第十二章 白石横丁の老婆
白石横丁は狭かった。
馬車は入れない。
沈硯たちは馬車を降り、歩いて進むしかなかった。
路地の両側には古びた家が並んでいる。
剥がれ落ちた壁。
軒先には、干した魚が何本も吊るされていた。
陳旺が先頭を歩いていた。
歩みは遅い。
一軒の家を通り過ぎるたびに、彼は振り返った。
蘇晩晴はそれに気づいた。
「ここには、以前にも来たことがあるの?」
陳旺は頷いた。
「二十年以上前に。よく来ていた」
「荷物を届けに?」
「違う」
陳旺は一瞬、言葉を止めた。
「人を届けに」
蘇晩晴は、それ以上聞かなかった。
だが、沈硯はその答えを覚えていた。
一行が路地の一番奥まで進む。
そこには、ひどく古びた木の扉があった。
表札はない。
ただ、色褪せた白い布切れが一枚、掛けられている。
秦重が前へ出た。
扉を三度叩く。
返事はない。
もう三度。
それでも、何の音もしなかった。
陳旺がふいに言った。
「留守かもしれない」
秦重は首を横に振った。
「いる」
「どうして分かる?」
「いなければ、鍵は掛かっていない」
陳旺が固まった。
沈硯が扉の下を見る。
確かに、隙間から細い光が漏れていた。
秦重はもう一度、扉を叩いた。
今度は中から、年老いた声が聞こえた。
「誰だい?」
秦重が答える。
「秦重だ」
中がしばらく静まり返る。
やがて、足音が近づいてきた。
扉が少しだけ開く。
真っ白な髪の老婆が、扉の向こうに立っていた。
七十を越えているように見える。
背は少し曲がり、手には一本の竹杖を握っていた。
老婆はまず秦重を見た。
次に陳旺を見る。
そして最後に、沈硯へ視線を向けた。
「この者たちを連れてきて、何のつもりだい?」
秦重は答えなかった。
老婆の目が、あの子供へ向く。
子供は反射的に沈硯の背後へ隠れた。
老婆は、しばらくその子を見つめた。
「入りな」
――
家の中は狭かった。
部屋は二つしかない。
それでも、隅々まできれいに片付けられていた。
壁には、すっかり黄ばんだ一枚の絵が掛かっている。
描かれていたのは、一筋の川。
その川の上に、七艘の船が浮かんでいた。
沈硯はそれを見た瞬間、足を止めた。
「これは……」
老婆が淡々と言う。
「昔、描いたものだよ」
「誰が描いた?」
「息子さ」
老婆は絵の前まで歩き、絵枠に積もった埃を手で払った。
「あの子は船を描くのが好きだった」
老婆の声が、少しだけ低くなる。
「……だが、最後は船の上で死んだ」
部屋が静かになった。
沈硯は、それ以上聞かなかった。
老婆は水を一杯汲み、子供の前に置いた。
子供は飲まない。
老婆も無理に勧めなかった。
ただ、隣に腰を下ろす。
「名前は?」
子供は黙ったままだ。
沈硯が答えた。
「まだ、本人から聞けていません」
老婆は沈硯を見る。
「それで、連れてきたのかい?」
「はい」
「なぜ?」
「誰かに殺されようとしているからです」
「だから、私に守らせたい?」
「しばらくの間は」
老婆が小さく笑った。
「随分と率直だね」
老婆は竹杖を手に取り、子供の前まで歩いていく。
「お前、私が怖いかい?」
子供は首を横に振った。
「どうして?」
「悪い人には見えないから」
老婆が笑う。
「悪い人っていうのは、どんな顔をしているんだい?」
子供は少し考えた。
「……分からない」
「なら、どうしてそんなことを言った?」
「だって、おばあさんは僕を騙さなかったから」
老婆は目を瞬かせた。
そして、ふっと笑った。
「この子のほうが、お前たちより賢いね」
陳旺は俯いた。
何も言わなかった。
すると老婆が、突然口にした。
「趙六は死んだのかい?」
その瞬間。
全員が黙った。
沈硯が老婆を見る。
「趙六を知っているんですか?」
「知っている」
「ここへ来たことが?」
「ある」
「いつです?」
