第一章 川の中の人
大晟二十三年、九月七日。
南陵の町には、一晩中雨が降っていた。
朝になっても、雨はまだ完全には上がっていない。
川面に漂う霧が、水面を這うようにゆっくりと町へ入り込んでくる。
船着き場の木板は雨に濡れて黒ずみ、足を乗せれば、少し気を抜くだけで滑ってしまいそうだった。
陳二は、その死体を最初に見つけた。
正確に言えば、最初はそれが死体だとは思っていなかった。
ただ、川面に白いものが浮かんでいるのが見えたのだ。
「……なんだ、ありゃ?」
陳二は手にしていた竹竿を伸ばした。
竹竿の先がそれに触れた瞬間、白い布が水の中へ沈む。
次の瞬間――
水面から、一本の腕が浮かび上がった。
陳二は驚きのあまり、竹竿を川へ放り投げそうになった。
「死体だ!」
その声を聞きつけ、朝早くから荷下ろしをしていた船頭たちが駆け寄ってきた。
縄を持ってくる者。
役所へ知らせに走る者。
岸辺に立ったまま、遠巻きに指を差す者。
南陵の川は、それほど広くない。
だが、町で最も賑わう場所の一つだった。
毎日のように、米を積んだ船や木材を積んだ船、旅人を乗せた客船が行き交っている。
川で死人が見つかること自体は、珍しいことではない。
本当に珍しかったのは――
引き上げられたその「死体」が、突然、咳をしたことだった。
「……げほっ」
その場にいた全員が、息を呑んだ。
陳二の手から縄が落ちる。
女は濡れた木板の上にうつ伏せになり、何度も川の水を吐き出した。
その後、苦しそうに何度も息を吸い込む。
誰かが、一歩後ずさった。
「……生きてるのか?」
誰も答えなかった。
やがて、年配の船頭がしゃがみ込み、女の鼻先に指を当てる。
「生きてる」
その一言で、辺りは一気に騒がしくなった。
「一晩中、川に浸かっていたのに?」
「水鬼じゃないのか?」
「馬鹿なことを言うな」
「それより、あの服……」
「この服……」
誰かが、そこで口を閉ざした。
その服を、彼らは見たことがあったからだ。
三日前。
南陵の南街にある絹織物店の娘が、行方不明になった。
娘が姿を消したとき、身につけていたのも、同じ淡い青色の衣だった。
まだ、その知らせは南陵全体には広まっていなかった。
だが、ここの船頭たちは知っている。
行方不明になった娘の父親が、この船着き場まで来て、人を尋ねて回っていたからだ。
やがて、誰かが叫んだ。
「沈家のお嬢さんだ!」
「死んだって話じゃなかったのか?」
「早く役所に知らせろ!」
……
それから半刻ほどして。
沈硯は船着き場へ駆けつけた。
二十九歳。
南陵府の推官である。
官位は、それほど高くない。
特別な経歴があるわけでもなかった。
何年か学問を修め、科挙に合格した後、南陵府へ派遣された。
普段の仕事は多い。
事件の審理。
記録の確認。
裁判資料の再検討。
そして、知府の刑事案件に関する仕事の補佐。
少し悪く言えば――
どこかで面倒事が起これば、そこに沈硯の名前が出てくる。
船を降り、岸へ足を踏み出した瞬間だった。
濡れた地面に足を取られ、沈硯の身体がわずかに傾いた。
隣にいた役人が慌てて支える。
「大人、お気をつけください」
「……ああ」
沈硯は自分の靴を見下ろした。
靴には、すでに泥がびっしりと付いている。
「人は?」
「こちらです」
役人が、近くに設けられた雨除けの天幕を指差した。
沈硯は中へ入った。
女は、すでに目を覚ましていた。
船頭から借りた古い蓑を肩にかけ、濡れた髪が顔に張り付いている。
年齢は二十歳前後に見えた。
顔色は真っ白だった。
唇にも血の気がない。
それでも、意識ははっきりしている。
沈硯は、すぐには質問をしなかった。
まずしゃがみ込み、女の手を見る。
爪の間には泥が詰まっていた。
手首には、薄い赤い跡が残っている。
まるで縄で縛られていたような跡だ。
だが、傷口は長く水に浸かっていたせいで白くふやけていた。
「最初に見つけたのは誰だ?」
「陳二です」
「呼べ」
すぐに陳二が連れてこられた。
沈硯は、ゆっくりと尋ねる。
