188 2026年5月27日(水)_01 お父さんとお母さん
マサチューセッツ州、アーカム。
夜明け前の街は、まだ薄い霧に包まれていた。
早川はホテルのベッドから静かに体を起こした。
ほんの二時間ほどの仮眠だったが、それでも頭の中の霧は少しだけ晴れていた。
昨日まで、張り詰めていた神経が、ようやく緩んだのだ。
――手術は成功した。
その事実だけで、胸の奥が少し軽くなり熟睡してしまった。
上着を羽織り、外へ出る。
冷たい空気が肺に入る。
そして、彼はレンタカーを走らせた。
向かう先は、
聖メアリー・ティーチング大学病院。
アーカムでも最大級の医療施設であり、
そして――
“会議室”と連携する数少ない特殊医療拠点の一つだった。
病院へ到着すると、
すでに会議室が始まっていた。
ガラス張りの小会議室。
その中で、医師たちと向かい合って座っていたのは
元妻……片桐綾だった。
早川が扉を開ける。
綾が顔を上げた。
「真さん……」
「少し寝てきました」
早川は軽く頷き、席につく。
医師が資料をめくる。
「では、改めて」
「片桐一葉さんの入院診療計画を説明します」
机の中央にタブレットが置かれる。
そこに表示されたタイトル。
片桐一葉 入院診療計画
医師が淡々と説明を始めた。
---
医師はカルテを閉じ、ゆっくりと顔を上げた。
「まず、命は助かっています」
静かな声だった。
「正直に言えば、奇跡です」
資料を一枚めくる。
「搬送直後はICU管理でした。最初の五日間は、完全に救命フェーズです」
指先で項目を示す。
「全身に多発刺創。邪神の刃によるものですね。普通の外傷とは違う。内部組織まで位相的に“裂かれて”いました」
小さく息を吐く。
「外科手術で刺創をすべて処置しました。出血のコントロール、神経保護処置。それと――」
少し言葉を選ぶ。
「呪詛汚染がありました」
「通常の病院では対処不能です。なので“会議室医療部”と連携しています」
医師は淡々と続けた。
「精神感応金属の干渉を除去。体内に残っていた呪詛の残滓も除霊処置を行いました。さらに魔術抗体の点滴を併用しています」
軽く頷く。
「その結果、生命状態は安定しました」
ページをめくる。
「次が第二段階です。骨格修復」
「ICUから病棟に移動します」
カルテの画像を指す。
「マッハ級の高速移動による衝撃で、全身に微細骨折がありました。普通なら、全治半年以上の状態です」
少し肩をすくめる。
「ただし今回は特別な医療を使います」
「局所時間加速治療」
「患部周辺だけ時間を加速させることで、再生速度を約十倍にします」
淡々と言う。
「同時に筋肉と靭帯の再生処置。神経回復の促進。精神感応金属との共鳴治療も併用します」
「自己治癒能力をブーストする処置ですね」
少し間を置く。
「ただ、この段階ではまだ歩けません」
次のページ。
「三週目から四週目」
「神経回復フェーズです」
医師はモニターを指した。
「脳神経のリハビリ。感覚の再訓練。反射神経の再同期」
少しだけ苦笑する。
「防衛機のパイロットは、繊細な操作を要求されますから」
さらに続ける。
「位相ズレ補正。怪異エネルギー残滓の除去。精神耐性の再調整」
「この頃には歩行は可能になります」
「軽い訓練も開始します」
最後のページ。
「五週目から六週目」
医師は指で机を軽く叩いた。
「操縦復帰訓練です」
「低Gシミュレータ。神経接続トレーニング」
「精神感応金属リンクの再接続」
少し笑う。
「要するに、防衛機に乗る準備ですね」
カルテを閉じる。
「最後に、操縦適合テストと呪詛耐性のチェック」
「問題がなければ――」
一呼吸。
「完全回復です」
静かに言った。
「退院は約一ヶ月半後」
そして医師は少し肩をすくめる。
「医学的判断としては――」
「戦闘復帰可能」
小さく付け加える。
「もっとも」
苦笑する。
「普通の人間なら、全治一年以上の怪我ですがね」
---
早川が小さく息を吐いた。
「……よかった」
綾は静かに頷く。
「ええ」
少し視線を落とす。
「最初はね、山形ロボの“予備操縦者”って名目で……ただの経理作業だったから……」
「本当に、ただの体裁の人事だった」
苦笑する。
「でも……結局あの子、自分で選んだのよ」