老婆は答えなかった。
代わりに秦重へ視線を向ける。
「また、この子を巻き込んだんだね」
秦重は黙っていた。
「聞いているんだよ」
老婆の声が、突然冷たくなる。
「二十三年前、お前たちは一人の子供を守れなかった」
「そして今になって、また私のところへ来た」
秦重が俯く。
「今回は違います」
「違う?」
老婆が冷笑した。
「どこが違う?」
秦重は答えなかった。
老婆は陳旺へ向き直る。
「お前は?」
陳旺の顔が強張る。
「俺は……」
「お前も来たんだね」
老婆は陳旺を見据えた。
「二十三年前、お前は私に何と言った?」
陳旺は俯いたまま答えた。
「覚えている」
「言ってみな」
長い沈黙のあと。
陳旺はようやく口を開いた。
「船が目的地に着いたら、人を無事にお前さんへ引き渡す……そう言った」
「それで?」
「船は着いた」
「人は?」
陳旺の唇が震えた。
だが、言葉が出てこない。
老婆は冷たい目で彼を見つめた。
「私の息子は、帰ってこなかった」
陳旺は目を閉じた。
「……すまなかった」
老婆は、その謝罪を受け入れなかった。
ただ背を向ける。
そして、棚の中から古びた木箱を取り出した。
それを机の上に置く。
「息子の名は周明」
「二十三年前、十八だった」
「役人じゃない」
「河運司の者でもない」
「ただの荷積みをしていた子供さ」
老婆が木箱を開ける。
中には、いくつかの物が入っていた。
古びた銅貨。
折れた木櫛。
そして、黄ばんだ一通の手紙。
「その年、ある者があの子を訪ねてきた」
「一度だけ荷物を運んでくれれば、銀十両をやると言ったそうだ」
陳旺が低い声で言う。
「俺は……あいつも船に乗っていたなんて知らなかった」
老婆が顔を上げた。
「もちろん、知らなかっただろうね」
「誰もお前には教えなかった」
「お前には、こう伝えただけだ」
「船には七人いる、と」
陳旺の顔色が、一瞬で変わった。
沈硯も彼を見る。
陳旺が口を開く。
「俺は……」
老婆は続けた。
「だが、実際には――」
「船には八人いた」
部屋の中が、完全な静寂に包まれた。
沈硯が尋ねる。
「八人目は誰です?」
老婆は答えなかった。
ただ、蘇晩晴へ視線を向けた。
蘇晩晴の顔色が変わる。
老婆がゆっくりと言った。
「私には分からない」
「ただ、一つだけ分かっている」
「息子が死ぬ前、私のところへある物を送り返してきた」
老婆は木箱から、あの古びた銅貨を取り出した。
机の上に置く。
沈硯は、一目でそれが何なのか分かった。
以前、彼らが見つけた銅貨と――
まったく同じだった。
蘇晩晴は銅貨を見つめた。
指先が、わずかに震える。
老婆が彼女を見る。
「お前、この銅貨を見たことがあるね?」
蘇晩晴は頷いた。
「あります」
「どこで?」
「船の上で」
老婆の表情が、初めて変わった。
「どの船だい?」
蘇晩晴は答えた。
「私をさらった船です」
老婆は何も言わなかった。
長い沈黙のあと。
老婆が尋ねる。
「お前の名は?」
「蘇晩晴です」
老婆は彼女をじっと見つめた。
そして、突然尋ねた。
「誰に、その名前を教えられた?」
蘇晩晴は戸惑った。
「……分かりません」
「父親は?」
「死にました」
「名は?」
「蘇河です」
老婆の手から、竹杖が滑り落ちた。
カラン――。
竹杖が床に落ちる音だけが、部屋に響いた。
老婆は、まるで全身の力を抜かれたように、その場に立ち尽くした。
陳旺が勢いよく立ち上がる。
「今、何と言った?」
蘇晩晴がもう一度言う。
「父の名は、蘇河です」
老婆は彼女を見つめた。
その目が、ゆっくりと赤く染まっていく。
「……そうか」
「奴だったのか」
沈硯が尋ねる。
「蘇河を知っているんですか?」
老婆は答えなかった。
ただ壁際まで歩いていき、一枚の古い絵を取り外した。