「いつ見つけた?」
「夜が明けた頃です」
「そのとき、お前はどこにいた?」
「船の上です」
「彼女はどこから流れてきた?」
陳二は川面を指差した。
「あちらです」
沈硯は、その方向を見る。
雨はまだ降り続いている。
川水は濁り、上流に何があるのかなど、とても見えない。
「女が川へ落ちるところを見たか?」
「見てません」
「何か音を聞いたか?」
「いいえ」
「他に誰か見なかったか?」
「誰も」
沈硯は小さく頷いた。
どれも不自然な答えではない。
もし陳二が犯人を見ていたのなら、彼は今頃、最も重要な証人になっている。
だが、現状では何も分からない。
問題は――
この女は、なぜ川の中にいたのか。
自分で落ちたのか。
誰かに突き落とされたのか。
それとも、誰かに川へ投げ込まれたのか。
沈硯は女を見る。
「名前は?」
女はしばらく黙っていた。
やがて答える。
「蘇晩晴です」
「どこの者だ?」
「南陵です」
「どこに住んでいる?」
女は答えなかった。
沈硯は、もう一度尋ねた。
「自分がなぜ川の中にいたのか、分かるか?」
女は俯いた。
長い沈黙の後、ようやく口を開く。
「……誰かが、私を殺そうとしたんです」
雨音が、天幕の屋根を叩いている。
周囲の人々が静まり返った。
沈硯は、すぐに「誰だ?」とは聞かなかった。
代わりに尋ねる。
「確かなのか?」
女は顔を上げた。
「もちろんです」
「その相手を見たのか?」
「見ていません」
「では、なぜそう思う?」
女は一瞬、言葉を失った。
それが、彼女にとって初めての沈黙だった。
沈硯も急かさなかった。
しばらくして、女が口を開く。
「目を覚ましたとき、手を縛られていました」
沈硯は彼女の手首を見る。
「いつ目を覚ました?」
「分かりません」
「どこで目を覚ました?」
「船の中です」
「何という船だ?」
「分かりません」
「船には何人いた?」
「分かりません」
「何か声は聞いたか?」
女はしばらく考えた。
「二人の人間が話しているのを聞きました」
「何と言っていた?」
「よく聞き取れませんでした」
「なぜだ?」
「板を隔てていたので」
沈硯は眉を寄せた。
これでは、ほとんど手がかりにならない。
だが、一つだけ分かったことがある。
この女は、確かに何者かにさらわれた可能性がある。
あるいは――
すべてを作り話にしている可能性もある。
沈硯は、すぐには判断しなかった。
今のところ、証拠がない。
彼は立ち上がる。
「まず、医館へ運べ」
役人が尋ねた。
「取り調べは?」
沈硯は役人を見る。
「この女は、ついさっき川から引き上げられたばかりだ」
そして淡々と言った。
「今、無理に話させても、本人ですら何が本当なのか分からないだろう」
……
医館。
老医師が蘇晩晴の脈を取り、瞼を持ち上げて目の様子を確認する。
「身体が冷え切っている」
「他に怪我は?」
沈硯が尋ねた。
老医師は首を横に振った。
「目立った刀傷はない」
「手首は?」
「縄で縛られた跡だな」
「いつ頃ついた傷か、分かるか?」
老医師は眉間に皺を寄せる。
「水に浸かっていたからな。正確なところは分からん」
沈硯は、それ以上聞かなかった。
これが、本職の検死役と自分との違いだ。
自分にも見ることはできる。
だが、自分は検死の専門家ではない。
分からないものを、推測だけで決めても意味はない。
そこで、府の検死役を呼びに行かせた。
待っている間、蘇晩晴はずっと寝台の端に座っていた。
ひどく疲れているように見える。
沈硯は、彼女から二歩ほど離れた椅子に座っていた。
二人とも、何も話さない。
しばらくして。
蘇晩晴が突然、口を開いた。
「あなた……沈硯?」
沈硯が顔を上げる。
「私を知っているのか?」
「聞いたことがあります」
「誰から?」
蘇晩晴は答えなかった。
沈硯は彼女を見つめる。
そこで初めて、はっきりと警戒した。
この女は、自分の名前を知っている。
だが、自分は彼女が何者なのかすら知らない。
「なぜ南陵へ来た?」
蘇晩晴は答えなかった。
代わりに、こう尋ねた。
