第三十章 赤い糸のもう一方
羅舟が話し終えてから――
部屋には、長い沈黙が続いた。
沈砚は、机の上に置かれた供述書を見下ろしていた。
赤い糸。
また、赤い糸だ。
義荘の壁に残っていた一本の赤い糸。
蘇晩晴の幼い頃の記憶。
そして、二十三年前に目撃された少女。
何度も現れる。
それなのに――
それが一体何を意味するのかだけは、決して教えてくれない。
沈砚が顔を上げた。
「本当に赤い糸だったのか?」
「間違いありません」
「どこに巻いていた?」
「右手首です」
「一本だけか?」
「はい」
「結び目は?」
羅舟は少し考えた。
「ありました」
「どんな結び方だった?」
「分かりません」
沈砚は、それ以上聞かなかった。
なぜなら、ふと思い出したからだ。
あの時、周明が残した縄の結び目も――
右手の近くにあった。
⸻
午後。
沈砚は蘇晩晴と秦重を連れ、かつての河運司へ向かった。
そこは、何年も前に廃止された場所だった。
門の塗装は大きく剥がれ、
塀も半分ほど崩れている。
秦重が門の前で立ち止まった。
「なぜ、急にここへ?」
沈砚は答えなかった。
ただ、七水銅銭を取り出した。
「七号旗を最初に管理していたのは誰だ?」
秦重が答える。
「河運司だ」
「なら、当時の臨時船舶の記録も、ここにあったはずだ」
「原本はもう移されている」
「知っている」
沈砚は門を押し開けた。
「だから、記録を探しに来たんじゃない」
三人は中へ入った。
敷地の一番奥に、小さな詰所があった。
扉は壊れている。
中に残っているのは、机一つと木箱が数個だけ。
蘇晩晴がしゃがみ込んだ。
「ここ……誰か来ています」
沈砚が足元を見る。
床には、まだ新しい埃の跡がいくつか残っていた。
秦重が指で触れる。
「最近だ」
沈砚は木箱を見る。
一番下の箱には鍵がかかっていない。
中に入っていたのは――
カビの生えた木札が数枚。
秦重が一枚を取り上げた。
そこには、こう刻まれている。
『臨時役工』
名前はない。
出身地もない。
あるのは、一つの番号だけ。
沈砚が尋ねた。
「これが、当時の『名前のない者』か?」
秦重は頷いた。
「河運司は、臨時の人手を大量に使っていた」
「一日だけ働く者もいた」
「一月働く者もいた」
「事故が起きても、家族すら見つからないことがある」
蘇晩晴が木札を見る。
「その人たちが死んだら?」
秦重はすぐには答えなかった。
「時には……」
一度、言葉を止める。
「死ななかったことになる」
沈砚が彼を見る。
秦重は苦笑した。
「記録の中では、という意味だ」
「人は死んだ」
「だが、記録には残らない」
「だから、その人間はまた働ける」
「あるいは――」
「別の名前で、生き続けることもできる」
沈砚は、ゆっくり理解した。
これは単純な身分偽造ではない。
人間を記録から消すための仕組み。
そして――
消えた人間に、別の人生を与えるための仕組みでもある。
⸻
木箱の一番底。
沈砚は、一冊の薄い帳簿を見つけた。
紙はすでに黄ばんでいる。
最初のページには、数文字だけ。
『臨時役工引継帳』
後ろの名前は、ほとんど読めなくなっている。
だが、そのうちの一ページだけ――
刃物で削り取られていた。
秦重は紙を窓際へ持っていく。
「ここには、もともと字があった」
沈砚が尋ねる。
「読めるか?」
「いくつかだけだ」
秦重が紙を指差す。
「七」
「船」
そして、もう一つ。
秦重は目を細めた。
「契」
沈砚の胸が沈む。
また――
第七契。
だが、その下には、さらに薄い文字が残っていた。
秦重が埃を払いながら、ゆっくり読み上げる。
「引き継いだ者……」
その先は、もう読めない。
沈砚は父親が残した古い紙を取り出した。
二枚の紙を並べる。
そして、あることに気づいた。
父の紙に書かれた「第七契」の「契」。
そして、ここに残された「契」。
筆跡が、まるで違う。
沈懐川の字は、落ち着いている。
だが、このページの字は明らかに急いで書かれていた。
まるで――
時間がなかったかのように。
沈砚はしばらく黙っていた。
「第七契は、一つだけじゃないのかもしれない」
秦重が彼を見る。
「どういう意味だ?」
「少なくとも――」
「二人の人間が、この言葉を使っている」
蘇晩晴が口を挟んだ。
「じゃあ、それはいったい何なの?」
沈砚は答えなかった。
なぜなら――
自分にも分からないからだ。
⸻
その時だった。
庭の外から、足音が聞こえた。
三人が同時に振り返る。
そこに、一人の女が立っていた。
二十代ほど。
灰色の布の衣。
顔色は白い。
そして――
右手首に、一本の赤い糸。
