第二章 一人の命
翌朝。
雨は上がっていた。
だが、南陵の町はいつも以上に騒がしかった。
船着き場には、次から次へと船が入ってくる。
野菜を売る者。
荷物を担ぐ者。
荷車を引く者。
人の流れは川辺から城門の近くまで続いていた。
沈硯は、一晩よく眠れなかった。
机の上には、あの事件記録が置かれている。
何十回見ても、目に入るのは同じ三文字だった。
沈知遥。
二十三年前に、一度だけ記録に現れた名前。
それ以降の記録は、何もない。
昨夜、河灯の中に残されていた、あの途切れた言葉。
それもまた、棘のように頭から離れなかった。
沈硯が二十三年前の戸籍簿を調べるよう、人を遣わそうとしたその時だった。
外から、突然、言い争う声が聞こえてきた。
「大人、もう死んでいるんです。何を調べる必要があるんですか?」
「遺体は?」
「義荘です」
「誰が届け出た?」
「魚売りの男です」
沈硯は顔を上げた。
「案内しろ」
隣にいた老捕吏、周成が一瞬、戸惑った。
「大人、こういう事件は……」
「何だ?」
「いえ……」
周成は小さく息を吐いた。
「ただの荷担ぎです」
沈硯の足が止まった。
「どういう意味だ?」
「死んだのは、荷担ぎの男です」
「それで?」
周成は沈硯を見た。
「……何でもありません」
沈硯には分かった。
南陵府では、毎日のように人が死ぬ。
家の中で死ぬ者もいれば、川で死ぬ者もいる。
道端で死ぬ者もいる。
裕福な家の人間が死ねば、命に関わる事件として扱われる。
だが、貧しい者の死は――
時に、ただの遺体として片づけられる。
周成が声を落とした。
「家族もいません。金もない。おそらく酒に酔って転んだだけでしょう」
「誰かが調べたのか?」
「まだです」
「なら、なぜ転んで死んだと分かる?」
周成は答えなかった。
沈硯は踵を返した。
「行くぞ」
⸻
義荘は城の西側にあった。
人通りの少ない、外れた場所だ。
塀の外には、二本の曲がった槐の木が立っている。
その木の下には、引き取り手のない棺が何台か積まれていた。
検死役は、すでにそこで待っていた。
姓は許。
五十を過ぎた男で、普段から口数が少ない。
沈硯を見ると、軽く手を合わせた。
「大人」
「遺体は?」
許仵作が白い布をめくった。
一人の男が木の台に横たわっている。
四十歳前後。
粗末な短衣を身につけていた。
右のこめかみには、青黒い痣がある。
両手には、長年荷物を担いできた者特有の厚い胼胝があった。
許仵作が言う。
「身元は分かっています」
「誰だ?」
「船着き場の荷担ぎです」
「名前は?」
「趙六」
沈硯はしゃがみ込んだ。
「死因は?」
許仵作は、すぐには答えなかった。
「まだ何とも言えません」
周成が眉をひそめる。
「頭の傷じゃないのか?」
許仵作は周成を見る。
「転んだだけなら、なぜ後頭部にも傷がある?」
周成が近づいた。
確かに。
男の後頭部には、固まった血の跡が残っている。
沈硯はそこを指差した。
「こめかみの傷とは別か?」
「別です」
「どちらが先についた傷か分かるか?」
「今のところは」
許仵作は少し間を置いた。
「ただ、一つ妙なところがあります」
「何だ?」
「手です」
沈硯が男の手を見る。
趙六の右手は、固く握り締められていた。
許仵作が力を込めて指を開く。
その掌の中に――
小さな青い布切れがあった。
周成が眉をひそめる。
「服の切れ端か?」
許仵作は首を横に振った。
「引き裂かれたもののようです」
沈硯は、それに触れなかった。
「封じておけ」
周成が戸惑う。
「これだけですか?」
「そうだ」
「しかし……」
沈硯は顔を上げた。
「死人の手に残されたものは、ときに生きている人間の言葉より確かなものだ」
周成は、それ以上何も言わなかった。
⸻
趙六が住んでいたのは、城西の粗末な小屋だった。
中には寝台が一つ。
机が一つ。
欠けた茶碗が二つ。
そして、すり減った草履が一足。
近所の者によれば、妻はいない。
子供もいない。
