第二十九章 悪人になりたい者はいない
「もし一人を捨てなければならないなら、まず誰が自分と約束を交わしたのかを問え。」
水に濡れきった一枚の紙が、机の上に置かれていた。
沈砚は、それを一晩中見つめていた。
翌朝になって、ようやく秦重に尋ねた。
「この言葉を書いたのは、誰だ?」
秦重は首を横に振った。
「分からない」
「この字に見覚えは?」
「ない」
沈砚は、もう一度尋ねた。
「お前は、この言葉をどういう意味だと思う?」
秦重はしばらく黙った。
「もし一人しか救えないなら、自分と約束を交わした者を先に救え――という意味かもしれない」
沈砚は答えなかった。
紙を手に取る。
「じゃあ、もう一人は?」
秦重が彼を見る。
「何?」
「自分と約束を交わしていない人間だ」
沈砚は紙を机に戻した。
「その人間は――救わなくてもいいのか?」
秦重は、何も言わなかった。
⸻
午前。
若い船工が目を覚ました。
沈砚は彼に会いに行った。
船工の姓は羅。
二十四歳。
昨日の落水では、ほとんど息が止まりかけていた。
今も顔色は青白い。
「沈推官」
「昨日、誰に南平埠頭へ行けと言われた?」
羅舟は一瞬、戸惑った。
「誰にも」
「なぜ、あそこにいた?」
「荷を運ぶためです」
「何の荷だ?」
「木材です」
「誰の?」
羅舟は首を横に振った。
「商人です」
沈砚は彼を見る。
「名前は?」
羅舟は黙り込んだ。
秦重が隣から尋ねる。
「昨日、お前は言ったな。誰かが、お前とあの子を船底に縛ったと」
「はい」
「その人間は誰だ?」
「見ていません」
「声は?」
羅舟は俯いた。
「聞いたことがあります」
「どこで?」
「昨日より前に」
沈砚の眉がわずかに動いた。
「いつだ?」
羅舟は長い間ためらった。
「七日前です」
「どこで?」
「城南です」
「そいつは、お前に何と言った?」
羅舟は答えなかった。
沈砚も急かさない。
しばらくして、羅舟が口を開いた。
「こう言われました」
「もし、これから七号旗について誰かに聞かれても」
「何も知らないと言え、と」
沈砚の目が冷たくなる。
「誰に言われた?」
羅舟は首を横に振った。
「言えません」
「なぜ?」
「約束したからです」
沈砚は彼を見つめた。
だが、問い詰めなかった。
ただ尋ねる。
「その人間に脅されたのか?」
「いいえ」
「金をもらった?」
「いいえ」
「なら、なぜ約束した?」
羅舟は黙った。
長い沈黙のあと――
ようやく答えた。
「その人が言ったんです」
「俺が何も言わなければ」
「誰かが生きられる、と」
⸻
沈砚は、それ以上聞かなかった。
立ち上がって部屋を出る。
秦重が後ろからついてくる。
「もう調べないのか?」
「調べる」
「なら、なぜ無理に吐かせなかった?」
沈砚は廊下の先を見る。
「言いたくないんじゃない」
「怖がっているんだ」
秦重が尋ねた。
「何を?」
「自分が口にしたことで――」
沈砚は一度足を止めた。
「本当に誰かが死ぬことを」
⸻
午後。
沈砚は羅舟が話した城南へ向かった。
そこには、古びた薬屋が一軒あった。
七日前。
羅舟はここで、あの男を見たという。
薬屋の主人は六十を越えていた。
沈砚が男のことを尋ねると――
最初の反応は、やはり首を横に振ることだった。
「知らないね」
沈砚は帰らなかった。
「何を買った?」
店主は薬草を整理しながら答えた。
「普通の薬だ」
「誰のために?」
「知らない」
「どんな病気だ?」
「知らないね」
沈砚は薬棚を見た。
「店主」
「毎日、大勢の客に薬を売っている」
「全員を覚えていないのは分かる」
「当然だ」
「では、なぜ俺が尋ねた途端に、知らないと言った?」
店主の手が止まった。
店内が静まり返る。