早川は黙って聞いている。
綾はゆっくり続けた。
「親としては、まだ反対よ。送り出すなんて」
「真さんや児島先輩の気持ちも分かる」
肩をすくめる。
「私だって元防衛課、観測班よ?」
「同期率が浮雲さん以上を出すパイロットが、どれだけ希少かなんて……百も承知してる」
早川は真っ直ぐに言った。
「俺も、全力でサポートする」
綾がふっと笑う。
「父親だもの。それくらい当然でしょ?」
だがすぐに表情が曇る。
「ただ……」
「二十七年前とは、明らかに連中の動きが違う」
早川が眉をひそめる。
「何かあるのか?」
綾は少しだけ間を置いた。
「……陽葵」
「どうやら、隠してはいるけど、
怪異事件に巻き込まれてるの」
早川が身を乗り出す。
「それは本当か!?」
「ええ」
綾は頷いた。
「山倉さんと児島先輩にお願いして、調査してもらってたの」
「山倉さんには今、報告に待ったをかけてるけど……」
静かに言う。
「陽葵も、狙われてるわ」
早川の顔が強張る。
「まさか……」
「奈良の」
「ナイアルラトホテップの仕業か?」
綾は迷いなく答えた。
「おそらく、間違いないわ。
恐らく一葉への嫌がらせね」
そして少し声を落とす。
「だから真さん、聞いて」
「陽葵は――」
「不完全に巻き込むわ」
早川が首を傾げる。
「……どういうことだ?」
綾が静かに言った。
「異世界――」
「この世界とは異なる世界が、五つ存在するっていう学説、聞いたことない?」
早川はすぐ頷く。
「ああ。次元炉の挙動を説明するには、その仮説が一番筋が通る」
綾は続ける。
「あの子の隣に――」
「その異世界人がいるのよ」
早川が思わず声を上げる。
「危険はないのか!?」
「今のところは友好的」
綾は正直に言った。
「ただし……」
「どこまで信用できるかは未知数」
早川はしばらく黙る。
「……そうか」
綾は机の上で指を組む。
「だから」
「陽葵が不安にならないように、言える範囲の情報は出す」
「そのうえで」
「山倉さんに警護をお願いする」
「チームを一つ、専任でつけてもらうわ」
「児島先輩と渡部議員にも、もう話を通すつもり」
早川が頷く。
「それで?」
綾はまっすぐ言った。
「一葉が山形ロボに乗る条件」
「私も防衛課に戻る。
今は資料管理室だったかしら。そこに正式に合流する」
軽く肩を叩く。
「異界や位相は、もともと私の専門分野。
これから確実に重要になる」
早川は少し考えてから言う。
「つまり」
「山形ロボと、一葉がパイロットだってことは――」
「陽葵には伏せるんだな?」
綾は頷いた。
「そう、理由は二つ」
指を二本立てる。
「一つ」
「異世界人をまだ完全に信用できないこと」
「そしてもう一つ」
綾の目が少し鋭くなる。
「奈良さん」
「ナイアルラトホテップの裏をかきたいの」
早川が苦笑する。
「……ああ」
「奈良は昔から、イレギュラーを嫌うよな」
「自分が全部把握してないと気が済まないタイプだ」
綾も、小さく笑った。
「そう、そこに付け込む」
そして、静かに続ける。
「親としては、最低かもしれないけど」
その目が、すっと冷える。
「うちの娘たちを傷つけた落とし前は――」
「邪神だろうが、何だろうが」
「必ず取らせる」
少し間を置く。
そして、短く言った。
「そのための――」
「奇策よ」
綾は真っ直ぐに早川を見た。
「私たちは、あの子たちを守る」
「そして同時に」
「あの子たちの刃が、必ず届くように」
「私たちが、道を開くの」
---
早川がふと思い出したように言う。
「そういえば……浮雲は?」
綾が答える。
「浮雲さん?」
軽く頷く。
「鎌田さんと山形ロボと一緒に、会議室の飛行船に戻ったわ」
「今日の昼、日本に出発するって」
早川は小さく息を吐いた。
「……そうか」
少し間を置く。
そして、静かに言った。
「綾、すまない」
綾が顔を上げる。
早川は苦く笑った。
「俺は多分……ダメな父親だ」
「一葉のそばにいても、きっと何もできない」
視線を落とす。
「だったらせめて――」
「一葉の盾を、完璧に仕上げておきたい」
綾はしばらく何も言わなかった。
そして、小さく頷く。
「……わかった」
柔らかく微笑む。
「お願いね」
一拍。
「“お父さん”」




