198 2026年5月30日(土) 正義が広がり始める
すみません、先日掲載した【断章】はこのままですと物語の内容が変わってしまうので削除しました
これが、本来の続きです
「初めまして。山部と申します。よろしくお願いいたします」
文翔館地下ドック、施設警備班控室。
冷たいLED光の下、
山倉仁が一人の男を伴って現れた。
「こちら、高校で非常勤をしている、山部聡先生だ」
一瞬の静寂。
次の瞬間――ざわめきが走る。
“先生?”
その肩書きと、この場所が、あまりにも噛み合わない。
だが、山倉が連れてきた。それだけで、空気が引き締まる。
前に出たのは三人。各班の班長。
「施設警備班、第一班班長の嘉藤伸二です。主に小規模怪異の物理対応を担当しています」
無駄のない声音。
「同じく第二班班長、髙橋哲也。ローテーションで同様の対応を行っています」
視線は逸らさない。
「狙撃班班長、更家景三です。銃火器によるバックアップが主任務です」
一歩引いた位置。
だが最も冷静に、場を観察している。
山部は、軽く頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
それ以上は何も言わない。
自己紹介は、それで終わった。
だが――
誰も、次に何が起きるのか分からない。
山倉が一歩前に出る。
肩を鳴らす。乾いた音がやけに大きく響いた。
「んじゃ、山部先生」
にやりと笑う。
「俺と一手、どうだい?」
空気が変わる。
控室の温度が、ほんのわずかに下がる。
ざわめきは消え、ただの“気配”になる。
山倉仁。
かつての警察庁退魔八部衆、先代《夜叉》。
“会議室”特級エージェントと互角に渡り合うとされる、日本五傑の一人。
その男が――
“試す”。
視線が一斉に山部へ集まる。
――何者だ。
言葉にならない問いが、場を満たす。
山部は、少し困ったように笑った。
「……手加減は、していただけますか」
一瞬。
空気が止まる。
誰かが、息を呑む。
山倉が楽しげに目を細める。
「それは、こっちの台詞だな」
一拍。
親指で奥を示す。
「着替え、あるんだろ?」
視線の先。
重厚な防音扉が、沈黙している。
「――奥の格闘訓練場、行こう」
その一言で空気がほどけ、
同時に、別種の緊張が生まれる。
嘉藤が小さく息を吐く。
髙橋が腕を組む。
更家は、すでに動線を確認している。
――達人か。
誰もが、そう判断した。
山部は一瞬だけ扉を見て、頷いた。
「……承知しました」
静かな声。
だが、迷いはなかった。
山倉が先に歩き出す。
山部が、その背を追う。
防音扉が、ゆっくりと開いた。
重い空気が、向こう側から流れ込む。
---
格闘訓練場。
中央で、二人は向かい合っていた。
「先生、危ないんでな。今日はその面じゃなくて、これ使ってくれ」
山倉がフルフェイスタイプのフェイスガードを放る。
「あ、いや……でも……」
「ほらよ」
「いや、でも……」
「大丈夫。本気は出さねぇから」
「……な、なら」
山部は戸惑いながら装着する。
周囲には警備班の面々。
興味半分、警戒半分の視線が集まる。
「準備いいな、先生」
山倉が悠然と構える。
山部の構えは――内股。
重心も曖昧。どう見ても素人だ。
「……そう、その構え、こないだの異世界格闘技!いいねぇ」
「ありがとうございます」
次の瞬間。
山倉が踏み込む。
速い。
輪郭が、ぶれる。
――どう出る、先生。
迷いのない直拳。
山部の鳩尾へ、一直線。
「あ」
「うぼっ!」
鈍い音。
山部が吹き飛ぶ。
沈黙。
格闘訓練場全体が、微妙な空気に包まれる。
「……は?」
誰かが呟く。
山部は白目をむき、泡を吹いて倒れていた。
「おい!?」
慌てて駆け寄る警備班の面々。
山倉が、ぽりぽりと頭を掻く。
「……あれ?」
誰もが思う。
――いったい何を見せられてるんだ?
