第十九章 二人目の子供
秦重がそう言い終えてから、しばらく誰も口を開かなかった。
橋の下を、水がゆっくりと流れている。
雨に打ち落とされた柳の葉が一枚、水面を漂い、やがて橋の向こうへ消えていった。
沈硯は秦重を見つめた。
「間違いないのか?」
秦重は頷いた。
「すべてを覚えているとは言えない」
「だが、この言葉だけは、間違えようがない」
「何だ?」
「もう一人は、先に送り出した」
沈硯が尋ねる。
「誰が言った?」
秦重は目を閉じた。
「女だ」
「顔は見たのか?」
「見ていない」
「その女が子供を義荘へ?」
「ああ」
「その後は?」
「子供を置いて、そのまま出ていった」
「なぜ追わなかった?」
秦重はしばらく黙っていた。
「人が来たからだ」
「誰が?」
「河運司の人間だ」
沈硯の目が険しくなる。
また、河運司だ。
二十三年前に起きたすべてのことが、ただ数人の人間が裏で間違いを犯しただけの話ではない。
沈硯は、もうそう思えなくなっていた。
人を消し、名前を変え、記録そのものを書き換えることができる何か。
それが、当時から存在していた。
そして河運司は――
その仕組みの一つの環にすぎない。
⸻
その日の午後。
沈硯は再び、古い義荘を訪れた。
ここは長年使われていない。
塀には一面、苔が生えている。
門扉も片側へ傾いていた。
秦重は門の前に立ったまま、中へ入ろうとしない。
沈硯が彼を見る。
「どうした?」
「ここへ来るのは、二十三年ぶりだ」
「なぜ?」
「戻りたくなかった」
沈硯は何も言わなかった。
ただ、門を押し開けた。
ギィィ……
門の軸が、耳障りな音を立てる。
庭には誰もいない。
あるのは雑草と――
すでに干上がった井戸だけだった。
秦重はその場に立ったまま、ふと口を開いた。
「当時、遺体安置所は裏だった」
二人は正堂を回り、裏手へ向かった。
裏手の扉は、すでに腐りかけている。
秦重が手を伸ばして押す。
すると扉は、ひとりでに開いた。
中から湿ったカビの臭いが一気に押し寄せてくる。
沈硯は火折子に火をつけた。
壁には、当時の番号がまだ残っていた。
一。
二。
三。
……
七まで。
秦重は最後の番号の前で足を止めた。
「ここだ」
沈硯は壁を見る。
「当時、七番の棚には何を入れていた?」
「遺体だ」
「誰の?」
秦重は首を横に振った。
「知らない」
沈硯が彼を見る。
「知らない?」
「当時、遺体にはすべて番号しか付けていなかった。名前はなかった」
「なら、なぜさっき女の子だと言った?」
秦重は答えなかった。
そのまま壁際へ歩き、しゃがみ込む。
黒ずんだ土を手で少しずつ払いのけた。
すると、小さなくぼみが現れた。
「彼女の遺体は、ここには入れられていない」
沈硯がわずかに目を見開く。
「どういうことだ?」
秦重は言った。
「目を覚ました後、誰かに連れていかれた」
「誰に?」
「分からない」
「なら、なぜ女の子だと分かる?」
秦重は七番の棚を見た。
「目を覚ました後、声を上げた」
「何と言った?」
「母さん、と」
沈硯は黙った。
七歳前後。
手首に傷。
義荘へ運び込まれた。
目を覚ました後、「母さん」と呼んだ。
確かに、子供だ。
だが、それだけでは彼女が沈知遥だったとは証明できない。
まして、蘇晩晴だったという証拠にもならない。
沈硯が尋ねる。
「二人目の子供は?」
秦重の顔色が、ゆっくりと変わった。
「分からない」
「当時、どこで声を聞いた?」
「裏口だ」
「どんな声だった?」
「とても小さかった」
「泣いていたのか?」
「違う」
秦重は首を横に振った。
「歌っていた」
沈硯が眉を寄せる。
「歌?」
「童謡だ」
「覚えているか?」
秦重は目を閉じた。
長い沈黙の後。
低い声で、数句を口ずさんだ。
「河灯亮、水路長……」
「七盏灯、照帰航……」
三句目を歌おうとしたところで、秦重は止まった。
沈硯が尋ねる。
「その続きは?」
「覚えていない」
沈硯は無理に聞こうとはしなかった。
なぜなら、その瞬間。
壁際に一本の傷があるのが見えたからだ。
あまりにも浅い。
まるで、誰かが爪で引っかいたような傷だった。
沈硯はしゃがみ込み、積もった埃を少しずつ払った。
すると、その下から歪んだ文字が現れた。
「私は阿遥じゃない」
沈硯の呼吸が、一瞬止まった。
秦重もそれを見た。
二人は同時に黙り込む。
文字は小さい。
大人が書いたものには見えない。
筆跡も歪んでいる。
「遥」の字に至っては、一画足りなかった。
沈硯は壁に指を触れた。
「子供が書いた」
秦重は頷いた。
「そうだろうな」
沈硯はさらに目を凝らす。
その下には、もう一つ傷が残っていた。
もともとは、まだ文字があったらしい。
だが、後から誰かに削り取られている。
残っていたのは、最後の二文字だけだった。
「姉さん」
沈硯はゆっくりと立ち上がった。
「つまり……」
「少なくとも一人の子供は、自分が阿遥ではないと知っていた」
秦重は何も言わなかった。
沈硯は続けて尋ねる。
「なぜ、こんなことを書いた?」
秦重は首を横に振った。
「誰かに阿遥と呼ばれたのかもしれない」
「あるいは……」
沈硯は一度言葉を止めた。
「本当の阿遥を知っていたのかもしれない」
⸻
二人はさらに中を探した。
