186 【断章】2027年5月8日(土) 明日に繋げ
2027年5月8日。
地球。
南緯47度9分。
西経126度43分。
太平洋の中央。
そこに――
特殊重力場が発生した。
最初は観測機器の誤作動と思われた。
だが、違った。
重力が、歪んだ。
それは局所現象ではない。
地球という惑星そのものが、
わずかに、しかし確実に――
引き裂かれ始めていた。
その中心にいたのは、一人の男。
戦鬼を超えた神殺しの悪鬼。
浮雲平輔。
二百二十七万七千六百年。
人類の時間では、
もはや想像することさえできない歳月。
彼は、戦い続けた。
怪異と。
世界を壊すものと。
人類の世界を守るため。
守るべきものが、あった。
希望が、あった。
彼はそれを見つけた。
小さく、
弱く、
だが確かに輝く希望。
――一つの葉。
彼はそれを、
希望と名付けた。
守る理由を、
ようやく見つけた。
二百万年を超える戦いの果てに、
初めて。
だが。
その希望は。
――救えなかった。
救えなかったのだ。
その事実だけが、
彼の中に残った。
そして。
ついに彼は――
地球に潜んでいた
六柱の邪神を滅ぼした。
神を殺す者。
その名に、
ふさわしい最後だった。
だが。
それは勝利ではなかった。
それは。
救済でもなかった。
それはただ、
二百万年の戦いの果てに
人が辿り着く
絶望の完成だった。
その結果として、
彼は悪鬼に至った。
かつて人類を守護した巨人。
グレート山形ロボ。
120メートル級。
寸胴な巨体。
だが、その身体には似つかわしくない――
身の丈ほどの豪腕。
人類を守るために造られた、
守護神、だったもの。
その装甲は。
神の血で、
赤黒く染まっていた。
神の血は乾かない。
神の血は腐らない。
それはただ、
装甲の上で鈍く光り続ける。
そして。
頭部。
山形ロボ。
精神感応金属で構成された箱。
そこに、
人類史上、誰も観測したことのない量のマイナス思念。
負の感情が流れ込んでいた。
絶望。
憎悪。
怒り。
後悔。
祈り。
そして。
諦め。
精神感応金属は、そのすべてを受け取った。
受け止めたのだ。
結果。
希望に輝く鈍色は、
光を失い、
黒く、
深く、
底のない闇のように輝いていた。
それはもう、
山形ロボではない。
人類を守る巨人ではない。
それは、
啜り泣くプリズム。
絶望を増幅し、
世界へと反射する装置。
そして。
浮雲の怨嗟は、
物理法則すら歪めた。
オロイド状の力場。
閉じないトーラス。
終わらない循環。
止まることのない狂気の力場。
それが、
太陽系外縁天体を引き寄せた。
準惑星エリス。
いや。
それは人類の天文学的呼称にすぎない。
その本来の名。
凶星ユゴス。
外宇宙に属する天体。
あるいは。
邪神の座標。
それが、
地球圏へと呼び出された。
位置。
月軌道。
距離。
計算されたかのように正確な
黄金比。
地球と
ユゴス。
そのサイズ差、
18%。
美しい。
あまりにも美しい。
宇宙が設計されたかのような数値。
だが。
それは調和ではない、
破滅の構造だった。
月とユゴス。
二つの巨大質量が
潮汐力を共鳴させる。
海が持ち上がる。
太平洋が、
壁になる。
高さ。
百メートル。
二百メートル。
やがて。
三百メートル。
海は、
山になる。
それが大陸を襲う。
同時に、
地球の地殻が悲鳴を上げた。
プレートが揺れる。
マグニチュード9。
いや、
それ以上。
観測不能。
地盤が波打つ。
都市が沈む。
大地が裂ける。
だが。
災厄はそれだけでは終わらない。
地球の自転。
それが。
強引に加速された。
一日24時間。
それが、
23時間になる。