---
アメリカ、マサチューセッツ州アーカム
聖メアリー・ティーチング大学病院、
の病室。
呼吸器のチューブが外れ、
片桐一葉は、ようやく声を出せるようになっていた。
枕元に、母・綾が小さな布袋をそっと置く。
「山形ロボのAI、ハコ子さんに聞いたわ。これ、あなたの宝物なんでしょ?」
「あ……それ……」
一葉の視線が、袋に落ちる。
綾は、柔らかく微笑んだ。
「血まみれだったから、作り直しておいたの。前より、裁縫も上手になってたわよ」
指先が、わずかに動く。
「……その荷物、お母さん帰るの?」
「ううん。一度山形に戻るだけ。文翔館と、あなたの部屋から荷物を取ってくるの。私物もあるでしょう?」
一葉は、動かない体のまま、視線だけを巡らせる。
「……じゃあ、ノートPCとタブレットもお願い。ハコ子と、話したいことがたくさんあるし」
「わかったわ」
綾は頷いてから、ふと思い出したように言う。
「そういえば、昨日。目が覚めたとき、何か言おうとしてたわよね。あれ、何だったの?」
一葉は、天井を見つめる。
思い出そうとする。
けれど。
「……なんだっけ。たぶん、そんな大事なことじゃないかも」
綾は、少しだけ目を細める。
「そう。じゃあ、先生の言うこと、ちゃんと聞くのよ」
「はーい」
短い返事。
綾は静かに立ち上がり、病室を出ていく。
扉が閉まる。
静寂。
機械の小さな作動音だけが残る。
一葉は、ぼんやりと天井を見たまま。
「……何か、忘れてる」
思考の端に、引っかかるもの。
けれど、形にならない。
「……んー、まぁいいっか」
瞼が、ゆっくりと落ちる。
呼吸が、静かに整っていく。
再び眠りへ。
――そのまま。
思い出されなかった“何か”だけが、
部屋のどこにもない場所に、
静かに取り残された。
---
日本・五反田。
雑居ビル上層階、株式会社Luthco。
その奥――
田中恒一の“最近の定位置”となった応接室。
秘書が、無言でペットボトルを差し出す。
マサチューセッツ州から取り寄せた深層海洋水。
彼のお気に入りだ。
大ぶりのバッグの中には保冷剤。
常に最適な温度が保たれている。
田中は、何も言わず受け取った。
「すごいですね、田中“先生”。コラムを掲載したメディアを見て、自社でも載せたいというWeb媒体や、対談希望のインフルエンサーからの問い合わせがひっきりなしです」
坂口が興奮気味にまくし立てる。
きっかけは、あの記事だった。
末尾に添えられた、たった一文。
――日本をより良くするため、私は一切の金銭を受け取らず、常に情報を開示し続ける。
(乞食どもめ)
そう言いかけた、その瞬間。
「そうです」
奈良トオルが、静かに遮る。
「先生の崇高な考えは、広く行き渡るべきです。金銭の授与など、不要なんです。……そうですよね?先生」
「……ん? ああ」
田中はペットボトルを一気に飲み干す。
喉を通る冷たさが、妙に心地いい。
最近、父も、弟も、母も――何も言わなくなった。
それでいい。
まずは奈良の言う通りに動く。
世襲議員としての“情けなさ”を演じ、
「世襲を自ら解体する世襲議員」という物語を演出する。
家族からの冷遇。
議会での孤立。
それすらも、材料に変える。
奈良の言う通りにしていれば、うまくいく。
なぜか、そう確信していた。
あの言葉が、耳から離れない。
「混乱は、真実と嘘の区別を曖昧にします。その隙間に――新しい“あなたの正義”が入る」
――そうだ。
自分の正義で。
渡部も、山形で田中家を否定したあの女も、黙らせる。
自分は正しい。
間違っているのは世界だ。
だって、みんな困っている。
なら、俺が救う。
そう思いながら、差し出された新しいボトルに手を伸ばす。
「田中“先生”のおかげで、Luthcoのユーザー数も右肩上がりです」
神田が続ける。
「広告も、従来のバナーではなくクーポン式に切り替えたのが効いています」
「……ああ、そうだろうな」
田中は短く答える。
奈良が、自然な流れで口を挟む。
「先生はいつも、私に的確な助言をくださるんです。おかげで私も、随分と助かっています。……ね?先生」
「……ああ」
一拍。
坂口と神田が、ふと顔を見合わせる。
――今の、何だ?
一瞬だけ、引っかかる。
だが。
その違和感は、すぐに霧散する。
そう。
気のせいだ。
きっと、気のせい。
応接室の空気は、何も変わっていない。
ただ、
奈良トオルだけが、
最初からそこに“いたかのように”、
自然にそこに座っているだけだった。
---
木更津。
首都圏防衛機構《鎮守》ドック内。
ロッカールーム。
予備パイロットの一人、高階は、苛立ちを押し殺していた。
クサナギは二機のみ。
実戦機と試験機。
自分は三番手。
ロッカーの扉に手をつき、わずかに力がこもる。
実力は、メインパイロット・橘に肉薄している。
――少なくとも、自分ではそう思っている。
だが。
シミュレーターでは、一度も勝てない。
もう一人の予備、小玉に対してすら、勝率は低い。
「……くそ」
低く吐き捨てる。
高階の家系は、国防機関に所属して、
代々、前線に立ってきた。
恥は、許されない。
橘が出張中、ただ一度だけ回ってきた出撃。
あの時は――完璧だった。
無駄のない機動。
的確な判断。
被害、ゼロ。
“やれる”。
そう確信した。
ならば。
シミュレーターの成績は、何だ。
あれは“現実じゃない”。
――実戦なら、自分の方が強いんじゃないか?
その考えが、頭の中で何度も反芻される。
ロッカーを閉める音が、やけに響いた。
そのまま、帰路へ。
夕暮れの駐車場。
愛車のドアを開け、運転席に滑り込む。
エンジンをかける。
静かな振動。
そのとき。
スマホが震えた。
通知。
何気なく視線を落とす。
よく見る、政治解説系の動画配信者。
配信タイトルが表示される。
――「現役国会議員が世襲制を切る。田中議員との生対談」
一瞬、指が止まる。
「……へぇ」
特に意味はない。
ただの暇つぶしだ。
寮に戻ったら、流しておくか。
そう思いながら、スマホを放る。
アクセルを踏む。
車は、ゆっくりと走り出す。