しかし、それ以上の文字は見つからなかった。
やがて秦重が、一番奥にある古い棚を開けた。
棚の底に、一枚の木片が引っかかっている。
木片は薄く、端は虫に食われていた。
それでも、その上には一本の赤い糸が残っている。
沈硯が拾い上げる。
「これは?」
秦重が見る。
「服についていたものだ」
「誰の?」
「子供の」
沈硯が尋ねる。
「確かなのか?」
「あの時の女の子が着ていた服は、赤かった」
沈硯は糸を見下ろした。
長さは一寸ほど。
その先には、小さな結び目まで残っている。
その瞬間、沈硯は蘇晩晴のことを思い出した。
もちろん、今の彼女が着ている服は二十三年前のものではない。
だが、彼女は以前、こう言っていた。
幼い頃に覚えている数少ないものの一つ。
火。
一人の女。
そして――
赤い服。
沈硯は、このことをすぐには秦重に話さなかった。
ただの記憶にすぎない。
証拠にはならない。
赤い糸を紙袋に入れる。
そして尋ねた。
「ここには、もう一つ出口があったのか?」
秦重は頷いた。
「裏口だ」
「どこへ続いている?」
「川辺だ」
沈硯は、腐りかけた裏口を見る。
「もし誰かがここから二人目の子供を連れ出したなら――」
「正門は通らない」
「つまり、河運司の人間は知らなかった可能性がある」
だが、秦重は言った。
「知っていた」
「なぜそう言い切れる?」
「翌日のことだ」
秦重はゆっくりと言った。
「裏口の錠前が交換されていた」
沈硯は扉を見る。
今では錠前そのものは残っていない。
だが、鍵穴の周囲には深い削り跡が残っている。
誰かが無理やり錠前を外した跡だった。
沈硯が尋ねる。
「誰が交換した?」
秦重は首を横に振った。
「知らない」
「なら、なぜ覚えている?」
「その日を境に――」
秦重は腐った扉を見つめた。
「俺は二度と、この扉を開けなかった」
⸻
日が暮れかけた頃。
二人は義荘を後にした。
路地の入口まで来たところで、沈硯が突然足を止めた。
秦重が振り返る。
「どうした?」
沈硯は答えなかった。
袖から、沈懐川の手紙を取り出す。
そして開いた。
指で一文を示す。
「阿遥を七号船に乗せるな」
続いて、義荘の壁に残された文字を指した。
「私は阿遥じゃない」
二つの「阿遥」。
一つは父親から。
もう一つは――子供自身から。
沈硯は初めて気づいた。
もしかすると、最初から。
自分たちは、最も重要な問いを間違えていたのではないか。
彼らはずっと問い続けてきた。
蘇晩晴は沈知遥なのか?
七号船に乗っていた子供は蘇晩晴なのか?
生き残ったのは沈知遥なのか?
だが、二十三年前の人々は――
彼女たちを、そんな単純な名前で呼んでいなかったのかもしれない。
当時、少なくとも二人の少女がいた。
そのうち一人は阿遥と呼ばれていた。
もう一人は、誰かに阿遥だと思われていた。
誰かが意図的に、二人の身元を入れ替えた。
その結果。
一人は名簿から消え。
一人は新しい名前を与えられた。
そして、もう一人の死が――
すべてを隠すための代償になった。
その時、秦重が突然口を開いた。
「沈硯」
「ん?」
「もう一つ、ある」
「何だ?」
「思い出した」
秦重は、遠くの空が暗くなっていくのを見つめた。
「あの夜」
「義荘へ運ばれた子供が目を覚ました後――」
「誰かが、あの子に名前を聞いた」
沈硯が尋ねる。
「何と答えた?」
秦重は長い間、黙っていた。
そして、ようやく口を開いた。
「その子は……」
「蘇……」
そこで声が途切れた。
沈硯が勢いよく振り向く。
「蘇、何だ?」
秦重は首を横に振った。
「覚えていない」
「ただ、一文字だけだった」
「蘇」
風が路地の奥から吹き抜けていく。
沈硯は、それ以上聞かなかった。
なぜなら、その答えは一見すると、すべてを明らかにするように見えた。
だが実際には――
新しい疑問を増やしただけだった。
もし、あの子が本当に「蘇」と名乗ったのなら。
蘇晩晴という名前は――
一体、誰が彼女につけたのか?
そして、「私は阿遥じゃない」と書いた子供は――
一体、誰だったのか?
沈硯は手紙をしまった。
「晩晴には、まだ言わないでくれ」
秦重は頷いた。
「なぜだ?」
「今、俺たちの手にあるのは、ただの手掛かりだ」
「答えじゃない」
「彼女に話せば、自分の記憶で空白を埋めようとするかもしれない」
「そうなれば、推測を事実だと思い込むことになる」
秦重は沈硯を見つめた。
そして、ふっと笑った。
「お前も、だんだん父親に似てきたな」
沈硯は笑わなかった。
「父親みたいにはなりたくない」
秦重は言葉を失った。
沈硯は、空の最後の光を見つめる。
「俺は、あの人があの時、何をしたのか知りたい」
「間違っていたのなら――」
「それを知りたい」
「正しかったのなら――」
「それも知りたい」
「父親だからという理由だけで」
「あの人の答えを、俺が決めるわけにはいかない」
そう言って。
沈硯は背を向け、歩き出した。
だが――
二人の背後にある、古い義荘。
「私は阿遥じゃない」と書かれた壁のそばで。
一陣の風が吹き抜けた。
壁際に積もっていた埃が舞い上がる。
すると、土に覆われていた一行の小さな文字が――
ついに姿を現した。
たった五文字。
「姉さんは船にいる」




