178 【戦国編】1593年8月30日 (天正21年8月4日) 集いし運命
千々石ミゲルは、ゆっくりと周囲との距離を取り始めていた。
露骨な反抗ではない。
小さな不和。
ささやかな行き違い。
体調不良を理由にした予定変更。
そうした些細な綻びを積み重ね、
彼は一つの時間を作っていた。
マカオ留学も、体調を理由に延期した。
表向きは、信仰に迷いを持った青年。
宣教師たちにとっては、扱いに困る存在。
——それでよかった。
すべては、このためだ。
ローマで出会った男。
カスピエル伯爵。
彼から託された、一通の手紙。
その宛名は、日本の一人の僧に向けられていた。
南光坊天海。
ミゲルは、その手紙を懐に収めたまま
武蔵国の寺院へと向かっていた。
無量寿寺。
深い森と湿地に囲まれた、静かな寺である。
山門は大きくはない。
だが、木組みは重く、質実剛健な造りだった。
門の上には古びた扁額。
「星野山」
その文字を見た瞬間、
ミゲルは思わず足を止めた。
——星。
胸の奥で、何かがざわめく。
その時。
門の奥から、小僧が一人現れた。
まだ十歳ほどだろうか。
袈裟の裾を揺らしながら、こちらへ歩いてくる。
小僧はミゲルの顔を見ると、柔らかく頭を下げた。
「千々石紀員様でございますか?」
ミゲルは一瞬、言葉に詰まる。
「……はい。
いや、いえ——千々石ミゲルです」
小僧は、くすりと笑った。
「大丈夫ですよ」
にこりとする。
「うちのお寺、こう見えて
そういうところ、あんまり堅くないんで」
「……はぁ」
ミゲルは、曖昧に頷くしかなかった。
門をくぐる。
境内は広くないが、よく整えられている。
苔むした石。
低い杉林。
湿った風。
静かな場所だ。
だが、その静けさの奥に、
何か得体の知れない気配が漂っている。
小僧は先に立ち、境内を案内していく。
本堂。
庫裏。
鐘楼。
そして書院の前を通り過ぎ、
さらに奥へと進む。
離れのような建物だった。
その時。
中から、怒鳴り声が聞こえた。
「上様!
いい加減、私の眷属になったのですから
少しは私の言うことを聞いてください!」
声は、苛立ちを抑えている。
「甘味や味の濃いものは控えてほしいと、
あれほどお願いしたではありませんか!」
すぐに別の声が返る。
豪快で、やや不機嫌な声だった。
「五月蠅い!」
床を叩く音。
「お前の言う通り眷属になったら、
数年寝込んで一族滅びてたんだぞ!
その間に、彼奴は天下取るし!
食い物くらい好きにさせい!」
小僧は、困った顔でミゲルを振り返った。
ミゲルも、同じ顔をしていた。
これは——
どう考えても、
普通の寺ではない。
小僧は咳払いをして、襖の前で声を上げた。
「お師様ー」
中の声がぴたりと止まる。
「言いつけ通り、お客様来ておりましたー。
入ってもよろしいでしょうか?」
少し間があった。
そして、落ち着いた声が返る。
「ありがとうございます」
先ほどの騒ぎとは打って変わって、
穏やかな声だった。
「お客様には入って頂いてください。
尊石は下がってよいですよ」
「はいー」
小僧は軽く頭を下げ、
すっと脇へ退いた。
ミゲルは襖を開ける。
部屋の中には、二人の男がいた。
一人は僧。
剃髪。
身なりは整い、姿勢も端正。
だが、顔色が悪い。
病人のような青白さをしている。
そして、もう一人。
痩せた男だった。
衣は質素。
だが、目だけが異様だった。
ぎらついている。
まるで、闇の奥で光る獣の目のように。
その視線が、ミゲルに突き刺さった。
---
剃髪の男が、静かに口を開いた。
「よく来てくださいました」
声は穏やかで、どこか疲れを含んでいる。
「私の名は天海。
あなたをお待ちしておりました——千々石ミゲル殿」
