。
「人間はな」
「名前すらないまま死んだら」
「死んだあと、誰がその人に借りを負っているのかすら、分からなくなるってな」
⸻
沈砚は紙をしまった。
「この七人は、その後どうなった?」
秦重は黙った。
「死んだ者もいる」
「行方をくらました者もいる」
「名前を変えた者もいる」
「そして……」
「生きている者もいる」
沈砚が尋ねる。
「では、第八の人間は?」
秦重は、一文字だけ書かれた「空」を見つめた。
「分からない」
沈砚は、ふと気づいた。
「空」の横に、わずかな墨の跡が残っている。
まるで、もともとそこには名前が書かれていたようだった。
その後、誰かに消された。
だが、完全には消し切れていない。
沈砚は紙を持ち上げ、光にかざした。
かすかに三つの筆画が浮かんだ。
最初の一画。
「沈」に見える。
次の一画。
「河」に見える。
そして三画目。
それだけは分からない。
蘇晩晴がふいに言った。
「沈河……じゃない?」
沈砚は首を横に振る。
「分からない」
それ以上、推測しなかった。
今ここで名前を決めてしまえば、
また間違った方向へ進むことになるかもしれない。
⸻
昼。
二人は七十を超える老人を見つけた。
かつて義荘の近くで香や蝋燭を売っていた老人だ。
「周娘子」という三文字を聞いた途端、
老人は長い間、黙り込んだ。
「……あの女は、いい人間じゃなかった」
蘇晩晴が尋ねる。
「どうして?」
老人は首を振った。
「悪い人間でもない」
「いい人間でもない」
沈砚が老人を見る。
「どういう意味です?」
老人はため息をついた。
「あの女は、一つ、いいことをした」
「そして、一つ、悪いこともした」
「何を?」
「一人の子供を救った」
「その後は?」
「その子供が大人になってから」
「何年も、あの女を探した」
「なぜ?」
「その子供は思っていたんだ」
老人はゆっくりと言った。
「周娘子が、自分の人生を盗んだんだと」
蘇晩晴の顔色が変わる。
沈砚が尋ねた。
「その子供の名前を変えたんですか?」
老人は頷いた。
「それだけじゃない」
「身分まで変えた」
「なぜ?」
「生きさせるためだ」
「誰がその子を殺そうとした?」
老人は首を横に振った。
「分からない」
「では、なぜ本当の名前のまま生きられなかった?」
老人は二人を見た。
「元の名前を知っている者がいたからだ」
沈砚は、ふいに理解した。
これこそが核心だった。
名前。
時には、それは身分ではない。
鍵なのだ。
その名前を知っている者は、
その人間を見つけることができる。
⸻
老人はさらに続けた。
「だが、周娘子は後になって後悔した」
「なぜ?」
「その子供が大人になってから」
「自分の本当の両親が誰なのかさえ、分からないことに気づいた」
「その子は周娘子に聞いた」
「どうして教えてくれなかったのか、と」
「周娘子は何と答えた?」
老人は俯いた。
「こう言ったそうだ」
「『お前が知ったら、あの人たちを探しに行くのが怖かった』」
沈砚は黙った。
老人は続ける。
「その子は聞いた」
「『じゃあ、私の人生は何なの?』」
「周娘子は答えなかった」
「ただ、一言だけ言った」
「何と?」
老人が顔を上げた。
「『お前は生きている』」
蘇晩晴は横に立ったまま、
長い間、何も言わなかった。
⸻
戻ったあと。
沈砚は、あの名簿をもう一度広げた。
このとき初めて、彼は本当の意味で気づいた。
二十三年前の人々は、
まさか自分たちが後の物語の一部になるなど、考えていなかったのかもしれない。
一人の母親。
一人の子供。
一人の船頭。
一人の仵作。
一人の小吏。
死ぬのが怖かった者。
何も言えなかった者。
その誰もが、あの時、
「自分にはこれしかない」と思ったことを一つだけ選んだ。
だが二十三年後。
その一つ一つの選択は、
誰にも解けない一枚の網となって絡み合っていた。
秦重が突然、尋ねた。
「もし、あの時のお前だったら」
沈砚が顔を上げる。
「何だ?」
「もし、お前が周娘子だったら」
「その子供の名前を変えたか?」
沈砚はすぐには答えなかった。
長い間、考えた。
「分からない」
秦重は少し意外そうな顔をした。
「お前でも分からないのか?」
「そうだ」
沈砚は紙を見つめた。
「今の俺は、何もかもを知っているわけじゃない」
「誰かがあの子を殺そうとしていると知っていたなら」
「俺も、名前を変えたかもしれない」
「でも、名前を変えたせいで、その子が一生、自分の過去を知ることができなくなると分かっていたなら」
「変えなかったかもしれない」
「両方とも起きるとしたら?」
沈黙。
やがて沈砚は言った。
「なら、第三の道を探し続けるしかない」
秦重は小さく笑った。
「お前は父親と同じだな」
沈砚が顔を上げる。
「どういう意味だ?」
「あの時も、沈懐川はそう言った」
沈砚の手が止まった。
「父が?」
「ああ」
「何て言った?」
秦重は答えなかった。
ただ懐から一つの物を取り出し、
机の上に置いた。
古びた木の櫛だった。
櫛の歯は、何本か折れている。
沈砚はそれを見つめた。
「これは……」
「周娘子のものだ」
「ずっと持っていたのか?」
秦重は頷いた。
「あの女が姿を消す前、俺に渡した」
「なぜ?」
「こう言った」
秦重は沈砚を見た。
「もし、いつか沈懐川の息子が来て尋ねたら」
「これを渡してくれ、と」
沈砚は木の櫛を手に取った。
櫛の背には、薄く刻まれた文字があった。
名前ではない。
一文だった。
「俺が善人だと証明するな」
沈砚は動きを止めた。
その下には、さらに半分だけ残っている。
刃物で削り取られていた。
かろうじて最後の数文字だけが読める。
「……あの人たちの名前を残せ」
部屋には、誰も口を開く者がいなかった。
沈砚はゆっくりと木の櫛を握りしめた。
この瞬間。
ようやく分かった。
彼らがこれほど長く調べ続けてきたものは、
一つの事件だけではなかった。
残されたのは、
自分なりの方法で、
もう声を持たない誰かが、
完全に消えてしまわないようにしようとした人々の跡だった。
だが、だからこそ問題はさらに複雑になる。
一人を生かすために、
別の人間の名前、身分、過去まで決めてしまったのなら。
それは、本当に命を救ったことなのか。
それとも、
別の形で人生を奪ったことなのか。
誰にも答えは出せない。
そして沈砚には分かっていた。
本当の答えは、
おそらく、すでに消えてしまった原本の記録の中にある。
そこには、まだ一つの名前が残っているはずだ。
二十三年間。
一度も本当には書かれることのなかった名前。
――第八の人間。




