第二十八章 俺はまだ選んでいない
紙に書かれた三文字は、かすかだった。
それなのに――
まるで机の上に重石を置かれたようだった。
沈懐川。
沈砚は、長い間その文字を見つめていた。
やがて、紙を折りたたむ。
「燃やせ」
秦重が目を見開いた。
「何?」
「この紙だ」
「なぜ?」
沈砚は紙を秦重に差し出した。
「これは証拠じゃない」
「ただ、誰かが俺たちに信じさせたいものだ」
秦重は受け取らなかった。
「だが、そこに書いてあるのは、お前の父親だ」
「だからこそ、信じるわけにはいかない」
沈砚は顔を上げた。
「もし見知らぬ誰かが、俺の父親こそが第八の人間だと言ったなら、俺は調べる」
「だが――」
「そいつがわざと、最後に父親の名前を置いたのなら」
「俺は、なおさら疑う」
蘇晩晴が彼を見つめた。
「怖くないの?」
沈砚は聞き返した。
「何が?」
「もし、最後に本当に……お父さんだったら」
沈砚はしばらく黙った。
「その時は、調べきる」
「認めるべきことなら、認める」
「追及すべきことなら、俺も逃げない」
「でも、父親だからという理由だけで、他人の命を軽く扱うことはできない」
蘇晩晴は何も言わなかった。
⸻
その時だった。
外から、慌ただしい足音が聞こえた。
一人の役人が駆け込んでくる。
「沈推官!」
「言え」
「南平埠頭で、事故です!」
「何があった?」
「人が川に落ちました」
沈砚はすぐに立ち上がった。
「何人だ?」
役人の顔が青ざめる。
「二人です」
⸻
南平埠頭。
川面は、すでに大きく乱れていた。
岸には十数人が集まっている。
小舟が一艘、水面を横切っていた。
船首では、半分だけ残った灯籠が燃えている。
一人が水中でもがいていた。
もう一人は、すでに十数丈も川下へ流されている。
「助けろ!」
沈砚は外衣を脱いだ。
今にも川へ飛び込もうとした瞬間――
秦重が彼の腕をつかんだ。
「流れが速すぎる!」
「なら、船を探せ」
「もう人が下りている!」
沈砚が顔を上げる。
川面では、二人の船頭が船を漕いでいた。
一人は左へ。
もう一人は右へ。
二人とも、落水者を見つけている。
だが、流れが速すぎる。
同時に近づくことはできない。
「近い方を先に救え!」
誰かが叫んだ。
「遠い方はもうすぐ流されるぞ!」
沈砚は川面を見た。
左の人間は岸から十数丈。
右の人間は、すでに二十丈以上流されている。
今から船を向かわせても――
救えるのは、せいぜい一人。
秦重が低い声で呼んだ。
「沈砚」
沈砚は答えなかった。
川面を見つめている。
二人とも、必死にもがいていた。
一人は若い船工。
もう一人は――
十数歳ほどに見える。
子供だった。
沈砚が突然尋ねた。
「縄はあるか?」
近くの男が、すぐに縄を渡した。
「どれくらいある?」
「二十丈です」
「足りない」
沈砚は川筋を見た。
「二本をつなげろ」
「間に合いません!」
「なら、十人で引け」
数人がすぐに縄をつなぎ始めた。
だが、その時だった。
子供の体が波に大きくさらわれた。
そのまま――
水の中へ沈んでいく。
蘇晩晴が岸へ駆け寄った。
「見えなくなった!」
沈砚は迷わなかった。
そのまま川へ飛び込んだ。
「沈砚!」
秦重の顔色が変わる。
沈砚は縄をつかんだ。
冷たい川水が、一瞬で衣服の中へ入り込んでくる。
寒さが、刃物のように全身を刺した。
だが、沈砚は子供が沈んだ場所へ真っ直ぐ泳がなかった。
流れに合わせ、斜めに進む。
まっすぐ追っても、もう間に合わない。
次の瞬間――
水面の下に、一本の手が見えた。
沈砚は一気につかんだ。
子供だった。
すでに意識を失っている。
沈砚はその体を水面へ持ち上げた。
岸から、すぐに縄が引かれる。
「引け!」
「早く!」
何人もの男が力を合わせる。
沈砚と子供は、少しずつ岸へ引き戻された。
子供には呼吸がない。
秦重がすぐに膝をついた。
「どけ!」
救命処置を始める。
だが、沈砚は振り返った。
「もう一人は?」
全員が固まった。
若い船工は、すでにかなり遠くまで流されている。
蘇晩晴が上流を指差した。
「あそこ!」
沈砚が見る。
縄は、もう長さが足りない。
船でも追いつけない。
秦重が顔を上げた。
「まずは子供だ」
沈砚は動かなかった。
「まだ生きているか?」
「息はある」
「なら、続けろ」
「お前はもう下りるな!」
沈砚は川面を見た。
「俺は、下りるとは言っていない」
その時――
埠頭の端に、一艘の貨物船が停まっているのが目に入った。
船には、太い係留縄がある。
「その縄を下ろせ!」
船工たちはすぐに動いた。
沈砚は縄をつかむ。
「船を回せ」
船工が首を振った。
「流れが強すぎて、回せません!」
「三丈まで近づけるか?」
「せいぜい二丈です!」
「十分だ」
沈砚は船へ飛び乗った。
蘇晩晴も続いた。
「何をするの?」
「手伝う」
沈砚は彼女を見る。
「お前、水に入れないだろ」
「でも、縄なら引ける」
二人は、それ以上何も言わなかった。
船がゆっくりと向きを変える。
若い船工は、すでに視界から消えかけていた。