秦重が沈砚を見る。
沈砚は、それ以上何も言わなかった。
ただ、振り返る。
「行こう」
二人が店を出ようとした時――
店主が突然、口を開いた。
「止血薬だ」
沈砚が足を止める。
「何服?」
「三服」
「他には?」
「もう一種類ある」
「何の薬だ?」
「安神の薬だ」
「誰のために?」
店主は首を横に振った。
「子供だ」
沈砚が振り返る。
「何歳くらいだ?」
「七、八歳くらい」
蘇晩晴は、ずっと店の外に立っていた。
その言葉を聞いた瞬間――
ふいに口を開く。
「女の子……じゃありませんでしたか?」
店主は彼女を見る。
「どうして分かった?」
蘇晩晴は答えなかった。
ただ、ぼんやりとした幼い頃の記憶を思い出していた。
火。
川。
自分より年上の少女。
そして――
あの赤い糸。
⸻
店主は、最後にはこう話した。
あの男は、数日おきに店へ来ていた。
決して名前を残さない。
だが、一度だけ――
一枚の紙をカウンターに置いた。
それを見て薬を用意するよう言ったという。
その処方箋の裏には、一文だけ書かれていた。
「彼女には、まだ知られてはいけない。」
沈砚が尋ねる。
「誰のことだ?」
店主は首を横に振った。
「知らない」
「その子を見たことは?」
「一度だけ」
「どんな子だった?」
店主は少し考えた。
「とても静かな子だった」
「まるで……誰かに教え込まれていたような」
「何を?」
「聞かないこと」
「話さないこと」
「覚えておかないこと」
沈砚は、それを聞いたところで――
突然、何も尋ねなくなった。
なぜなら、ふと思ったからだ。
それは――
子供が生き残るための方法だったのかもしれない。
賢くなることではない。
忘れることを覚えること。
⸻
夜。
沈砚が戻ると、蘇晩晴が窓辺に座っていた。
「私、子供の頃……すごく可哀想だったと思う?」
沈砚は答えなかった。
「昔は、ずっと思ってた」
蘇晩晴は自分の手を見る。
「誰かが私を救ってくれた」
「だから、私は生き残った」
「でも今は分からない」
「一体、誰が私を救ったのか」
「そして――」
「私を救うために、誰が死んだのか」
沈砚は腰を下ろした。
「今、知る必要はない」
「どうして?」
「知らないからといって、誰かに借りがあるわけじゃない」
蘇晩晴は彼を見る。
「もし、本当に誰かが私のせいで死んでいたら?」
沈砚は黙った。
「私が、その人の分まで生きるべきなの?」
「その必要はない」
「どうして?」
「誰にも、一人の子供に別の人間の代わりに生きろと要求する権利はない」
蘇晩晴は、言葉を失った。
沈砚は続ける。
「もし誰かがお前を救ったのなら」
「それは、その人自身が選んだことだ」
「覚えていてもいい」
「感謝してもいい」
「いつか真実を調べてもいい」
「でも――」
「自分が一度も約束していない命を、一生かけて償う必要はない」
蘇晩晴は俯いた。
長い沈黙のあと。
小さな声で尋ねた。
「じゃあ……もし私が、本当に誰かと約束していたら?」
沈砚は彼女を見る。
「何を?」
「もし、本当に誰かに約束していたら」
「その人の代わりに、何かをするって」
「その場合は?」
沈砚は少し考えた。
「約束する前に、自分にできることなのか考える」
「約束した後なら、できる限り守る」
「もし、あとになってできないと分かったら?」
「その人に伝える」
「もし、その人がもう死んでいたら?」
沈砚は長い間、黙っていた。
「自分に問いかける」
「それを実行することで、別の罪のない人を傷つけることにならないか」
蘇晩晴は彼を見る。
「もし、傷つけることになったら?」
沈砚は答えた。
「やってはいけない」
「約束していても?」
「約束していてもだ」
部屋の中が静かになる。
