第三十一章 母が残した名
女が去ったあとも――
秦重は長い間、動かなかった。
沈砚は追いかけなかった。
ただ、地面に置かれた木札を見つめていた。
木札に刻まれているのは、一つの数字だけ。
七。
蘇晩晴がしゃがみ込み、手を伸ばす。
だが、沈砚が先に拾い上げた。
「触るな」
蘇晩晴が顔を上げる。
「どうして?」
「さっきの女が、わざと残したものだ」
「俺たちに見せるためにな」
沈砚は木札を裏返す。
裏には何もない。
刻み跡も。
文字も。
使い込まれた傷さえ、ほとんどなかった。
秦重が突然言った。
「これは河運司の札じゃない」
沈砚が振り返る。
「確かか?」
「確かだ」
秦重は木札を受け取った。
「河運司の臨時役工札なら、裏に登録年月が入っている」
「これはない」
「じゃあ、これは何だ?」
秦重はすぐには答えなかった。
親指で木札の縁をなぞる。
「まるで……」
「死人に使うものみたいだ」
部屋が、一瞬で静まり返った。
⸻
帰り道。
蘇晩晴は、ずっと黙っていた。
川辺まで来たところで、突然足を止める。
「沈砚」
「ん?」
「あの女は、私が子供の頃に彼女と会っていたって言った」
「沈知遥のことだ」
「分かってる」
蘇晩晴は川面を見つめた。
「でも、私は何も思い出せない」
沈砚は無理に励まさなかった。
ただ、隣に立っていた。
しばらくして、蘇晩晴が尋ねる。
「もし私が、本当に彼女の妹だったら?」
「誰の?」
「沈知遥の妹」
沈砚は彼女を見る。
「それがどうした?」
蘇晩晴は戸惑った。
「重要じゃないの?」
「重要だ」
「でも、それはお前が何者なのかという理由じゃない」
「お前の身分のために、誰かが死んだ可能性があるからだ」
蘇晩晴は俯いた。
「だから、やっぱり重要なんだ」
沈砚は首を横に振った。
「そういう意味じゃない」
「今のお前が誰なのかを、二十三年前の誰かに決めさせるべきじゃないってことだ」
蘇晩晴は彼を見る。
何も言わなかった。
しばらくして、静かに口を開く。
「もし私が、本当は蘇晩晴じゃなかったら?」
沈砚は答えた。
「真実を調べる」
「調べた後は?」
「お前が決める」
蘇晩晴が少し笑った。
「あなたって、時々本当に変な人ね」
「どこが?」
「約束をあれだけ大切にするくせに」
「最後の選択は、いつも他人に残す」
沈砚は反論しなかった。
なぜなら――
突然、父親のことを思い出したからだ。
父が残したものの中には、
誰を信じろとも書かれていなかった。
誰が善人なのかも、教えてくれなかった。
ただ、何度も何度も――
自分で選べと、伝えていた。
⸻
その夜。
秦重が突然やって来た。
ノックもしなかった。
ただ、扉の外に立っている。
沈砚が扉を開けると、
秦重の手には古びた灯りがあった。
「思い出した」
沈砚は道を開けた。
「何を?」
「あの女だ」
秦重は部屋に入り、
灯りを机の上に置いた。
「二十三年前」
「義荘」
「確かに、二人の子供がいた」
沈砚は彼を見る。
「なぜ、今まで言わなかった?」
秦重は黙った。
「自分の記憶違いだと思っていた」
「だが、さっきあの女が言ったことで……」
秦重は目を閉じた。
「思い出した」
「あの夜、一人の女が子供を抱いて入ってきた」
「子供は怪我をしていた」
「右手首に――」
「深い縄の跡があった」
蘇晩晴の顔色が、少しずつ変わっていく。
秦重は続けた。
「その女は、ずっと同じ言葉を繰り返していた」
「何て?」
「違う子です」
沈砚が眉を寄せる。
「どういう意味だ?」
「分からない」
「女は子供を下ろしてからも」
「もう一度、言った」
「違う子です」
「すると、誰かが尋ねた」
「じゃあ、この子は誰だ?」
秦重が目を開く。
「女は言った」
「私の娘です」
沈砚の胸が強く揺れた。
「実の娘か?」
秦重は首を横に振った。
「分からない」
「当時の俺はまだ若かった」
「怪我を調べることしかしていなかった」
「その後、誰かに記録を書き換えろと言われた」
秦重が言葉を止める。
「何に?」
秦重は俯いた。
沈砚は彼を見る。
「そこまで言ったなら、最後まで言え」
秦重は低い声で答えた。
「蘇河の娘に」
部屋が静まり返る。
蘇晩晴が勢いよく立ち上がった。
「何ですって?」
秦重は彼女を見なかった。
「その記録には、そう書かれていた」
「蘇河の娘」
「年齢」
「八歳」
「名前は……」
秦重が言葉を止める。
沈砚がすぐに尋ねた。
「名前は何だった?」
秦重が顔を上げる。
「なかった」
「書かれていたのは、四文字だけだ」
「蘇河の娘」
沈砚は眉を寄せる。
