196 2026年5月29日(金)_02 一葉、目覚める
木々に囲まれた、寺の奥。
人の気配は薄く、
ただ風と、葉の擦れる音だけが満ちている。
その静寂の中に、
ひとりの老いた尼僧がいた。
しわの刻まれた手で、
一本の松の葉を、
まるで宝物のようにそっと摘み上げている。
指先は震えているのに、
その仕草だけは、不思議なほど穏やかだった。
少し離れた場所から、
片桐一葉は、その姿を見ていた。
なぜここにいるのか。
なぜこの光景を見ているのか。
分からない。
ただ、目を離せなかった。
やがて、尼僧が静かに口を開く。
「この世で結ばれる縁というものは……」
風に溶けるような、かすれた声。
「どれほど強く願ったところで、
決して結ばれることのない糸のようなもの」
一葉は、思わず眉をひそめる。
尼僧は続ける。
「……あの方は、私とは身分の違う……随身でした」
ほんのわずか、視線が遠くなる。
「私の名も呼んでくれぬお方」
「それでも――」
指先の松の葉を、そっと撫でる。
「風のように、そばにいてくれた」
一拍。
「ある日、突然」
「何も告げず、私の前から消えました」
静寂。
「理由も、行き先も、知らされぬまま」
かすかに、息が揺れる。
「探すことも許されず」
「ただ、“忘れなさい”と」
その言葉だけが、長い年月を経ても消えない。
「それならばと……この髪を切り落とし、
仏道に身を捧げて、六十余年」
指先の松の葉を、
そっと撫でる。
「たとえ、それが百年後であろうと」
「あるいは、千年の時が流れた先であろうと……」
ほんのわずかに、微笑む。
「構いません」
「来世で巡り会うときには」
「あなたのすぐそばで風に吹かれている、
一本の松の葉であっても……」
風が、ふわりと揺れる。
「私は、幸せなのです」
「この世で結ばれる縁というものは……」
少しだけ、目を細める。
「結べなかったのではありません」
一拍。
「……結ばなかったのです」
――その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に、何かが刺さる。
静かで、
きれいで、
どうしようもなく――
――弱い。
気づけば、一葉は声を上げていた。
「そんなの、違う!」
自分でも驚くほど強い声だった。
尼僧の視線が、わずかにこちらへ向く。
一葉は、一歩踏み出す。
「そんなに好きなら!」
言葉が止まらない。
「百年後だって、千年後だって!」
拳を握る。
「見つけたら、胸ぐら掴んで言わなきゃダメでしょ!」
呼吸が荒くなる。
「葉っぱなんかじゃダメ!」
まっすぐ、見据える。
「ちゃんと、“好きだ”って言わなきゃ!」
一拍。
「だって――そんなに待ったんでしょ?」
声が、少しだけ震える。
「だったら、地の果てまででも探して」
「絶対、伝えなきゃダメでしょ……!」
その瞬間。
ふわり、と風が舞った。
尼僧の頭を覆う桂包が、
静かに揺れる。
松の葉が、さらさらと音を立てる。
一葉は、確かに感じた。
――目が、合った。
ほんの一瞬。
時が止まったような感覚。
尼僧の口が、わずかに動く。
「……ありがとう」
そう言った気がした。
だが。
次の瞬間。
風が強く吹き抜け、
その声はすべて、かき消された。
---
「――ふんがッ!!!!!! うぼぁ!」
白い天井。
強い光。
マジで見覚えのない天井。
鼻の奥に刺さるような、医療機関独特の匂い。
片桐一葉は目覚めた。
「……ふが?」
自分の声が、ひどく遠い。
かすれて、まともに音にならない。
「……ひょ……ほ、なろ……?」
舌が、思うように動かない。
体が――重い。
いや。
重いというより、動かない。
「あひぇ?」
違和感。
口と、鼻。
何かが“入っている”。
異物感。
息をしようとした瞬間、すごくムズムズする。
次の瞬間。
「ゥェッ……! ゥッヴエクジッ!!」
眼、鼻、口から、
溜まっていた何かが一気に噴き出す。
涙。
鼻水。
涎。
多分、26歳の乙女的に確実にアウトなモノ。
制御が出来なかった。
「ゥヴェェーィ」
視界が滲む。
呼吸が乱れる。
――そのすぐ横。
人影。
「一葉……!」
聞き慣れた声。
母、綾だった。
「おひゃあひゃん……!」
まともに言えない。
音が崩れる。
綾は、そんなこと気にする様子もなく、
顔をぐっと近づける。
「一葉……! おはよう!」
声が、震えていた。
「起きてくれて、よかった……!」
そのまま、慌ててティッシュを手に取る。
「今、先生呼ぶからね!」
手際よく、口元を拭う。
「ほら、鼻水と涎……大変なことになってるから」
優しく、でも慣れた動き。
「あひゃ……ひゃほう……」
何を言っているのか、自分でも分からない。
けれど。
それでも。
確かに、そこに“現実”があった。
白い天井。
消毒液の匂い。
母の手の温もり。
――そして。
自分が、無事生きているという感覚だけが、
遅れて、ゆっくりと戻ってきていた。
---
白いカーテンが、わずかに揺れる。
機械音。
規則的な電子音が、
静かに“生きている”ことを刻んでいる。
その中に――
明らかに日本語ではない声が、飛び込んできた。
「——Very good, can you hear me? Follow my voice… yes, good…」
