第十五章 七号船
子の刻が近づいていた。
南陵河の水音は、昼間よりもずっと低く響いている。
七号埠頭は、もう何年も前に廃れていた。
杭は水に浸かって黒ずみ、岸辺には雑草が生い茂っている。
沈硯、蘇晩晴、陳旺の三人は、明かりをつけていなかった。
廃れた荷小屋の陰に身を潜めている。
陳旺は、ずっと川面を見つめていた。
「ここだ」
沈硯が尋ねる。
「間違いないか?」
「間違いない」
陳旺は、水際に傾いた一本の杭を指差した。
「昔、七号船はあそこに繋いでいた」
蘇晩晴がその杭を見る。
「よく覚えているのね」
陳旺は苦笑した。
「忘れたくても、忘れられないことってのがあるんだ」
沈硯は何も言わなかった。
ただ、川面を見つめていた。
水面は静かだった。
船もない。
人影もない。
遠くから、ときおり犬の鳴き声が聞こえてくるだけだ。
そして、子の刻になった。
それでも、誰も現れない。
陳旺が不安そうに口を開く。
「誰も来ないんじゃないか?」
沈硯は首を横に振った。
「俺たちがここまで調べたと知っているなら、理由もなく呼び出すはずがない」
そのとき、蘇晩晴が突然手を上げた。
「誰かいる」
遠くの葦が揺れた。
一人の人影が、土手の下から姿を現す。
女だった。
三十代くらい。
灰青色の古びた袍を身にまとっている。
顔は隠していない。
女は七号船の杭まで歩いてくると、足を止めた。
「出てきて」
沈硯たちは荷小屋の陰から姿を現した。
女は三人を見ても、驚いた様子を見せなかった。
ただ、陳旺を見つめる。
「やっぱり来たのね」
陳旺が尋ねた。
「お前は誰だ?」
女は答えなかった。
代わりに、こう言った。
「二十三年よ」
「あなたは、今でも水が怖いのね」
陳旺の顔色が変わった。
「俺を知っているのか?」
「知っている」
女は彼を見つめた。
「私も蘇河を知っている」
蘇晩晴がすぐに一歩前へ出た。
「父を知っているの?」
女は彼女を一瞥する。
「知っている」
「父は今、どこにいるの?」
女は黙った。
「あなたの父親は、もう死んでいる」
蘇晩晴の目が暗くなる。
だが、女は続けた。
「少なくとも、私が最後に会ったときは」
「まだ生きていた」
沈硯が尋ねる。
「いつだ?」
「大晟二十三年、九月初七」
陳旺が突然口を挟んだ。
「あり得ない」
女が振り返る。
「どうして?」
「その夜、俺はあいつに会っている」
陳旺の声が、次第に低くなる。
「あいつは、もう……」
「もう、何?」
陳旺は答えなかった。
女は小さく笑った。
「あなたたちは、みんな蘇河が死んだと思っている」
「だからこそ、彼は生き延びたのよ」
沈硯の目が鋭くなる。
「お前は、一体何者だ?」
女はようやく答えた。
「林秋娘」
その名を聞いた瞬間、陳旺の顔色が変わった。
「お前……なのか?」
林秋娘は彼を見つめる。
「どうやら、まだ覚えていたのね」
「お前は……」
陳旺の言葉が止まる。
林秋娘が、その続きを引き取った。
「死んだ、って?」
彼女は小さく笑った。
「多くの人が、私が死んだと思っている」
「河運司も含めてね」
沈硯が尋ねる。
「当時のお前は、何者だった?」
林秋娘は答えなかった。
代わりに、川面を指差した。
「あなたたちは知りたいのでしょう?」
「七号船に乗っていた八人が、どこへ行ったのか」
「教えてあげる」
「ただし、その前に一つだけ聞いてほしいことがある」
沈硯は頷いた。
「言え」
林秋娘は陳旺を見る。
「二十三年前」
「あなたが操ったあの船には」
「確かに八人いた」
陳旺は目を閉じた。
「そのうち七人は」
「あなたたちが思っている、あの七人」
「そして、もう一人は――」
林秋娘が蘇晩晴を見る。
「子供だった」
蘇晩晴の指が、わずかに強く握り締められた。
沈硯は口を挟まなかった。
林秋娘は続ける。
「でも、その子供は蘇晩晴ではない」
蘇晩晴が勢いよく顔を上げた。
陳旺も呆然とする。
「何だと?」
林秋娘は言った。
「あの夜」
「蘇河は、自分の娘を私に託した」
「でも、彼女は七号船には乗っていない」
蘇晩晴の顔から血の気が引いた。
「じゃあ、私はどこにいたの?」
「南陵城の外」
「別の子供と一緒にいた」
沈硯が尋ねる。
「その子供は誰だ?」
林秋娘は首を横に振った。
「知らない」
「知らない?」
「当時の私は、子供を送り届けるだけだった」
「名前なんて聞かなかった」
陳旺が突然口を開く。
「じゃあ、なぜ蘇河の娘だと知っている?」
林秋娘は彼を見る。
「蘇河本人から聞いたからよ」
「彼はこう言った」
「娘さえ生き延びられるなら」
「自分がどこで死のうと構わない、と」
蘇晩晴は何も言わなかった。
沈硯は彼女を一瞥する。
顔は平静だった。
だが、その手はずっと衣の裾を握り締めていた。
⸻
林秋娘は懐から一枚の木札を取り出した。
そして、杭の上に置く。
そこには一つの名が刻まれていた。
蘇河。
だが、その下にはもう一行、小さな文字が刻まれている。
七号船。
それを見た瞬間、陳旺が一歩後ずさった。
「それは……」