両親も、すでに亡くなっているという。
普段は船着き場で荷物を担ぎ、わずかな銅銭を稼いで暮らしていた。
「悪い人じゃなかったよ」
野菜を売っている老婆が言った。
「ただ、運が悪かったんだ」
沈硯は尋ねる。
「最後に見たのはいつだ?」
「昨日の午後だよ」
「どこで?」
「船着き場」
「誰かと一緒だったか?」
老婆は少し考えた。
「そういえば、若い娘と口論していたような……」
沈硯がすぐに顔を上げる。
「娘?」
「ええ」
「どんな女だ?」
「よく見えなかったよ」
「何を言い争っていた?」
「さあね。そこまでは聞いてないよ」
老婆は首を振った。
「ただ、趙六が一言だけ言っていた」
「何と?」
老婆はしばらく考えた。
「『俺は渡さない』……だったかな」
沈硯は眉を寄せた。
「他には?」
「何も」
「その娘は?」
「帰っていったよ」
「どちらへ?」
老婆は南の方を指差した。
「あっちだよ」
周成が低い声で言った。
「大人、あの娘を先に探しますか?」
「探せ」
二人が外へ出ようとした、その時だった。
一人の少年が、家の奥から突然駆け出してきた。
「大人!」
沈硯が足を止める。
「何だ?」
少年は少し怯えた様子だった。
「僕、知ってる」
「何を?」
「昨日のお姉ちゃん」
沈硯はしゃがみ込んだ。
「その女を見たのか?」
少年が頷く。
「趙叔さんに会いに来た」
「いつ?」
「昨日の午後」
「何を話していた?」
少年は唇を噛んだ。
「えっと……」
「ゆっくりでいい」
少年は周囲を見回した。
それから、小さな声で言った。
「『趙叔さんが物を渡さなかったら、人が死ぬ』って」
沈硯の表情が変わった。
「何を渡す?」
少年は首を振る。
「知らない」
「その女はどんな格好だった?」
「青い服」
沈硯と周成は顔を見合わせた。
青。
趙六の手に残されていた布も、青かった。
だが、それだけでは何も証明できない。
沈硯は立ち上がった。
「引き続き探すぞ」
⸻
午後になった。
二人は、ようやくその女を見つけた。
女は逃げてはいなかった。
城南の茶屋にいた。
二十歳を少し過ぎたくらい。
ごく普通の青い布衣を身につけている。
沈硯の姿を見た瞬間、女は明らかに緊張した。
だが、逃げようとはしなかった。
沈硯は女の向かいに座った。
「名前は?」
「柳青です」
「昨日、趙六に会ったな?」
「はい」
「何のために?」
柳青は俯いた。
「助けを求めました」
「何を頼んだ?」
「人を探してほしかったんです」
沈硯は聞いた。
「誰だ?」
柳青は長い間、黙っていた。
そして、ようやく答えた。
「弟です」
「何歳だ?」
「十二歳」
「行方が分からなくなって、どれくらいだ?」
「三日です」
沈硯は柳青を見た。
「なぜ役所に届けなかった?」
柳青は顔を上げた。
「届けました」
「いつ?」
「昨日です」
「誰が受けた?」
「役所の人です」
沈硯は眉をひそめる。
「誰だ?」
柳青は首を横に振った。
「分かりません」
「弟がいなくなったことを話したのか?」
「話しました」
「相手は何と言った?」
柳青は唇を噛んだ。
目が赤くなる。
「……こう言われました」
しばらく言葉が出てこなかった。
やがて、震える声で言う。
「貧しい家の子供が一人いなくなったところで、見つけたって育てられるとは限らない、と」
茶屋の中が静まり返った。
周成の顔が曇る。
沈硯は、すぐには何も言わなかった。
ただ、静かに尋ねる。
「それで趙六を探したのか?」
「はい」
「なぜだ?」
「誰かが、趙六なら弟を見たことがあると言ったからです」
「趙六は協力すると言ったのか?」
「はい」
「では、なぜ途中で断った?」
柳青が顔を上げる。
「怖くなったんです」
「何が?」
「趙六が……」
彼女は一度、言葉を止めた。
「『あの人は、俺たちが関わっていい相手じゃない』と言っていました」
沈硯は黙り込んだ。
事態が、少しずつ複雑になってきた。
一人の荷担ぎ。
行方不明になった十二歳の少年。
一人の若い女。
