第二十二章 火の中の赤い布
部屋は静まり返っていた。
昨夜の焼け焦げた赤い布が、机の上に置かれている。
端はすでに炭化していた。
それでも中央には、ほんの小さな絹の布地が残っている。
そこには、一文字だけ。
「沈」
蘇晩晴は、長い間それを見つめていた。
「どうして、あの人じゃないって言ったの?」
沈硯は顔を上げなかった。
「わざとらしすぎる」
「どういう意味?」
「本当にあの沈という姓の女が残したものなら、姓だけを残す理由がない」
「じゃあ、わざとそうした可能性は?」
「それもある」
沈硯は赤い布を裏返した。
裏には何も書かれていない。
「でも、誰かが俺たちに『これはあの女が残したものだ』と思わせたいのなら」
「『沈』の一文字だけで十分だ」
秦重が言った。
「誰だと思う?」
沈硯は首を横に振った。
「分からない」
「なら、なぜ誰かが俺たちを誘導していると思う?」
沈硯は机の上にある七通の手紙を指した。
「七通の手紙」
「義荘の壁」
「周明が残したもの」
「そして、今度はこの布だ」
「俺たちが一つの方向を見つけるたびに」
「次の手掛かりが、向こうから現れる」
秦重は黙り込んだ。
だが、蘇晩晴は尋ねた。
「それって、いいことじゃないの?」
沈硯は彼女を見た。
「誰かが君に地図を一枚渡して」
「どの道を通ればいいか、全部教えてくれたとする」
「君は、それを助けてくれていると思うか?」
「それとも、どこかへ連れて行こうとしていると思う?」
蘇晩晴は少し考えた。
「最後に、どこへ連れて行かれるかによる」
沈硯は頷いた。
「そうだ」
「だから今の俺たちは、手掛かりだけを見るわけにはいかない」
「その手掛かりで、相手が俺たちに何をさせようとしているのかも見なければならない」
⸻
翌日。
沈硯は河運司へは向かわなかった。
代わりに、旧沈宅へ向かった。
二十三年前。
沈家を襲った大火。
屋敷はすでに建て直されている。
今では、裏庭に古い壁が一枚残っているだけだった。
当時の火は、ここから燃え広がったと言われている。
沈硯は壁の前に立った。
秦重がしゃがみ込み、小さな鋤で壁際の土をそっと削る。
ほどなくして。
黒い焦げ跡が現れた。
秦重が言った。
「ここの火の跡は、おかしい」
「どういうことだ?」
「もし火が屋内から燃え出したなら」
「壁の根元に、こんな跡は残らない」
「なぜ?」
「壁の根元は、火を受けるのが一番遅いからだ」
秦重はそこで言葉を止めた。
「つまり……」
沈硯が続ける。
「火は外から入った?」
秦重は頷いた。
「少なくとも、ここが最初の出火場所じゃない」
沈硯は壁を見つめた。
「当時の記録では?」
「書斎から出火したことになっている」
「書斎は?」
秦重は後方を指した。
「東の棟だ」
沈硯はそこへ歩いていった。
地面はすでに張り替えられている。
だが、壁際に一枚だけ色の違う煉瓦があった。
沈硯はしゃがみ込む。
軽く叩いた。
中が空洞のような音がした。
「ここだ」
秦重が近づく。
二人で煉瓦をこじ開けた。
下に暗室はなかった。
ただ、小さな空洞がある。
その中に、黒く焼けた木札が置かれていた。
沈硯はそれを拾い上げた。
木札には、文字が一つだけ残っている。
「契」
秦重の顔色が変わった。
「第七契?」
沈硯は答えなかった。
木札の裏には、浅い刻み跡が残っていた。
人の名前らしい。
だが、残っているのは二文字だけ。
「懐川」
沈硯は、それをじっと見つめた。
何も言わない。
秦重が低い声で尋ねた。
「お前の父親のものか?」
「可能性はある」
「持って帰るか?」
沈硯は首を横に振った。
「まだ触らない」
「なぜ?」
「二十三年間、ここにあった」
