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河灯未明  作者: 亀


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第二十一章 沈という姓

沈硯は「姉さんは沈家の人間だ」という言葉を読んだあと、再び白石横丁へ向かった。


周婆はまだ家にいた。


沈硯は紙を取り出し、彼女の前に置いた。


「この字は、誰が書いたんですか?」


周婆はしばらく紙を見つめていた。


それから、ゆっくりと答えた。


「私だよ」


「いつ?」


「周明が死んだあとだ」


周婆は紙を指でなぞった。


「後になって、あの姉さんの姓が沈だと知ったんだ」


沈硯は顔を上げた。


「本当に沈という姓だったんですか?」


周婆は首を横に振った。


「分からない」


その答えは、意外なほどあっさりしていた。


「周明は、誰かがあの娘を『沈姑娘』と呼んでいるのを聞いたらしい」


「沈姑娘……」


「それだけだよ」


周婆は少し間を置いた。


「あの娘自身も言っていたそうだ。『誰かに聞かれたら、沈と答えて』って」


沈硯は黙った。


それが本当の姓なのか。


それとも、ただ使っていた名前なのか。


まだ分からない。


「どうして今まで黙っていたんですか?」


周婆は目を伏せた。


「怖かったんだよ」


「私が、その姉さんを探しに行くと思ったからですか?」


周婆は答えなかった。


ただ、しばらくして小さく言った。


「周明は、あのことで死んだんだ」


沈硯は何も言わなかった。


周婆は古い木箱を取り出した。


中から、小さな真鍮のボタンを一つ取り出す。


表面には何もない。


だが、裏側を見ると、小さく「沈」という字が刻まれていた。


「これは?」


「周明が持って帰ってきたものだよ」


「誰から?」


「姉さんからだ」


周婆は首を振った。


「何かの役に立つと言っていたらしい。でも、何のためだったのかまでは聞いていない」


沈硯はボタンを手に取った。


古い。


表面には細かな傷がいくつも残っている。


そして、その金具の形には見覚えがあった。


「これは……」


「知ってるのかい?」


沈硯は答えなかった。


その日の夕方、沈硯は蘇晩晴に会った。


「姉さんは、七号船には乗っていない」


そう言うと、蘇晩晴は少し驚いた。


「周婆がそう言ったの?」


「周明の記憶では、そうだ」


「いつ?」


「九月初六の夜だ。七号船が出る前」


蘇晩晴はしばらく黙っていた。


「その人……何歳くらいだった?」


沈硯は答えた。


「十六、七歳くらいだ」


蘇晩晴の表情が変わった。


「じゃあ……」


「どうした?」


「沈知遥?」


沈硯は首を横に振った。


「分からない」


「でも、もしその人が沈知遥なら……」


「決めつけるな」


沈硯は静かに言った。


「今のところ、分かっているのは姓が沈かもしれないということと、十六、七歳くらいだったということだけだ」


蘇晩晴は黙って沈硯を見た。


「じゃあ、その姉さんは……私じゃない」


沈硯は答えなかった。


蘇晩晴自身も、すぐに気づいた。


「年齢が合わないから?」


「そうだ」


沈硯は頷いた。


「私たちが知っているのは、まだそれだけだ」


蘇晩晴は少し俯いた。


「じゃあ、私は誰なの?」


沈硯はすぐには答えなかった。


やがて、ただ一言だけ言った。


「調べよう」


「それだけ?」


「それだけで十分だ」


沈硯は蘇晩晴を見た。


「人の名前を、他人が勝手に決めるべきじゃない」


その言葉を聞いて、蘇晩晴は黙り込んだ。


しばらくして、二人のところへ秦重がやって来た。


沈硯は、さっきの真鍮のボタンを見せた。


秦重はそれを見た瞬間、眉を寄せた。


「これ……」


「知っているのか?」


秦重はボタンを裏返した。


「見て思い出した」


「何を?」


「二十三年前、河運司には臨時の身分証があった」


「身分証?」


「臨時で働く人間に渡していたものだ。船の作業員だけじゃない。護送に関わる人間にも使われていた」


秦重はボタンを指した。


「この金具は、その身分証についていたものだ」


沈硯の目が細くなる。


「記録は?」


「焼かれた」


「全部?」


「ほとんどな」


秦重は少し考えてから言った。


「一つだけ覚えている。番号が七だった」


部屋が静かになった。


七号船。


第七契。


七面の旗。


七つの水紋。


そして、七号の身分証。


沈硯はしばらくそれらを頭の中で並べた。


そして、ゆっくりと言った。


「俺たちは、一番大きな間違いをしていたのかもしれない」


「何だ?」


「『七』という数字が出てきたら、全部同じ意味だと思っていた」


秦重は黙って聞いている。


「でも、もしかすると……」


沈硯は言葉を止めた。


「これらの『七』は、最初から同じものじゃなかったのかもしれない」


「じゃあ、なぜ同じに見える?」


「誰かが、そう見えるようにした」


その瞬間、二人の間に沈黙が落ちた。


秦重は何も言わなかった。


沈硯は、机の上に置かれた資料を見つめる。


七号船。


改ざんされた船冊。


焼かれた身分証。


閉ざされた裏口。


そして、二十三年前の火事。


「また火だな」


沈硯が呟いた。


だが、すぐに首を振った。


「いや……まだ一本には繋げない」


秦重が顔を上げる。


「なぜだ?」


「証拠が足りない」


沈硯は答えた。


「今ここで全部を一つの線にしたら、俺たちは真実を探しているんじゃない。自分で答えを作っているだけになる」


秦重は黙った。


その夜。


沈硯の家の扉が、三度叩かれた。


コン、コン、コン。


少し間を置いて。


また三度。


コン、コン、コン。


沈硯と蘇晩晴は顔を見合わせた。


誰も動かなかった。


沈硯はしばらく扉を見つめ、それからゆっくり立ち上がった。


だが、扉は開けなかった。


外の足音が遠ざかる。


しばらくして、沈硯は扉を開けた。


誰もいない。


ただ、敷居の前に小さな木箱が置かれていた。


沈硯は箱を拾い上げた。


蓋を開ける。


中には、半分焼けた赤い布が入っていた。


布の端には、小さな刺繍が残っている。


「沈」


蘇晩晴の顔が強張った。


「また……あの人?」


沈硯は赤い布を見つめた。


そして、首を横に振った。


「違う」


「え?」


「今回は違う」


沈硯は布を箱に戻した。


「誰かが、俺たちに『あの人だ』と思わせたいんだ」


蘇晩晴は何も言わなかった。


沈硯もまた、しばらく黙っていた。


だが、心の中では一つだけ確信に近いものが生まれていた。


誰かが、急いでいる。


そして、その誰かは――


もう、俺たちが自分で答えを見つけるのを待つつもりはない。

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