沈砚は縄を腰に巻いた。
「お前が持て」
蘇晩晴は頷いた。
「もし、あなたが流されたら?」
「離さない」
沈砚は彼女を見る。
「その言葉、覚えておく」
蘇晩晴は縄を強く握った。
「私も覚えておく」
⸻
船が、ようやく近づいた。
沈砚は川へ飛び下りる。
縄が、一気に張り詰めた。
激しい流れが、彼の体を川下へ引きずっていく。
蘇晩晴は両手で必死に縄を握った。
岸の人々も、一斉に引く。
沈砚は十数丈泳いだ。
そして、ついに若い船工をつかんだ。
だが、その瞬間――
船首から、大きな音が響いた。
係留縄の一本が切れた。
船体が傾き始める。
岸から秦重が叫んだ。
「戻れ!」
沈砚は振り返らなかった。
なぜなら――
若い船工が、すでに彼の手をつかんでいたからだ。
「離すな!」
沈砚は歯を食いしばった。
「俺につかまれ!」
船工は恐怖で、声すら出せない。
二人の体が、川の流れにまとめて引きずられていく。
岸の縄が、再び強く張った。
蘇晩晴の顔が青ざめる。
「引いて!」
全員が力を込めた。
そして――
ついに二人は、浅瀬まで引き戻された。
⸻
若い船工が岸へ引き上げられた。
まだ呼吸がある。
秦重がすぐに駆け寄る。
「大丈夫だ」
「ただの水を飲んだだけだ」
蘇晩晴はその場に座り込んだ。
両手が、まだ震えている。
沈砚も岸辺に横たわり、しばらく荒い息を繰り返していた。
秦重が歩み寄る。
「お前、正気か?」
沈砚は答えなかった。
ただ、救われた二人を見ていた。
一人は子供。
もう一人は若い船工。
二人とも、生きている。
秦重が低い声で言う。
「さっき、縄がうまくつながっていなかったら――」
「お前も死んでいたかもしれない」
沈砚は体を起こした。
「分かっている」
「なら、なぜ下りた?」
沈砚は川面を見た。
「まだ、生きていたからだ」
秦重は黙った。
しばらくして、尋ねる。
「もし、一人しか救えなかったら?」
沈砚はすぐには答えなかった。
気を失っている子供を見る。
それから、若い船工を見る。
そして、ようやく口を開いた。
「分からない」
秦重が目を見開く。
沈砚は続けた。
「だから、俺はさっき選ばなかった」
「まだ方法があるなら」
「俺は選ばない」
その言葉は、とても静かだった。
それ以上、秦重は何も言わなかった。
⸻
夕方。
二人の落水者は、どちらも目を覚ました。
子供は、ただひどく驚いていただけだった。
若い船工は――
奇妙なことを話した。
「俺、自分で落ちたんじゃない」
沈砚が彼を見る。
「誰かに押されたのか?」
「違う」
「なら、何があった?」
船工は唾を飲み込んだ。
「誰かが……俺とあの子を、船底に縛ったんです」
沈砚の表情が変わった。
「いつ?」
「分かりません」
「その人の顔は見たか?」
船工は首を横に振る。
「見ていません」
「何か聞いたか?」
船工は必死に記憶をたどる。
「一言だけ……」
「何だ?」
船工が震える声で言った。
「二人のうち、一人だけ残せ」
沈砚は黙った。
その言葉が、針のように胸へ突き刺さった。
これは事故ではない。
誰かが意図的に二人を同じ船に縛りつけた。
そして、二人とも川へ投げ込んだ。
しかも――
わざと同時に現れるようにした。
すべての人間に、こう思わせるために。
――一人しか救えない。
沈砚は、突然理解した。
今日の落水事件は――
二人を殺すためだけのものではない。
自分を試すためだったのかもしれない。
誰かが知りたかったのだ。
沈砚が二人の生きた人間を前にした時、
「必要な犠牲」という言葉に従って、
どちらかを選ぶのかどうか。
沈砚は、自分の手を見下ろした。
まだ、わずかに震えている。
蘇晩晴が隣に立つ。
「怖かった?」
沈砚は頷いた。
「怖い」
「死ぬのが?」
「違う」
彼は、生きている二人を見た。
「いつか――」
「本当に、一人しか残らなくなった時が怖い」
「その時、二つ目の道を見つけられなかったら」
蘇晩晴はしばらく黙った。
「もし、本当にそんな日が来たら?」
沈砚は彼女を見る。
長い沈黙のあと――
静かに答えた。
「その時は、選ぶ」
「でも、選ぶ前に」
「俺にできることを、全部やる」
「最後に一つの道しか残らなかったとしても」
「簡単に諦めたせいで、誰かが死ぬようなことだけはしたくない」
蘇晩晴は答えなかった。
ただ――
七水銅銭を袖の中へ戻した。
そして、二人がその場を離れようとした時。
秦重が突然、若い船工の服の中から一枚の濡れた紙を取り出した。
紙は水に浸かり、ほとんど読めなくなっている。
それでも――
一番上に、三文字だけ残っていた。
「第七契」
その下には、一文。
「もし一人を捨てなければならないなら、まず誰が自分と約束を交わしたのかを問え。」
沈砚は、その言葉を見つめた。
顔から、少しずつ表情が消えていく。
そして、突然気づいた。
今日起きたことは――
自分が何人救えるのかを試していたのではない。
誰かが、別の問いへの答えを迫っている。
――人の命と約束が、本当に別々の側に立った時。
自分は、いったいどちら側に立つのか。