「そして今、突然見つかった」
「俺たちが動かしたことで、本来の位置を壊したくない」
秦重は沈硯を見る。
「誰かがわざと置いた可能性を考えているのか?」
「ある」
沈硯は袖から紙を取り出した。
木札の位置を描き、周囲の煉瓦の位置まで記録していく。
「まず証拠を残す」
「それから持っていく」
秦重は頷いた。
⸻
二人が立ち去ろうとした、その時。
蘇晩晴が突然しゃがみ込んだ。
木札ではない。
彼女が見ているのは、壁の根元だった。
「ここに何かある」
沈硯が近づく。
彼女が指差したのは、土に覆われた一枚の煉瓦だった。
煉瓦の隙間に、赤い糸が挟まっている。
沈硯は慎重にそれを取り出した。
昨夜の赤い布に使われていた糸と、まったく同じだった。
秦重が受け取る。
「同じ織り方だ」
蘇晩晴が尋ねた。
「じゃあ、あの赤い布もここから来たの?」
沈硯は首を横に振った。
「まだ分からない」
二本の糸を並べる。
「だが、少なくとも」
「この種類の赤い布が、二十三年前にはここに存在していたことは分かる」
蘇晩晴が突然尋ねた。
「沈家には、赤い服を着る女の人がいたの?」
沈硯は一瞬、言葉を失った。
「分からない」
「子供の頃は?」
「父は、家のことをほとんど話さなかった」
蘇晩晴はそれ以上聞かなかった。
だが、ふと思いついたように言った。
「じゃあ、考えたことはある?」
「何を?」
「あの沈という姓の女」
「もしかしたら、沈知遥じゃないんじゃない?」
沈硯は彼女を見る。
「なぜそう思う?」
「もし彼女が沈知遥なら」
「どうして、みんな『阿遥』としか呼ばないの?」
「どうして、誰も本当の名前を書き残していないの?」
沈硯は答えなかった。
確かに、それは一つの疑問だった。
沈知遥という名前。
それは、いったいどこから出てきた?
二人はずっと、それが本当の名前だと思っていた。
だが実際に最初に残っていた手掛かりは――
阿遥。
そして、後から少しずつ組み立てられていった。
沈。
阿遥。
沈知遥。
その間に。
誰かの手による書き換えがなかったと、どうして言える?
⸻
沈宅を出て、路地を抜けたところだった。
一人の飴細工売りの老人が、突然沈硯を呼び止めた。
「旦那さん」
沈硯が振り返る。
「何か?」
老人は沈硯の手にある紙を指差した。
「二十三年前の沈家の火事を調べているのかい?」
沈硯は答えなかった。
だが老人は続けた。
「若い頃な」
「わしは、ここで商売をしていた」
「あの火事も見たよ」
沈硯が近づく。
「何を見た?」
老人は首を横に振った。
「火は東からじゃなかった」
「では、どこから?」
「河辺だ」
沈硯の表情が変わる。
「河辺?」
「ああ」
老人はゆっくり話し始めた。
「あの夜」
「わしは、沈家の裏門から誰かが出てくるのを見た」
「子供を二人連れていた」
沈硯の胸が強く締まった。
「二人?」
「ああ」
「男の子? 女の子?」
老人は眉を寄せた。
「一人は大きい子」
「もう一人は小さい子だ」
「大きい方は、赤い服を着ていた」
沈硯は黙った。
「その大きい子は、沈という姓だったか?」
老人は首を横に振った。
「分からん」
「怪我は?」
「よく見えなかった」
「その人は誰だった?」
老人は長い間黙っていた。
「黒い服だった」
「顔に傷があった」
「小さい方を抱いていた」
「大きい方は、その後ろを歩いていた」
沈硯が尋ねる。
「どこへ行った?」
老人は手を上げた。
河の方を指す。
「船に乗った」
「どの船?」
老人は首を横に振った。
「そこまでは見えなかった」
沈硯が続けて尋ねた。
「七号船か?」
すると老人は、突然小さく笑った。
「旦那さん」
「二十三年前に」