そして、姿を見せようとしない何者か。
もし趙六が本当に事故で死んだのなら、すべてはただの偶然なのかもしれない。
だが――
彼の手に残されていた青い布。
それだけは、沈硯に偶然だと思わせなかった。
⸻
夕方。
沈硯は府衙へ戻った。
趙六の事件記録を机の上に置く。
周成がその隣に立っていた。
「大人」
「何だ?」
「この事件ですが……」
周成は言葉を濁した。
「言ってみろ」
「昨日、川から引き上げられた女を、しばらく拘束しておいた方がいいのでは?」
沈硯は顔を上げた。
「なぜ?」
「突然、現れた女です」
「それで?」
「彼女は沈家の古い事件を知っている」
「だから?」
周成はしばらく黙った。
「……ただ、あの女には、何かありすぎる気がします」
沈硯は否定しなかった。
自分も、そう思っている。
だが、最後には首を横に振った。
「証拠もないのに、怪しいというだけで犯人扱いすることはできない」
周成は沈硯を見る。
「もし、あの女が犯人だったら?」
「証拠を探す」
「見つからなかったら?」
「探し続ける」
周成が小さく笑った。
「大人、以前はこんなやり方ではなかったでしょう」
沈硯は窓の外を見た。
「人は死ぬ」
そして、静かに続ける。
「だが、我々が調べるのを面倒がったせいで、死んだ人間がなぜ死んだのかさえ分からないままにすることはできない」
周成は何も言わなかった。
しばらくして、事件記録を手に取る。
「趙六の件を調べてきます」
「待て」
沈硯が呼び止める。
「柳青の弟の失踪届も持ってこい」
「二つとも調べるんですか?」
「ああ」
「大変ですよ」
沈硯は周成を見る。
「十二歳の子供一人だ」
そして言った。
「面倒な事件じゃない」
⸻
その頃。
医館の裏庭。
蘇晩晴は窓辺に座っていた。
すでに乾いた衣服に着替えている。
だが、手首に残った縄の痕は、まだ消えていなかった。
蘇晩晴は、自分の手首をじっと見つめていた。
その背後から、足音が近づいてくる。
「沈大人から、あなたに一つ聞きたいことがあります」
振り返る。
府衙の若い役人だった。
「何ですか?」
「昨日、船の中で二人の話し声を聞いたと言いましたね」
「はい」
「そのうちの一人が、何を言っていたか覚えていますか?」
蘇晩晴は黙った。
もちろん覚えている。
だが、言わなかった。
あまりにも奇妙な言葉だったからだ。
あの時。
男は、こう言っていた。
「二十三年も経ったのに、まだ死んでいないのか?」
蘇晩晴は窓の外を見つめた。
長い沈黙の後。
ようやく口を開く。
「……少し思い出しました」
役人は急いで紙と筆を取り出した。
「何を?」
「その人が言っていたのは……」
蘇晩晴の言葉が止まった。
その時だった。
窓の外の通りを、一人の笠をかぶった男が雨上がりの路地から歩いてきた。
男は、ゆっくりと歩いている。
医館の前を通り過ぎる瞬間。
ふいに顔を上げた。
窓越しに、二人の視線が交わる。
ほんの一瞬。
蘇晩晴の顔色が変わった。
男はすぐに向きを変えた。
そして、人混みの中へ消えていった。
「どうしました?」
役人が尋ねる。
「……何でもありません」
蘇晩晴は立ち上がった。
その時、初めて気づいた。
自分は岸へ引き上げられたからといって――
安全になったわけではない。
誰かが、自分を探している。
そして、誰かがあの十二歳の少年を探している。
沈硯が調べ始めた趙六の死も、おそらくは――
すべての始まりに過ぎない。
蘇晩晴は、自分の手首を見下ろした。
そして、静かに呟く。
「沈硯……」
その名を口にしたのは、これが初めてだった。
昨日とは違う。
そこには、探るような響きはなかった。
代わりに、言葉では説明できない何かがあった。
この男が、最後まで自分を信じてくれるのか。
蘇晩晴には分からない。
だが、なぜか一つだけ感じていた。
この事件を調べ続ければ――
いつか二人は、同じ道の上に立つことになる。
そして、その道の先にあるのは。
おそらく――
二十三年前。




