185 2026年5月26日(火)_05 普通という憧れ
「この件は内緒にしておいてください! 特にカルの事は! 解剖されちゃう!」
陽葵が、子猫に戻ったカルを抱えながら頭を下げた。
アスファルトは抉れ、
通りの看板は真っ白。
プラスチックは劣化し、粉を吹いている。
戦闘の痕跡は、
どう見ても普通ではない。
それでも――
今回は、自転車だけは無事だった。
>山倉さん。お気持ちは分かりますが、二人の話も聞いてあげてください。
ハコ子の声が続く。
>今回、彼らは明確に人類側です。
山部が腕を組む。
「私は……うーん……」
困ったように頭をかく。
「ぶっちゃけ、未成年が危険に遭うのはかなり嫌なので……」
少し考える。
「保護? 護衛?
山倉さんって、そういう仕事なんですよね?」
「怪物やっつける機関、みたいな?」
山倉は陽葵を見る。
「陽葵さん」
静かに言う。
「今回で二回目……なんだろ?」
「ああいう怪物に襲われるのは」
陽葵は頷いた。
「そうです」
「一回目は五人以上いたけどカルがやっつけてくれて」
カルが小さく「にゃ」と鳴く。
「今回は二人だけど……」
山倉は専用スマホを取り出した。
資料管理室から着信。
「……ああ。俺だ」
「警備班。地点送る」
「道路補修と痕跡処理を手配しろ」
「そうだ。いつもの手順でいい」
通話を切る。
小さく独りごちる。
「10分間だけの“ウルトラマン”か……」
ため息。
「解剖はされんが……」
少し考える。
「……邪神の件は国際規約で共有義務があるんだよな」
頭の中に浮かぶ顔。
綾。
姉妹の母親。
そして――
元同僚。
(……一葉は“選ばれた”)
(だが、陽葵は――)
(できれば、関わらせたくない)
それが綾の依頼だった。
山倉は陽葵を見る。
「陽葵さん、申し訳ないがな」
「俺にも報告義務がある」
周囲を見回す。
抉れた道路。
白くなった看板。
朽ちたプラスチック。
「この戦闘の有様……、このままにはできない」
陽葵は食い下がる。
「そこを何とか!」
一歩踏み出す。
「むしろ山倉さんの力を貸してほしいんです!」
「姉が――」
息を整える。
「もしかすると、異世界のトラブルに巻き込まれてるんです!」
山倉は心の中で呟く。
(……そう来たか)
少し沈黙。
「……直属には報告する……だが」
「“会議室”への共有は、うまくやる」
つまり
完全隠蔽はしない。
だがコントロールはする。
山倉は山部を見る。
「んで、山部先生……、お助け仮面だっけ?」
山部が手を振る。
「“ナイト=ウォーカー”です」
陽葵が首をかしげる。
「ヤマセン、さっきと名前変わってない?」
山部が一瞬、固まる。
「え?!」
慌てて両手を振る。
「いや? いやいや?」
自分でも少し不安になったのか、
ヘルメットの顎を指で触る。
「あれ?」
山倉が手を振った。
「もう何でもいい」
呆れたように笑う。
少し歩み寄る。
靴の先で、抉れたアスファルトの破片を軽く蹴った。
「非常勤講師って言ってたよな」
ちらりと見る。
「ってことは、副業オッケーなんだろ?」
山部が頷く。
「え? ええ」
少し照れたように言う。
「WEBコーダーとかしてます」
「サイト組んだり……HTMLとか……」
山倉が「ほう」と小さく唸る。
「なるほど」
腕を組む。
ゆっくり頷く。
「んで」
視線を上下に動かす。
「異世界拳法の使い手」
「お助け仮面」
山部が反射的に言う。
「ナイト……」
少し考える。
沈黙。
「……もう、お助け仮面でいいです」
陽葵が小さく吹き出す。
山倉がニヤリと笑う。
「先生」
声を少し低くする。
「アルバイト、しないか?」
山部が瞬きをする。
「アルバイト?」
山倉は、ゆっくりと指を一本立てた。
「なぁに」
肩をすくめる。
「先生が邪神二柱ぶん殴って警護対象を守った。
で、ウチが……」
「専任外部エージェント契約」
「陽葵さんの警護依頼を発注」
肩をすくめる。
「そんなシナリオさ」
そして一言。
「――公務員は、たまにこういう“帳尻合わせ”が必要なんだ」
「それと……」
山倉は、陽葵のリュックを指差した。
「その中身」
少し目を細める。
「“ハコ子”だよね?」
一瞬の沈黙。
>ぎくぅ!
