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河灯未明  作者: 亀


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第三章 足跡

翌朝。


南陵城の門が開いたばかりの頃だった。


城西の石畳には、昨夜の雨水がまだ残っている。


沈硯は周成と二人の役人を連れ、再び趙六の住んでいた家を訪れた。


昨日は急いでいた。


家の中も外も、野次馬でごった返していた。


今日は人も少なく、辺りはずいぶん静かだった。


周成が戸を押し開ける。


湿った黴の臭いが、むっと鼻をついた。


「ここです」


沈硯はすぐには中へ入らなかった。


戸口に立ったまま、家の中を見渡す。


狭い部屋だった。


壁際に粗末な寝台があり、窓際には一脚の机が置かれている。


机の上には、昨日食べかけだった粥が半椀残っていた。


表面には、薄い膜が張っている。


沈硯が尋ねた。


「昨日、ここに触れた者は?」


「先に触らないよう言ってあります」


周成が答える。


「遺体を運び出した以外は?」


「ありません」


沈硯はようやく中へ入った。


まず寝台を見る。


次に机。


そして窓。


最後に、戸口へ戻った。


「趙六は普段、どこから出入りしていた?」


「表の戸です」


「裏は?」


周成がきょとんとする。


「裏……ですか?」


沈硯は寝台の奥を指差した。


そこには、いくつかの古びた木箱が積まれている。


周成が箱をどかす。


すると、その奥から細い木戸が現れた。


戸には埃が積もっている。


だが、錠だけは新しかった。


沈硯はしゃがみ込み、錠を調べる。


こじ開けられた跡はない。


次に、敷居へ手を伸ばす。


指先に、湿った泥が付いた。


「昨夜は雨でしたからね」


周成が言う。


「そうだな」


沈硯は答えず、外へ目を向けた。


裏口の先には、細い路地が続いている。


その先にあるのは――河だった。


「検視役を呼べ」


⸻


許仵作がやって来た頃には、沈硯はすでに裏口の泥を調べていた。


「どうです?」


許仵作が尋ねる。


「こっちを見てくれ」


沈硯が脇へ退く。


泥の上には、いくつかの浅い足跡が残っていた。


はっきりとは見えない。


しゃがみ込んで注意深く見なければ、雨水に流されてしまいそうなほど薄い。


許仵作はしばらく足跡を眺めた。


「一人分ですな」


「確かか?」


「少なくとも、ここにあるものは一人分です」


沈硯が尋ねる。


「男か、女かは?」


許仵作は首を振った。


「そこまでは分かりません」


周成が横から口を挟む。


「これだけ小さい靴跡なら、女じゃないですか?」


許仵作が周成を見る。


「女だからといって、足が小さいとは限りませんぞ」


周成は黙った。


沈硯は少しだけ笑う。


「まだ決めつけるな」


彼はしゃがみ込んだ。


足跡は六つ。


裏口から始まり、路地の中央まで続いている。


そこで途切れていた。


「妙だな」


周成もしゃがみ込む。


「何がです?」


「この人間が家の中から出てきたのなら、なぜ戻った足跡がない?」


沈硯は地面を見つめた。


答えは出ない。


確かにおかしい。


考えられるのは――


この人物が家から出たあと、そのまま路地を抜けていった。


そして戻るときは、別の道を使った。


あるいは――


この足跡そのものが、昨夜ついたものではない。


沈硯が手を伸ばす。


「踏むな」


二人の役人が、すぐに足を止めた。


沈硯は立ち上がる。


「路地の両側に住んでいる者を調べる」


⸻


最初に見つかったのは、豆腐売りの張老人だった。


五十を過ぎた男で、毎朝、卯の刻には家を出るという。


「何も見ておりません」


張老人はそう言った。


そこで沈硯は尋ねた。


「昨夜、趙六の家の戸が開く音を聞かなかったか?」


張老人はしばらく考え込む。


「……あったような気がします」


「いつ頃だ?」


「子の刻くらいだったかと」


「確かか?」


「そこまでは……」