「お前が、あいつに渡したのか?」
「違う」
林秋娘は答えた。
「蘇河が私に残したものよ」
沈硯が木札を手に取る。
裏側には、さらに一つの刻み跡があった。
後から刻まれたように見える。
――
八去七帰。
沈硯は、その四文字をじっと見つめた。
「これは、お前が刻んだのか?」
林秋娘は首を横に振る。
「違う」
「蘇河か?」
「それも違う」
「じゃあ、誰だ?」
林秋娘は黙り込んだ。
「知らない」
沈硯は、それ以上追及しなかった。
木札を懐にしまう。
「七号船には八人いた」
「なら、教えてくれ」
「八人目は誰だ?」
林秋娘は沈硯を見つめた。
「あなたたちは、もう会っている」
陳旺の顔色が変わる。
蘇晩晴も沈硯を見る。
沈硯は、すぐには答えなかった。
頭の中を、ここ数日で会った人々の顔が次々とよぎる。
趙六。
秦重。
周婆。
陳旺。
蘇河。
蘇晩晴。
あの十二歳の少年。
そして――
沈知遥。
その瞬間。
ある場所が頭に浮かんだ。
義荘。
そして、誰かに動かされた、あの棺。
「八人目は――」
沈硯は、ゆっくりと言った。
「当時、船に乗っていた人間じゃない」
林秋娘は彼を見る。
否定しなかった。
「続けて」
沈硯は言った。
「後から船冊に書き加えられた人間だ」
林秋娘の目に、初めて驚きの色が浮かんだ。
「あなたは、父親より頭が切れるようね」
沈硯の目が冷たくなる。
「父の話はするな」
林秋娘は引かなかった。
「どうして?」
「お前はまだ、父が何をしたのか知らないからだ」
沈硯は木札を強く握った。
「なら、お前は知っているのか?」
「少しだけ」
「話せ」
林秋娘は首を横に振った。
「今は無理」
沈硯は近づかなかった。
ただ、尋ねる。
「なぜだ?」
「今ここで話したら」
「あなたは、まず彼を調べに行く」
「七号船ではなくね」
「それこそ、誰かがあなたにさせたいことなのよ」
沈硯は黙った。
林秋娘は彼を見つめる。
「あなたの父親は、この事件の始まりではない」
「まして、最も重要な人物でもない」
「ただ、彼は一つの選択をした」
「その選択によって、後に多くの人が生き残った」
陳旺が突然尋ねる。
「なら、どうして死んだ人間がいる?」
林秋娘は川面を見る。
「全員が生きられるわけではないからよ」
陳旺の声が震える。
「周明のことを知っているのか?」
「知っている」
「なぜ死んだ?」
林秋娘は答えなかった。
ただ、こう言った。
「知ってはいけないことを知ったから」
陳旺は歯を食いしばる。
「じゃあ、お前は?」
「どうして生き残った?」
林秋娘は彼を見つめた。
長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「誰かが、私の代わりに死んだからよ」
そのとき。
川面から突然、水音が響いた。
全員が同時に振り返る。
一艘の小舟が、闇の中からゆっくりと近づいてきた。
船には誰も乗っていない。
ただ一つ。
木箱が載せられていた。
木箱は流れに押され、岸へぶつかる。
ドン。
一度。
そして、もう一度。
陳旺が近づこうとする。
「触るな」
沈硯が手を伸ばして制した。
木箱に鍵はかかっていない。
ただ、七本の水紋が刻まれている。
蘇晩晴が突然言った。
「これ、新しい」
沈硯が彼女を見る。
「どうして分かる?」
「古い木は水に浸かると、こんなに濃い色にはならない」
彼女はしゃがみ込み、木箱を見た。
「作られてから、まだそれほど経っていない」
沈硯は頷いた。
「下がれ」
刀の切っ先で、箱の蓋をゆっくり持ち上げる。
中には死体もない。
金もない。
入っていたのは――
七通の手紙だった。
一通ごとに、一つの名前が書かれている。
沈硯は最初の一通を手に取った。
沈懐川。
二通目。
秦重。
三通目。
陳旺。
四通目。
蘇河。
五通目。
周明。
六通目。
沈知遥。
そして七通目。
沈硯の手が止まった。
そこには名前がない。
ただ、二文字だけが書かれていた。
蘇女。
蘇晩晴の顔色が、一瞬で変わった。
林秋娘は一歩後ずさる。
「私じゃない」
沈硯が顔を上げる。
「この手紙を知っているのか?」
「知っている」
「誰が置いた?」
「知らない」
「いつ置かれた?」
「知らない」
沈硯は林秋娘を見つめた。
林秋娘の顔に、初めて本当の動揺が浮かんだ。
「ただ、一つだけ分かっていることがある」
「何だ?」
「この七通が同時に現れたということは――」
彼女は川面を見る。
声は、とても小さかった。
「誰かが決めたということよ」
「二十三年前の事件を、もう一度始めると」
遠くから。
突然、鐘の音が響いた。
一つ。
二つ。
三つ。
南陵城の城門が、閉まり始める。
沈硯は、七通の手紙を見下ろした。
そのとき、ふと気づいた。
彼らは、ずっと自分たちが真相を探していると思っていた。
だが、いつからか。
もしかすると――
真相を探していたのは、彼らではない。
誰かが。
一歩ずつ。
彼らを真相へ導いていたのだ。
そして今度は。
その誰かが、彼ら全員の名前を。
同じ一つの箱に入れた。