蘇晩晴が、ふっと笑った。
「約束を大切にするんだね」
「ああ」
「じゃあ、どうして時々、守らないの?」
沈砚は窓の外を見た。
「俺が約束したのは、人間一人だ」
「別の人間を傷つけることを約束したわけじゃない」
⸻
翌日。
羅舟が、自分から沈砚を訪ねてきた。
「話します」
沈砚は彼を見る。
「なぜ?」
羅舟は俯いた。
「昨日、帰ってから……」
「ずっと考えていました」
「昨日、あなたたちが来なかったら」
「あの子は死んでいた」
「俺も死んでいた」
彼は顔を上げた。
「あの人と約束したのは、何も言わなくても同じだと思ったからです」
「一人が死ぬ」
「二人死ぬよりはいい、と」
沈砚は何も言わなかった。
羅舟は続けた。
「でも昨日、あなたは選ばなかった」
「俺たち二人を、どちらも救った」
「だから、急に思ったんです……」
声が、少しずつ小さくなる。
「もしかしたら、あの人も……」
「本当は、方法がなかったわけじゃないのかもしれない」
沈砚は羅舟を見る。
「それは違う」
羅舟が戸惑う。
「何が?」
「昨日は、たまたま方法があっただけだ」
「縄も、船も、人手もなければ――」
「俺だって、一人しか救えなかったかもしれない」
羅舟は黙った。
沈砚は続ける。
「俺が二人とも救ったからといって」
「昔のあの人にも、必ず別の道があったと思うな」
「人間が、本当にどうしようもないところまで追い詰められることはある」
羅舟が顔を上げる。
「それでも、追及するんですか?」
「する」
「なぜ?」
沈砚は彼を見る。
「どうしようもなかったことと」
「本当にできる限りを尽くしたかどうかは――」
「別の話だからだ」
羅舟は言葉を失った。
沈砚は続けた。
「その時、怖かったからという理由だけで」
「その人を悪人だとは言わない」
「でも、怖かったからといって」
「その人がしたことすべてを許していいとも思わない」
「人は怖がることがある」
「間違えることもある」
「間違った選択をすることもある」
「だが――」
「選んだ以上」
「その結果は、自分で引き受けなければならない」
⸻
羅舟は、ようやくその男の特徴を話した。
「一人じゃありませんでした」
「どういう意味だ?」
「七日前、俺が見た時」
「そばに女がいました」
「何歳くらいだ?」
「二十代だと思います」
「何か特徴は?」
羅舟は考えた。
「手首です」
「手首?」
「赤い糸を一本、巻いていました」
沈砚と秦重が、同時に顔を上げた。
羅舟は続ける。
「その女が、あの男に言っていました」
「何と?」
「あなたは、もう私と約束したでしょう――と」
部屋が静まり返る。
沈砚は、突然気づいた。
今回、彼らが本当に追っているのは――
一人の人間ではないのかもしれない。
過去の約束によって、互いにつながれた人々。
約束を守るために、他人を傷つけた者。
生き残るために、約束を裏切った者。
恐怖から、真実を語れなかった者。
そして――
代償を払うと分かっていても、
かつて口にした約束を守ろうとした者。
二十三年前のあの火事は――
おそらく、そうした選択が最後にぶつかった場所だった。
沈砚は羅舟の証言をしまい、立ち上がった。
その時、窓の外を見た。
ふと、思う。
人間の本性で、最も調べるのが難しいもの。
それは――
なぜ人が悪事を働くのか、ではない。
一人の人間が、自分が誰かを傷つけていると分かっていながら、
なぜ、それでも自分には他に選択肢がないと思ってしまうのか。
本当に調べなければならないのは――
そこなのだ。
そして、その前に。
一人、見つけなければならない人間がいる。
あの赤い糸を手首に巻いた女。
そして――
二十三年前、彼女はいったい誰と、どんな約束を交わしたのか。