沈硯は頷いた。


「話し声は?」


「聞こえました」


「何人だ?」


「二人です」


周成がすぐに聞く。


「男か、女か?」


張老人は頭を掻いた。


「男が一人。女が一人だったと思います」


沈硯と周成は、同時に顔を見合わせた。


「何を話していた?」


「そこまでは聞き取れませんでした」


「『子供』という言葉は聞かなかったか?」


張老人は、また考え込む。


「……あったような気がします」


沈硯は、それ以上聞かなかった。


このとき、彼は初めて気づいた。


昨夜の趙六は――


一人ではなかったのかもしれない。


⸻


府衙へ戻ると、沈硯は数枚の供述書を机の上に並べた。


趙六の死。


柳青の弟の失踪。


青い布。


裏口に残された足跡。


そして、昨夜の二人の話し声。


それぞれの情報は、まだ一つにつながらない。


そもそも、同じ事件なのかどうかすら分からない。


沈硯は椅子にもたれた。


周成が尋ねる。


「大人、柳青を捕らえますか?」


「いや」


「かなり怪しいですよ」


「怪しいことと、罪があることは別だ」


「ですが、趙六に最後に会ったのは彼女です」


「今分かっているのは、彼女が趙六に会ったということだけだ」


沈硯は顔を上げた。


「趙六がいつ死んだのかは、まだ分かっていない」


周成は黙った。


沈硯が続ける。


「趙六の遺体は今どこだ?」


「義荘です」


「もう一度調べる」


「昨日も検視したではありませんか?」


「分かっている」


「それなら、なぜ?」


沈硯は机の上に置かれた青い布切れを見た。


「この布が、誰の服から引き裂かれたものなのか知りたい」


⸻


昼過ぎ。


蘇晩晴が府衙へ呼ばれた。


河から救い上げられて以来、これが初めての正式な取り調べだった。


彼女が部屋へ入ったとき、沈硯は案簿に目を通していた。


二人は机を挟んで向かい合う。


沈硯は役人を一人も残さなかった。


蘇晩晴は、ちらりと戸口を見る。


「逃げると思わないの?」


「逃げられない」


「ずいぶん自信があるのね」


「昨日、河で死にかけたばかりだ」


沈硯は顔を上げる。


「本当に逃げるつもりなら、ここへ戻ってはこない」


蘇晩晴は何も言わなかった。


それは信用ではない。


ただの判断だ。


彼女には分かっていた。


沈硯は、自分を信じてはいない。


だからこそ、少しだけ安心できた。


この男は、自分の話を聞いただけで、簡単にこちら側へ立つような人間ではない。


沈硯は趙六の似顔絵を彼女の前へ滑らせた。


「知っているか?」


蘇晩晴は一目見る。


「知っています」


「どこで会った?」


「河岸です」


「いつ?」


「三日前」


沈硯の目が細くなる。


「一度だけか?」


「はい」


「なぜ彼を探した?」


「探していたのは、彼ではありません」


「どういう意味だ?」


「探していたのは、ある子供です」


沈硯は黙った。


蘇晩晴が続ける。


「誰かから、趙六がその子を見たことがあると聞きました」


「なぜ、その子を探している?」


蘇晩晴は黙り込んだ。


「……その子が、私を殺そうとした者を見ているかもしれないからです」


沈硯の眉がゆっくりと寄る。


「弟ではないのか?」


「違います」


「では、誰だ?」


「分かりません」


「分からないのに探しているのか?」


蘇晩晴は沈硯を見る。


「だから、探しているんです」


沈硯は初めて、すぐには言葉を返さなかった。


この女は慎重に話している。


何かを知っている。


だが、すべてを知っているわけではない。


少なくとも今のところ、最初から最後まで作り上げた話をしているようには見えなかった。


沈硯は、青い布切れを机の上へ置いた。


それを見た瞬間。


蘇晩晴の顔色が変わった。


ほんの一瞬だった。


だが、沈硯は見逃さなかった。


「知っているな?」


「いいえ」


「嘘だ」


蘇晩晴が顔を上げる。


「どうして分かるの?」


沈硯は首を振った。


「分からない」


「ただ、今、君の顔色が変わった」