22時間になる。
時間の基準が崩れる。
衛星時計が狂う。
GPSは消える。
ドローン兵器は空を迷う。
誘導兵器は盲目になる。
人類が築いた精密機械文明は、
一瞬で玩具になった。
さらに。
地球磁場が乱れる。
巨大な誘導電流が発生する。
発電所。
変電施設。
送電網。
すべてが。
過負荷。
爆発。
爆発。
爆発。
都市が燃える。
夜が赤く染まる。
だが。
それは文明の灯ではない。
文明の、
断末魔。
そして。
電気が消えた。
完全に。
世界から。
さらに、
時間。
それすら壊れた。
原子時計が同期を失う。
金融システムが停止する。
通信が途絶える。
経済活動が消滅する。
人類文明は、
数時間で崩壊した。
だが。
空は静かだった。
海も、
やがて波を落ち着ける。
嵐の後のように。
ただ。
静かだった。
巨大な邪神。
クトゥルフの王冠として戴かれた、
黒く輝く巨人、グレート山形ロボ。
そして。
その肩に立つ影。
黒い翼。
異形の右腕。
燃える三つの眼。
かつて、
ナイアルラトホテップの力を
正義のために振るっていた男。
浮雲平輔。
――希望を救えなかった男。
その隣には、
眼鏡をかけた褐色の女性。
片桐一葉。
救われなかった希望。
――否。
それは、
その姿を模した存在。
丁寧に、
デスマスクから作られた仮面。
その奥にいるもの。
ナイアルラトホテップ。
邪神は微笑んでいた。
浮雲は笑っていない。
ただ。
静かに。
地球を見下ろしていた。
守ろうとした世界。
もう、どうでもよかった。
邪神の存在は示された。
そして、
地球を守っていた最後の防壁。
位相遮断領域。
それは、
完全に砕けた。
もう、存在しない。
文明は破壊された。
電気は消えた。
秩序は消えた。
人類は、
再び、
夜の時代へ戻る。
空の向こうには、
星。
そして。
その星の向こうには、
彼らがいる。
もう。
誰も、
人類を守らない。
だから。
この日。
2027年5月8日。
人類は、
静かに。
気づかないまま。
宇宙に対して無防備になった。
それはもはや災害ではなかった。
惑星そのものの破綻だった。
地獄の窯が蓋を開けたのだ。
---
「伯爵は……守り切れなかった……
浮雲に斬られた……」
特級序列第八位《神拳》
フィスト・オブ・ゴッド。
彼は後悔を押し殺しながら、
運び込まれてくる負傷者を医療班と共に治療していた。
場所は――
岩手県北上山地地下、
国際リニアコライダー。
かつて人類が宇宙の謎を解くために造った
全長二十キロメートルを超える巨大施設。
だが今、この場所は。
人類の最終防衛ラインとなっていた。
東北六機。
そのすべてが
“最後の補給”を終えていた。
整備員が機体を叩く。
技術者が最後のチェックをする。
誰もが分かっていた。
これは補給ではない。
最後の出撃準備だ。
六機は発進する。
世界中を襲う怪異の群れ、
それはもはや災害ではない。
侵略だった。
人類を蹂躙するための。
残存する“会議室”の特級エージェント達は、
それぞれ専用機へと乗り込み、世界各地へ散っていった。
ヨーロッパ。
北米。
アフリカ。
中東。
南極。
怪異の群れは、すでに大陸という概念を失わせつつあった。
都市は崩れ、
国家は沈黙し、
空は人類のものではなくなっていた。
それでも彼らは出撃する。
勝つためではない。
一秒でも長く、人類の時間を稼ぐために。
そして――
かつて二百万年の地獄で、
浮雲と轡を並べて戦った戦鬼たち。
ザ・ナイン。
人類を守護していた八人の戦鬼。
だが、人の枠を超えた彼らに
祖国は門を閉ざしていた。
「入国拒否」
たった一行の通知で、
国境は彼らを拒んだ。