蘇晩晴が、突然立ち上がった。
「この人……」
女は逃げなかった。
ただ、三人を見つめている。
「やっと、ここまで来たのね」
沈砚は帳簿を握りしめた。
「お前は誰だ?」
女は答えない。
蘇晩晴を見る。
長い間、その顔を見つめていた。
そして、静かに尋ねる。
「あなたは……あの子を覚えている?」
蘇晩晴は眉を寄せた。
「誰?」
女は名前を言わなかった。
ただ、自分の右手を上げる。
赤い糸が、陽の光の中でかすかに揺れた。
「あの頃――」
「彼女も、これをつけていた」
蘇晩晴の顔色が変わった。
脳裏に、突然、一つの光景が浮かぶ。
火。
川。
自分の前にしゃがみ込む少女。
その少女が、一枚の銅銭を自分の手に押し込む。
そして、低い声で言った。
「私の名前を、言わないで」
蘇晩晴は、思わず一歩後ろへ下がった。
「あなた……あの人を知っているの?」
女は頷いた。
「知っている」
「今、どこにいるの?」
女は答えなかった。
沈砚が一歩前へ出る。
「沈知遥を見たことがあるのか?」
女は沈砚を見る。
「ある」
「いつ?」
「二十三年前」
「彼女は、生きているのか?」
女は黙った。
長い沈黙のあと――
ようやく口を開いた。
「その質問は――」
「あなたのお父さんに、先に聞くべきよ」
沈砚の表情が変わった。
「沈懐川?」
女は頷いた。
「あなたのお父さんが最後に彼女を見た時」
「彼女は、まだ生きていた」
秦重が、勢いよく顔を上げた。
「何だと?」
女は秦重を見る。
「あなたも、そこにいた」
「当然、覚えているはずよ」
秦重の顔が、一瞬で青ざめた。
「俺が?」
「あなたは、あの時彼女を見ている」
「義荘で」
秦重が一歩後ずさる。
「違う……」
女は彼の言葉を遮った。
「あの時、あなたは見ることができなかった」
「なぜなら――」
「その夜、運び込まれた死体は一体ではなかったと知っていたから」
空気が、一瞬で凍りついた。
秦重の手が震え始める。
沈砚は彼を見る。
「秦重?」
秦重は答えない。
女は続けた。
「あなたたちはずっと、第八の人間を探している」
「でも、間違っている」
沈砚が眉を寄せる。
「また、その言葉か」
女は小さく笑った。
「だって、あなたたちはずっと――」
「第八の人間は、一人の人間だと思っているから」
女は沈砚を見る。
「違う」
沈砚は黙っていた。
女は袖の中から、小さな木札を取り出した。
そして、地面に置く。
そこには名前がない。
ただ、一つの番号だけが刻まれていた。
七。
蘇晩晴が、その木札を見る。
顔色が、みるみる変わっていく。
女が言った。
「二十三年前」
「誰かが、この札を使って一人を送り出した」
「その後、別の誰かが――」
「同じものを使って、別の人間を残した」
「だから、あなたたちが見つけた記録は」
「全部、本当なの」
沈砚は女を見つめる。
「なのに、記録同士が矛盾している」
「それは――」
女は静かに言った。
「あなたたちがずっと、記録は人間を記していると思っているから」
「本当は――」
「あの頃の人間が、記録に合わせて生きていたの」
沈砚の胸が大きく揺れた。
その言葉は、あの老人の話を思い出させた。
――身分札があれば、人は消える。
――名前のない者でも、別の人生を与えられる。
女は背を向けた。
「待て」
沈砚が呼び止める。
「なぜ、俺たちにこんな話をする?」
女の足が止まった。
「私は、もう一人と約束したから」
「何を約束した?」
女は振り返らなかった。
「もし、いつか――」
「誰かが、七号旗を見つけたら」
「その人に伝える」
「沈懐川は、最初に選択した人間ではない――と」
沈砚の目が鋭くなる。
「では、最初に選んだのは誰だ?」
女はしばらく黙った。
そして――
静かに答えた。
「一人の母親」
そう言って、女は庭を出ていった。
沈砚は追わなかった。
なぜなら――
彼は、女が立っていた場所に目を向けていた。
地面に、一滴の水が落ちている。
雨水ではない。
川の水だ。
その水滴のそばには――
浅い靴跡が一つ。
そして、靴跡の横に――
短い赤い糸。
沈砚はしゃがみ込み、それを拾い上げた。
糸の先は、焼け焦げている。
彼はそれを見つめた。
そして、ふと父親の言葉を思い出した。
「死者の代わりに、勝手に語るな」
だが、今回だけは――
初めて疑った。
父が本当に伝えたかったのは、
「黙れ」ということではなかったのかもしれない。
むしろ――
こう伝えようとしていたのではないか。
生きている者が、代わりに選んだからこそ。
死んだ者は――
永遠に、自分の口で語れなくなったのだ。