蘇晩晴は黙った。


沈硯は布切れを手元へ戻す。


「だから、君が見たものを話してほしい」


長い沈黙のあと。


蘇晩晴が口を開いた。


「それは服ではありません」


「では、何だ?」


「旗です」


「何の旗だ?」


「分かりません」


沈硯はわずかに目を見開いた。


蘇晩晴は続ける。


「船倉に縛られていたとき、隙間から岸を見ました」


「そこに、青い小さな旗が掛かっていたんです」


「旗には何が書かれていた?」


蘇晩晴は目を閉じた。


記憶を手繰り寄せるように。


「文字ではありません」


「では?」


「……何かの印のようでした」


「どんな印だ?」


「分かりません」


彼女は目を開いた。


「ただ、それが二十三年前のことと関係していることだけは覚えています」


沈硯の指が、机の上で止まった。


「なぜ、そう言い切れる?」


蘇晩晴は首を横に振る。


「見たことがあるからです」


「どこで?」


彼女は答えなかった。


⸻


午後。


沈硯は記録庫へ向かった。


彼が調べたのは、沈家の事件ではない。


二十三年前、南陵城で起きた河運に関する事件だった。


一冊。


二冊。


三冊。


日が暮れるまで、沈硯は古い記録をめくり続けた。


そしてようやく。


ほとんど誰にも気に留められていない、小さな記録を見つけた。


大晟元年九月。


南陵河運司にて、官用の青旗が紛失。


その数――七本。


六本は回収。


残る一枚。


行方不明。


沈硯はその一文をじっと見つめた。


すぐに何かを結びつけることはしなかった。


ただ、その頁だけを抜き取った。


調べるのは明日にする。


今の段階では、まだ証明できない。


趙六の手にあった青い布。


蘇晩晴が見た青い旗。


そして、二十三年前に失われた一枚の旗。


それらが同じものだとは限らない。


だが少なくとも。


三つの出来事をつなぐものが、初めて現れた。


青色。


⸻


夜も更けた頃。


蘇晩晴は一人、医館の中庭に座っていた。


手には、すっかり冷めてしまった薬碗。


だが、まだ口をつけていない。


そのとき。


門の外から声がした。


「お嬢さん」


蘇晩晴が顔を上げる。


そこに立っていたのは、十六、七歳ほどの少年だった。


粗末な短衣を着ている。


手には紙包みを持っていた。


「これを渡せと言われました」


蘇晩晴は受け取らない。


「誰に?」


少年は首を振る。


「知りません」


「なら、なぜ届けに来た?」


「二枚、銅銭をもらったから」


蘇晩晴は紙包みを見る。


だが、開こうとはしなかった。


少年が背を向ける。


そのとき、蘇晩晴が呼び止めた。


「待って」


少年が振り返る。


「どこでもらったの?」


「河辺です」


蘇晩晴の顔色が変わる。


「どこの河辺?」


少年は北を指差した。


「七番埠頭」


そう言うと、少年は走り去った。


蘇晩晴は、その場に立ち尽くした。


やがて、ゆっくりと紙包みを開く。


中に入っていたのは、食べ物ではなかった。


一枚の銅銭。


そして――


小さな青い布切れ。


蘇晩晴は布を裏返した。


裏側には、極細の糸で小さな模様が刺繍されていた。


七本の短い線。


それが半円を描くように並んでいる。


蘇晩晴は、その模様を見つめた。


そして、ふと。


二十三年前の記憶が蘇る。


誰かが、彼女に言った言葉。


声はもう、ほとんど思い出せない。


けれど最後の言葉だけは、はっきり覚えていた。


――「第七の旗を、奴らに見つけさせてはならない」


中庭は静まり返っていた。


蘇晩晴は、青い布を強く握りしめる。


そして初めて、ある考えが頭をよぎった。


もしかすると。


自分が今回戻ってきたのは、自分がなぜ殺されかけたのかを突き止めるためではないのかもしれない。


誰かが探している。


二十三年前に残された何かを。


そして、その「何か」は――


自分の身にあるのかもしれない。

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