「なら、なぜ後になって蘇晩晴になった?」
「二枚目の記録だ」
「誰が書いた?」
秦重は首を横に振った。
「分からない」
沈砚は黙った。
その時、蘇晩晴が尋ねる。
「じゃあ、最初の記録は?」
秦重が彼女を見る。
「何?」
「最初の記録」
「あなたは、後から書き換えろと言われた」
「元の記録はどこ?」
秦重は答えなかった。
沈砚も、そこで初めて気づいた。
「秦重」
「元の記録は?」
秦重は、ゆっくり答えた。
「燃やされた」
「誰が?」
「分からない」
「お前は見たのか?」
「いや」
「なら、なぜ燃やされたと思う?」
秦重は苦笑した。
「翌日」
「元のページがなくなっていた」
沈砚が立ち上がる。
「紙の色は覚えているか?」
秦重が戸惑う。
「何?」
「元の記録だ」
「紙は何色だった?」
秦重は長い間、記憶を探った。
「白だった」
沈砚は何も言わない。
秦重が続ける。
「でも、後から置かれたページは……」
「黄色かった」
沈砚の目が鋭くなる。
「確かか?」
「確かだ」
「なぜ?」
秦重は自分の記憶を指すように言った。
「古い帳簿だったからだ」
「なのに、俺が覚えている元の紙は――」
「帳簿全体より新しかった」
沈砚は突然、理解した。
あれは後から書き写されたものではない。
おそらく――
最初から用意されていた。
新しい紙。
そして、別の身分を与えるための記録。
⸻
夜は、さらに深くなった。
沈砚は父親が残した古い紙を、すべて机の上に広げた。
その中に、一枚。
これまで一度も気に留めなかった紙があった。
紙の端に、ごく細い折り目が残っている。
まるで、帳簿から破り取られたような跡。
沈砚はその紙を灯りの下へ置いた。
すると――
裏側に、一行の小さな文字が浮かび上がった。
字は薄い。
書いたあと、水で拭き取られたようだった。
それでも、いくつかの文字だけは読める。
「もし彼女が尋ねたら……」
その先は、消えていた。
蘇晩晴が後ろから尋ねる。
「その先は?」
「分からない」
沈砚は、それ以上推測しなかった。
その時。
扉の外から、ノックの音がした。
一度。
二度。
三度。
秦重が立ち上がる。
「誰だ?」
返事はない。
沈砚が扉を開ける。
外には誰もいなかった。
ただ、一通の手紙が――
敷居の下に挟まれている。
差出人の名はない。
沈砚は中の紙を取り出した。
そこには、こう書かれていた。
「お前たちは、彼女の最初の名前を見つけた」
その下に、もう一文。
「だが、二つ目の名前を誰が与えたのかは、まだ知らない」
最後に――
ごく小さな文字が一行。
「九月初七の日、彼女の髪を結った者を探せ」
蘇晩晴が、その言葉を見る。
「髪を……結った?」
秦重の顔色が変わった。
「知っている」
沈砚が彼を見る。
「誰だ?」
秦重はゆっくり答えた。
「義荘の隣に――」
「昔、一人の女がいた」
「死者の身なりを整える女だ」
「仵作ではない」
「河運司の人間でもない」
「ただ、一つのことだけをしていた」
「死人の髪を梳く」
沈砚が尋ねる。
「名前は?」
秦重は少し黙った。
「誰も、本当の名前を知らない」
「皆、こう呼んでいた……」
秦重が言葉を止める。
窓の外を、川風が吹き抜けた。
灯火が、かすかに揺れる。
そして、秦重がようやく口にした。
「周婆さん」
蘇晩晴の顔色が、突然変わった。
「周……」
小さく、その名を繰り返す。
次の瞬間。
彼女の脳裏に、極めてぼんやりとした光景が浮かんだ。
火の光のそばに座る女。
その手には、木の櫛。
その後ろには、自分より少し年上の少女が立っている。
少女の手首には――
一本の赤い糸。
女は、その少女の髪を梳いていた。
そして、低い声で言う。
「今日から、あなたは別の名前で呼ばれるのよ」
蘇晩晴は、突然目を見開いた。
ようやく思い出した。
あの日――
自分が「蘇晩晴」と呼ばれたのは、初めてではなかった。
二度目だった。
一度目の名前は――
もう、覚えていない。
沈砚は、青ざめた彼女の顔を見た。
何も尋ねなかった。
ただ、その手紙を袖の中へしまう。
そして、突然気づいた。
彼らがずっと探していたのは――
書き換えられた一つの名前だと思っていた。
だが、今になってみれば。
本当に書き換えられていたものは――
名前だけではないのかもしれない。
一人の子供が、自分の人生について持っていた――
最初の記憶そのもの。
そして、その子の名前を決めた人間は――
まだ生きているのかもしれない。
あるいは少なくとも――
誰かが今も、その秘密を守り続けている。