「ここに七号船なんてものはなかったよ」
沈硯は固まった。
老人は言った。
「七号船は、船の名前じゃない」
「後になって、そう呼ばれるようになっただけだ」
秦重の顔色が一瞬で変わった。
沈硯がゆっくり尋ねる。
「どういう意味だ?」
老人は河面を見つめた。
「あの頃、南陵の船には固定された番号なんてなかった」
「河運司が旗を出していたんだ」
「七号の旗だ」
「どの船にその旗が掛かっているか」
「その船が七号船だった」
沈硯は何も言わなかった。
七号船。
まさか、それは船そのものではなかった。
ただの番号だった。
あの旗を掲げた船が、七号船になる。
老人は続けた。
「だから七号船を探したいなら」
「まず、その旗を探すことだ」
沈硯が尋ねる。
「旗はどこにある?」
老人は首を横に振った。
「知らん」
「だが……」
老人は沈硯を見た。
「あの旗が最後に見られた場所なら、覚えている」
「あの頃のあの旗は――」
「沈家の裏門にあった」
⸻
夜。
沈硯は住まいに戻ると、すべての手掛かりをもう一度机の上に並べた。
七通の手紙。
赤い布。
赤い糸。
真鍮のボタン。
七号船の記録。
沈懐川の手紙。
周明の書き残した言葉。
義荘の壁に残された文字。
そして、さっきの老人の話。
だが、今度はそれらを無理に一本の線へ繋げようとはしなかった。
新しい紙を一枚取り出す。
そして、三つの問いだけを書いた。
一。
誰が、二人の子供を沈家から連れ出した?
二。
なぜ、そのうち一人は身分を隠さなければならなかった?
三。
なぜ、七号の旗が沈家の裏門にあった?
蘇晩晴が隣に立つ。
しばらく紙を眺めていた。
そして、ふと尋ねた。
「もし、この三つの問いが……本当は一つの問いだったら?」
沈硯が彼女を見る。
「どういう意味だ?」
「子供たちを連れ出した人」
「その人が、七号の旗を掲げた人」
「そして、七号の旗を掲げた人が」
「名簿を知っていた人」
沈硯はすぐには否定しなかった。
紙を見下ろす。
そして、赤い布を手に取った。
その時だった。
赤い布の内側に、まだ焼け残っている小さな部分があることに気づいた。
そこには「沈」の字はなかった。
代わりに。
ごく小さな二文字が刺繍されていた。
「九七」
沈硯は、その二文字を見つめた。
秦重も気づいた。
「九月初七?」
沈硯は首を横に振った。
「まだ分からない」
蘇晩晴が尋ねる。
「じゃあ、何?」
沈硯は答えなかった。
七通の手紙に書かれた七人を思い出す。
七号船。
七号の旗。
第七契。
すべての「七」。
それらも、ただの番号なのかもしれない。
そして――
「九七」もまた、番号なのかもしれない。
その時。
扉の外から物音がした。
ノックではない。
何かをそっと地面に置いたような音だった。
沈硯は短刀を抜いた。
秦重が灯りを消す。
蘇晩晴は壁際へ身を寄せた。
三人はしばらく動かなかった。
やがて沈硯が扉を開ける。
外には誰もいない。
ただ、地面に折り畳まれた古い旗が置かれていた。
旗は、その大半が焼け落ちている。
残っているのは――
青い「七」の文字だけ。
沈硯はすぐには触れなかった。
なぜなら、旗竿の下に一枚の紙が押し込まれていたからだ。
そこには、一文だけ書かれていた。
「二人の子供がどこへ行ったのか知りたければ、当時、七号の旗を登録した者を探せ」
署名はない。
ただ、一つの日付だけが残されていた。
大晟二十三年、九月初七。
沈硯は、その紙を見つめた。
ようやく分かった。
誰かが、彼らを二十三年前と同じ道へ、もう一度歩かせようとしている。
そして今回。
探すべきなのは、七号船ではない。
七号を最初に登録した――
その人間だ。