早い。
やたら早い。
しかも。
発音が、やたら綺麗だ。
「ヴァビィ? オピョウホボ?」
一葉の口から出たのは、
もはや言語ですらなかった。
だが。
医師は一瞬だけ驚いたあと、
すぐに表情を戻す。
「…Oh my God.」
その一言とリアクションだけは、
なぜか理解できた。
(……今の、わかった)
内心で、ほんの少しだけドヤる。
すぐに、看護師がタブレットを差し出した。
画面が立ち上がり、
機械的な声が日本語に変換する。
「ヒトハ・カタギリさん、初めまして」
「君の主治医、スタンフォード・ウェストです。よろしく」
「……ヒョホビプ」
まともに返せない。
舌が、動かない。
ウェスト医師は穏やかに首を振った。
「無理して話さなくていい」
「今はまだ、発声機能が完全に戻っていない」
一葉が何か言おうとする。
「ヴぁい、バファリバピヴァ」
即座に被せる。
「繰り返す。話さなくていい」
わずかに間。
「君は——」
医師の声が、少しだけ低くなる。
「自機でマッハ50の突撃を行い、敵へ直接打撃」
一拍。
ほんのわずかに、視線が一葉の顔を確認する。
「……その後、邪神ナイアルラトホテップの攻撃により、全身を貫通する損傷を受けた」
空気が、静かに重くなる。
医師は一度だけ、息を吐いた。
「正直に言う」
「生きているのが不思議な状態だった」
ほんの一瞬だけ、言葉を選ぶように間が入る。
「……何度も、バイタルが止まるかと思った」
すぐに、表情を戻す。
「――だが」
わずかに間を置く。
「今回の生存は、単一の要因で説明できるものではない」
視線を一葉へ向けたまま、淡々と続ける。
「君の機体AI、“ハコ子”による即時判断」
「“会議室”メカニックの極めて正確な初動対応」
「現場医療チームの止血・封鎖処置」
一拍。
「そして――我々のチーム全体による、連続的かつ統合的な医療介入」
わずかに顎を引く。
「それらすべてが、綻びなく噛み合った結果だ」
静かに言い切る。
「だからこそ」
「君は、今ここにいる」
一拍。
ほんのわずかに、口元が緩む。
「私のキャリアでも初めてだ」
「“神殺し”と呼ばれる人間を治療するのは」
「……正直に言えば」
わずかに肩をすくめる。
「医師としての興味もあったが」
一葉を見る。
「それ以上に」
「君が、ここまで戻ってきたことに驚いている」
その言葉に、横にいた綾が深く頭を下げる。
「先生、本当にありがとうございます……」
ウェスト医師は軽く手を上げて制する。
「まず安心してほしい」
医師は、綾の方へ一瞬だけ視線を向ける。
「邪神の刃による損傷は、すべて修復済みだ」
「外傷、内臓、霊的侵食、いずれも処置済み」
一拍。
「……お母様」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「ここまで回復したのは、かなり奇跡に近い」
「よく、持ちこたえました」
そして、続ける。
「だが問題は別にあった」
「頭蓋から足先まで」
「全身に、微細骨折が無数に発生していた」
「これは通常の治療では、数ヶ月から年単位の回復が必要なレベルだ」
一葉の瞳が、わずかに揺れる。
「そこで」
医師は淡々と言う。
「君の両親の同意を得て」
「臨床試験段階の治療を適用した」
一拍。
「局所時間加速治療」
タブレットの画面に、簡易図が表示される。
「簡単に言えば」
「治療された未来の状態を、一度“先に確定”させる」
「その後、時間を巻き戻し」
「再び時間を加速しながら、その状態を現実に固定する」
「これを、治癒系の奇跡術と併用した」
静かに続ける。
「理論上は、約10倍の回復速度を想定していたが——」
少しだけ、眉を上げる。
「君の場合、約20倍の効果が確認された」
「副作用として」
「前世、または来世との接続が発生する可能性がある」
一葉が勢いよく反応する。
「オホファヴァンベンヴァヴァイ!!ヴァンベンヴァヴァイ!!」
一瞬。
医師の眉が、わずかに上がる。
「……元気で結構」
すぐに戻す。
「繰り返す。話さなくていい、お母さま、鼻水、拭いてあげてください」
「ヴぁい……」
小さくしぼむ。
医師は淡々と続けた。
「ただし、現在のところ危険性は確認されていない」
一拍。
「むしろ、非常に安定している」
綾が息を呑む。
医師は次の段階を示す。
「今後の治療方針だが」
「今週中に」
「筋肉、靭帯の再生処置を一気に進める」
「同時に、神経回復の促進」
「そして——」
わずかに間を置く。
「精神感応金属との共鳴治療に移行する」
その一言で、
室内の空気がわずかに張りつめる。
一葉は動かない体のまま、
ほんの少しだけ目を見開いた。
意味は分からない。
それでも――
“何か大事な段階に入った”ことだけは、
直感で理解できた。
綾は、もう一度、深く頭を下げる。
「先生……本当に、ありがとうございます」
そして、すぐに一葉の方へ顔を向ける。
「一葉……よかったね」
声が震える。
「本当によかった……」
「ヴェーイ」
やっと出た声は、
ひどく間の抜けた音だった。
息が、うまく吸えない。
体も、思うように動かない。
でも。
(……ああ)
ぼんやりと、
ひとつだけ分かる。
――生きてる。
なら、まずは戻す。
一葉の目に、ようやく力が宿った。