その裏には、黄ばんだ紙が隠されていた。
老婆はそれを沈硯へ差し出す。
「息子が死ぬ前に残したものだ」
沈硯は受け取った。
紙には、たった一文だけが書かれていた。
文字は歪んでいる。
まるで船の上で、急いで書き残したようだった。
――
『母さん、船にはもう一人、子供がいる』
その下には署名がなかった。
ただ一つの日付だけが残されている。
大晟二十三年。
九月七日。
沈硯が顔を上げた。
窓の外で。
突然、風が吹いた。
壁に掛けられた七艘の船が、かすかに揺れる。
蘇晩晴は、その場に立ち尽くしていた。
顔から血の気が引いている。
やがて、彼女が呟いた。
「その子……」
全員の視線が、彼女に集まる。
蘇晩晴はゆっくりと顔を上げた。
「……もしかしたら、私かもしれない」
老婆は彼女を見つめた。
頷きもしない。
首を横にも振らない。
ただ、静かに言った。
「だから、私はお前を置いておけない」
沈硯が目を見開く。
「なぜです?」
老婆は蘇晩晴を見る。
「もし、お前が本当にあの子だったのなら」
「二十三年前――」
「誰かが、お前を生かすために」
「私の息子を殺したことになる」
部屋に、再び静寂が落ちた。
その時。
子供が突然、蘇晩晴の衣の裾を掴んだ。
老婆はその子供を見る。
それから、蘇晩晴を見る。
やがて――
「だが、この子なら」
「ここに置いてやれる」
蘇晩晴が目を見開いた。
老婆は腰をかがめ、床に落ちた竹杖を拾う。
「この子は、二十三年前のあの子じゃない」
「この子には、私に対して何の借りもない」
老婆は沈硯を見る。
「お前たちは帰りな」
「この子は置いていけ」
沈硯は動かなかった。
「本人は?」
老婆が一瞬、目を瞬かせる。
沈硯は子供の前にしゃがみ込んだ。
「ここに残りたいか?」
子供は沈硯を見る。
それから老婆を見る。
最後に、尋ねた。
「……みんな、戻ってくる?」
沈硯は約束しなかった。
ただ、こう言った。
「できる限り、戻ってくる」
子供は頷いた。
「じゃあ、ここにいる」
沈硯が立ち上がる。
老婆は彼を見る。
「お前は、あの子の代わりに決めなかったんだね」
沈硯は答えた。
「この子の命は」
「この子自身が決めるべきです」
老婆は、しばらく沈硯を見つめた。
やがて、ゆっくりと身を引く。
そして、扉を開けた。
「調べな」
三人が外へ出ようとした時。
老婆の声が背後から届いた。
「だが、もし――いつか真実に辿り着いたら」
「誰が善人で、誰が悪人だったと思うかなんて」
「私には言わなくていい」
沈硯が足を止める。
老婆の声が続く。
「教えておくれ」
「私の息子は――」
「なぜ死ななければならなかったのか」
沈硯は少しだけ黙った。
そして答えた。
「分かりました」
――
三人が白石横丁を出る。
陳旺は、ずっと何も話さなかった。
路地の入口まで来たところで。
ようやく口を開く。
「沈推官」
「何です?」
「もし最後に分かったら……」
「二十三年前、本当に誰かが蘇さんを守るために、周明を殺したんだとしたら」
陳旺は一度、言葉を止めた。
「それでも、あんたは蘇さんを守るのか?」
沈硯は、しばらく答えなかった。
蘇晩晴も足を止める。
彼を急かそうとはしなかった。
やがて。
沈硯が言った。
「彼女がやったのなら、彼女を調べる」
「やっていないのなら、本当にやった人間を調べる」
「一人の身分だけを理由にして」
「別の命まで、その人間の罪にすることはできない」
陳旺は沈硯を見つめた。
それ以上、何も言わなかった。
そして蘇晩晴は俯いた。
衣の裾を、そっと握りしめる。
彼女は、ふと気づいた。
自分は初めて――
この男が、本当に最後まで真実を追い続けてくれることを願っている。
たとえ、その答えが。
自分自身でさえ、受け入れられないものだったとしても。