理由は明白だった。
彼らは――
二十七年前と同じ姿のままだった。
老いない。
変わらない。
時間から切り離された存在。
そして彼らの力は、
もはや人の武ではない。
術でも、兵器でもない。
怪異と同じ領域の力。
―虚空召喚
彼らは願うだけで、
虚空から巨人を呼び出す。
全高七十メートル。
国家が誇る防衛機。
国家予算、巨大ドック、
数年の整備を要する兵器を、
彼らは
何もない空間から出現させる。
だから人は、彼らを恐れた。
それでも――
彼らは引き返さない。
捨て駒でも構わない。
利用されるだけでも構わない。
ただ静かに、
それぞれの祖国へ散っていく。
守るために。
人類という種を。
二百万年の地獄を生き延びた
戦鬼たちの、
最後の戦場だった。
一秒でも。
一秒でも長く。
人類が生き延びるための時間を。
そのために。
彼らは死にに行った。
――そして。
超弩級双胴飛行船“会議室本部”。
そこでは、
特級序列零位《虚》
マスター・オブ・ケノーマ。
彼と志願者たちが、
遠距離から攻撃を加えていた。
対象。
グレート山形ロボ。
そして、ナイアルラトホテップ。
かつて人類を守った守護機。
今は、
世界を終わらせる巨人。
そして。
“会議室”が誇る
120メートル級防衛機。
オーディン。
そのコックピットには、
特級序列第一位《魔王》
ナンバーシックス。
彼が搭乗していた。
巨大な剣が振るわれる。
衝撃波が空を裂く。
だが。
相手は、
神を殺した男が操る巨人。
勝てるはずがない。
それでも。
ナンバーシックスは
グレート山形ロボへ斬りかかる。
ただ。
一秒でも足止めするために。
それでも。
世界は。
ゆっくりと。
だが確実に。
終わっていった。
---
地下施設。
専用装置の中を覗き込みながら、
鎌田が言う。
「早川が命を懸けて君を連れてきてくれた」
彼は振り返る。
「だから俺たちも、この施設の
人工ブラックホール発生装置を使って――」
ドン。
突き上げるような振動。
巨大地震。
計測することすら馬鹿らしくなる規模。
施設全体が揺れる。
照明が落ちる。
モニターが倒れる。
鎌田の声が、
瓦礫の音にかき消される。
「■■■■■■。すまない、時間がない」
「世界中の精神感応金属をかき集めて」
「君の■■■■■■を■■■■■■」
「■■■■■■」
「世界を頼む!」
余震で装置が揺れる。
言葉の多くが
ノイズに消える。
武田がキーボードを叩く。
汗だくの顔で振り返る。
「鎌田さん!」
「こちらの準備、完了です」
その瞬間。
通信機から怒鳴り声が響いた。
ナンバーシックスだった。
「クソッ!」
「あの陰険、道化との術の打ち合いで負けおった!」
「“会議室本部”もそうそう持たん!」
爆音。
遠くで機体が爆発する音。
ナンバーシックスが叫ぶ。
「儂も全弾打ち尽くした!」
「最後の悪あがきで時間は稼ぐが――」
「期待はするな!!」
通信が乱れる。
ノイズ。
それでも。
地下ドックにいる者たちは
誰も言葉を発しなかった。
生き残った人類の精鋭たちが、
ただ、
装置を見つめていた。
巨大な加速装置。
その中央にある。
最後の装置。
この世界に残された
最後の希望の種子。
誰かが呟く。
「■■■■■■を頼む」
その瞬間。
施設が、きしんだ。
天井。
花崗岩の岩盤。
そこに。
亀裂。
土砂が流れ込む。
天井が崩れる。
施設が崩壊を始める。
だが。
その中で。
国際リニアコライダーの中枢が唸りを上げる。
全長二十キロメートル。
超伝導加速器。
粒子加速器として造られたその装置は、
今。
最後の希望のために起動する。
人類が残した、明日への願いとして。