「沈大人。あなたは二十三年前の事件を調べたことがありますか?」
沈硯の手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
だが、蘇晩晴はそれを見逃さなかった。
「何の事件だ?」
沈硯が聞き返す。
蘇晩晴は彼を見つめた。
「沈家の事件です」
部屋の中が、突然静かになった。
沈硯は何も言わない。
二十三年前の沈家事件。
もちろん知っている。
だが、そのことを知っている人間は多くない。
あの年、沈硯は七歳だった。
沈家の屋敷が火事になった。
母親は、その中で死亡した。
父親は重傷を負った。
そして、役所は事故として処理した。
あれから二十三年。
南陵の若い役人たちの中には、何が起きたのかさえ知らない者もいるほど、遠い昔の事件だ。
沈硯は、ゆっくりと立ち上がった。
「誰から聞いた?」
「誰からでもありません」
「では、なぜ知っている?」
蘇晩晴は答えなかった。
ただ、濡れた袖の中から何かを取り出した。
そして、それを机の上に置く。
一枚の銅銭だった。
どこにでもある普通の銅銭。
縁はすり減っている。
泥まで付着していた。
沈硯は手を伸ばさなかった。
ただ、それを見つめる。
「これはどこで?」
「船の中です」
「どの船だ?」
「分かりません」
「船には他に何があった?」
「分かりません」
沈硯は、初めて苛立ちを覚えた。
彼女が何も話さないからではない。
一つ一つの言葉が、ただ一歩先へ進むための材料にしかならないからだ。
その先へ進もうとすれば――
そこには何もない。
そのとき。
部屋の外から、足音が聞こえた。
検死役が到着したのだ。
沈硯は銅銭を袖の中へ収めた。
「まず、傷を調べてもらおう」
そう言って、二十三年前の事件については、それ以上尋ねなかった。
少なくとも、今は。
沈硯には分かっていた。
とても単純なことが一つだけある。
証拠がない限り――
物語は、ただの物語だ。
……
その日の夕方。
沈硯は府衙へ戻った。
蘇晩晴の身から見つかったものを、すべて記録させた。
衣服。
縄の跡。
銅銭。
そして、彼女の襟元に隠されていた、小さな黒い布切れ。
布は薄かった。
何かの衣服から引き裂かれたもののように見える。
検死役にも、それが何なのかは分からなかった。
ただ一つ。
そこには、乾いた血の跡が残っていることだけは確認できた。
沈硯は、その布切れを長い間見つめていた。
やがて、それを封印して保管するよう命じた。
そして――
二十三年前の古い事件記録を開いた。
記録は、驚くほど薄かった。
最初の頁には、こう記されている。
大晟元年、九月七日。
その日付を見た瞬間。
沈硯の手が止まった。
今日も、九月七日だった。
沈硯は、そのまま読み進める。
沈家、火災。
三名死亡。
一名行方不明。
氏名――
沈知遥。
沈硯の視線が、その名前に釘付けになった。
この名前を、父から聞いたことは一度もない。
さらに頁をめくる。
だが、その人物について記されていたのは、たった二行だった。
女。
二十歳前後。
身元不詳。
それ以降。
記録は途切れていた。
沈硯は眉をひそめる。
もう一度、最初から記録をめくった。
やはり同じだった。
二十三年前の事件記録に、確かにこの名前は残っている。
だが――
なぜ、二十三年後。
川から引き上げられたあの女が、沈家のことを知っている?
そして、もっと奇妙なのは。
彼女は、自分を「蘇晩晴」と名乗った。
なのに、その名前が――
なぜか記録に残された三文字を思い出させる。
沈知遥。
夜。
南陵の川面は、再び静けさを取り戻していた。
誰も気づかなかった。
船着き場の一番下。
一本の杭のそばに、一つの河灯が掛かっている。
すでに、火は消えていた。
その河灯の中には、一枚の小さな紙が押し込まれていた。
紙には、たった一言だけ書かれている。
「九月七日、彼女はついに帰ってきた。」
そして――
紙の裏には。
まだ書き終えていない名前が、半分だけ残されていた。
沈……