スピーカー越しに、
分かりやすすぎる反応が返ってきた。
本当に分かりやすい。
陽葵が苦笑する。
「ハコ子、今の絶対バレるやつだよ……」
カルが胸を張る。
「いかにも、賢者ハコ子様です」
誇らしげである。
陽葵が首を傾げる。
「ハコ子がどうしたんですか?」
リュックを軽く叩く。
中には、ハコ子が入ってるのゲーミングノートPC。
「このAI、市販されてるの?」
少し考えてから続ける。
「有名なの?」
山倉は、数秒だけ黙った。
リュックを見て。
次に、カルを見る。
そして陽葵を見る。
……面倒くさい案件だな。
その瞬間。
山倉のスマホが、ぶるりと震えた。
ショートメール。
画面に短い文。
>私が「山形ロボ」の外部アウトプットAIであることと
>「片桐一葉」の関係者である件は秘匿でお願いします
山倉は、しばらく画面を見つめた。
……面倒くさい。
心の奥で、ぽつりと思う。
……孫に会いたい。
……孫を愛でたい。
……茉白ちゃん。
ほんの一瞬だけ、意識が緩む。
だがすぐに、理性で思考を縛り直す。
画面を指で叩く。
返信。
>了解。うまくする
スマホをポケットにしまう。
小さくため息をついた。
「……今日は、情報量が多すぎるな」
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児島裕子は、文翔館地下ドックの指令室で、一人、静かに机に向かっていた。
地下五十メートル。
昼も夜も関係のない場所だが、壁際の時計はきちんと時を刻んでいる。
LEDの白い光が、紙の束を平たく照らしていた。
机の上には、いくつもの報告書が積まれている。
彼女はその一枚一枚を、丁寧にめくっていた。
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最初の束は、先日の酒田港沖での戦闘の最終報告。
山形ロボの戦闘ログ。
位相固定フィールドの展開時間。
敵性存在の挙動。
被害評価。
観測された霊子反応。
どれも既に一度は目を通している内容だ。
それでも、児島はもう一度読み返す。
戦闘の記録は、時に後から意味を変える。
現場では見えなかったものが、書類の上では浮かび上がることもある。
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紙を置き、次の報告書へ手を伸ばす。
片桐一葉の容体。
山形ロボの現パイロット。
そして――綾の長女。
児島は報告書のそのページを、ゆっくりとめくった。
聖メアリー・ティーチング大学病院。
山形市内でも数少ない、霊子医療に対応できる医療機関だ。
そこに記された診断結果は、決して軽いものではなかった。
マッハ五十相当の高速移動による前進衝撃。
人体が本来想定していない加速度。
その負荷は、表面の外傷としては現れにくい。
だが骨は正直だった。
全身にわたる微細骨折。
特に肋骨と鎖骨、骨盤周辺。
異端の医術でないと後遺症が残るレベルの負傷。
山形ロボの内部MPCFである程度無効化していたとはいえ、
人間の身体が耐えられる領域ではない。
さらに。
報告書の次の段落。
ナイアルラトホテップの黒い刃による刺創。
数は、十ではきかない。
浅いもの。
深いもの。
刃の軌道が乱れている傷。
そして、その全てに共通しているのが――
呪詛残留反応。
肉体を傷つけるだけではない。
精神を蝕む、異質な力。
児島はそこに書かれた内容を、しばらく黙って見つめていた。
ページの隅には、担当医の所見が添えられている。
手術は成功。
出血は止まり、
呪詛の大部分も解呪処置が施された。
だが。
意識は、まだ戻っていない。
児島は、湯呑を手に取る。
冷めたコーヒーを一口。
ぬるい苦味が、口の中に広がった。
静かな指令室の空気の中で、
彼女はゆっくり息を吐く。
「……奈良……」
小さく呟く。
奈良透。
ナイアルラトホテップの受肉した姿。
あの神格が、本気で刃を振るった。
その相手をして――
なお、生きている。
児島は目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
湯呑を持つ手が、わずかに止まる。
「ナイアルラトホテップの本気相手に……生存できた……」
小さく息を吐く。
「……本当に良かった」
小さく呟き、
児島はページを静かに閉じた。
---
次の資料。
山形ロボの操縦システム改修計画。
旧式の補助AIを改良した現状のシステムを一新し、
新しい運用基盤としてハコ子ベースの統合支援システムへ移行。
操縦補助、戦術解析、霊子観測。
全てを一本化する。
設計図の横に、鎌田と早川のコメントが赤字で書かれている。
「もう旧システムでは限界」
児島は苦笑した。
「でしょうね」
さらにページをめくる。
浮雲平輔に関する報告。
太平洋沖での戦闘から彼を縛っていた不可視の呪術――
その解呪が、“会議室”の特級エージェントの手で行われた。
存在を強制的に希薄化させる術式。
霊体認証復旧。
戦闘能力、完全回復。
報告書の最後に、簡単な一文。
《戦力評価:S》
児島は、その文字をしばらく眺めた。
「……相変わらず規格外だったけど、
もうほとんど亜神の世界に片足突っ込んでるわね」
書類を脇へ置く。
その下にあったのは、組織運用の変更通知だった。
山形ロボのパイロット体制変更。
正式に二人体制へ移行。
山形ロボは正式に、
メインパイロット――片桐一葉。
予備パイロット――浮雲平輔。
理由は単純だ。
今の出撃頻度では、
一人では足りない。
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紙をめくる手が、そこで止まった。
一番下に挟まれていた、薄い封筒。
確実に抹消が可能な紙媒体。
片桐 綾から。
1999年の山形ロボ観測班のオペレーター。
児島の後輩。
児島はもう一度中の
次女――陽葵。
最近、怪異事件に巻き込まれている可能性がある。
調査してほしい。
それだけだった。
児島は机の横に置かれた別のファイルを開く。
山倉を含む警備班二班による調査報告。
綾からの依頼で念のために派遣したチーム
陽葵の周辺で確認された異常現象。
襲撃記録。
結界痕跡。
結論。
怪異事件関与――あり。
二度の襲撃。
児島はページをゆっくり閉じた。
「……やっぱり、あの子の勘は外れない」
小さく呟く。
だが問題は、そこではない。
問題は、その二度目の襲撃だった。
報告書をもう一度開く。
敵性存在。
ネームドクラス。
グラーキ。
シャウルス。
先日、資料管理室を強襲してきた邪神と同一個体。
それが――
撃退されている。
児島は、そこで眉をひそめた。
撃退者。
山倉ではない。
警備班でもない。
一般人。
しかも戦闘ログの補足には、奇妙な単語が書かれている。
《漂流物》
児島は椅子の背にもたれた。
漂流物。
この世界では、ごく稀に確認される存在。
物体のこともあれば、
力そのものの場合もある。
だが共通しているのは一つ。
この世界の法則に属していない。
位相解析は、必ず同じ結果を返す。
――遥か彼方……。
宇宙の果ての外。
ある学者は、この現象について奇妙な説を唱えていた。
世界は一つではない。
よく似た世界がいくつも存在し、
時折、その境界が破れる。
その時、向こう側の物や力が――
漂流する。
異端学説と呼ばれているが、
それでも一定の研究者が追っている。
それだけの説得力があるからだ。
児島は湯呑を手に取った。
すでに冷めきったコーヒーを、一口啜る。
苦い。
---
指令室の静寂を、
小さな振動音が破った。
机の端に置かれたスマートフォンが、
かすかに震えている。
児島は視線を落とす。
画面に表示された名前を見て、
指先がわずかに止まった。
片桐 綾
通話ではなく、メッセージだった。
児島は湯呑を机に置き、
画面を開く。
文章は短い。
だが、綾の性格を知る者には、それだけで十分に重かった。
「裕子先輩、今回は山倉さん派遣してくれてありがとう……」
児島の目がゆっくりと次の行を追う。
「陽葵の件、山倉さんから全部教えてもらえた」
そこで一度、文章が切れていた。
しばらくしてから書き直したような、
わずかな間のある文章。
「陽葵にはある程度……日本に戻ってから話そうと思う」
児島は、静かに息を吐く。
綾は昔からそうだった。
感情が揺れていても、
決定的な情報は絶対に書かない。
対怪異の世界にいた人間の癖。
続きの文章を読む。
「一葉は最初は、
二十七年間ピクリとも動かなかった重機の
“予備操縦者”って名目の
……ただの経理作業だったから。」
「だから私は許可出したんだけど……」
そこに、言葉を探した跡があった。
打ち直された、
少しだけ崩れた文。
「陽葵は……」
短い沈黙。
「ただの、高校生なのに……」
児島の指が止まる。
その次の行。
「先輩……」
「普通の幸せ、娘たちには送ってほしかったけど……」
少しだけ間が空く。
そして。
「普通って、無理なのかな?」
指令室は静かだった。
モニターの冷却ファンの音だけが、
かすかに響いている。
児島は、スマートフォンを握ったまま、
しばらく何も打てなかった。
胸の奥に、
何かが引っかかる。
「……綾」
小さく呟く。
何を書けばいいのか、
分からない。
児島自身も――
結局。
息子と、夫は出て行った。
この世界に関わりすぎた。
誰かの「普通」を守る仕事をしてきたはずなのに、
自分の家族の普通は、守れなかった。
画面には、
まだ入力欄が空白のまま残っている。
カーソルだけが、
静かに点滅していた。