先ほどと同じ、
名乗らずとも既に知られている。
ミゲルは思わず瞬きをする。
なぜ、自分の名を知っている。
彼とは、今日が初対面のはずだった。
その様子を見て、隣の痩せた男が、くつくつと喉を鳴らした。
「ほれ見い」
細い肩を揺らして笑う。
「おぬしはコロコロ名前が変わるのう」
指をひらひらと振る。
「ぶら何とかやら、えい何とかやら。
そんなことをしておるから、伴天連どもにバカにされるのじゃ」
ミゲルは返答に困る。
男は続けた。
「ほれ、この小僧も戸惑うておる」
顎でミゲルを指す。
「突然名を呼ばれて面食ろうておるじゃろう」
天海は静かに視線を横へ流す。
痩せた男は構わず続けた。
「なに、簡単なことじゃ。
この陰険はな」
さらりと、とんでもない呼び方をする。
「門前に冠者を配置していただけよ。
おぬしの名など、伴天連どもの交流から聞き及んでおるに決まっておる」
天海は特に否定もしない。
ミゲルは曖昧に頷いた。
「……は、はぁ……」
痩せた男は満足そうに頷く。
「儂らばかり名前を知っておっては不公平じゃのう」
腕を組み、少し考える。
「儂は……そうさのう」
一瞬だけ天井を見上げた。
「弾……吉」
にやりと笑う。
「そう、弾吉じゃ」
そして、親指で天海を指した。
「この陰険の下で働いておる」
ミゲルは軽く頭を下げた。
「よろしくお願い申します。
天海様、弾吉様」
そう言って、懐から手紙を取り出す。
蝋封された一通。
カスピエル伯爵から預かったものだった。
天海はそれを受け取り、封を切る。
羊皮紙が静かに開かれる。
そこに書かれている文字は、すべて伴天連の言葉——
ラテン語だった。
通常、日本の僧が読めるはずのない文字である。
だが。
天海の目は、迷いなくそれを追っていた。
しばらく黙読した後、ぽつりと呟く。
「……伯爵から、“竜の息子”の伯爵へと来ましたか」
少しだけ遠くを見るような目になる。
「その名は、遠い未来の名だというのに……」
羊皮紙を指先で整えながら、小さく息を吐いた。
「本当にカスピエル殿も相変わらず……
どこまで本気なのか分からぬ方だ」
その横から、弾吉が身を乗り出す。
覗き込む動きは、弟子というより同席者のそれだった。
むしろ——対等。
「ほう」
弾吉は紙面を流し読みして、鼻を鳴らす。
「仇敵……いや、あえての旧友か」
口元が歪む。
「面白い。世界中から嫌われておるのう、お主」
くつくつと笑う。
「カスピエルとやらから、
ミゲル殿を全面的に助けてほしい——
そう書いてあるのう」
「え?」
思わず声が出る。
ミゲルは慌てて天海を見る。
「お二人は……何故、伴天連の言葉を?」
弾吉がすぐに口を開く。
「この陰険」
親指で天海を指す。
「坊主頭にして人畜無害を装おっておるが、
かの串刺し——」
「おほん!」
天海が、珍しく強めに咳払いした。
弾吉は肩をすくめる。
「あー、まあよい」
にやりと笑う。
「また今度、こっそり教えてやる」
天海は何事もなかったかのように羊皮紙を畳んだ。
表情は淡々としている。
「彼の頼みです」
短く言う。
「仕方ありません」
少しだけ目を伏せた。
「借りが山ほどあります」
そして、まっすぐミゲルを見る。
「私が全面的に協力いたしましょう」
「儂も混ぜよ」
弾吉が言う。
天海は間を置かず答えた。
「どうぞご自由に」
あまりにもあっさりした返答だった。
弾吉は、満足そうに口の端を吊り上げる。
「話が早い」
懐から、小さな包みを取り出す。
中から転がり出たのは、色とりどりの金平糖。
一粒つまみ、口へ放り込む。
ガリッ。
静かな書院に、硬い砂糖の砕ける音が響いた。
ガリ、ガリッ。
まるで子供の菓子のような音なのに、
その男が噛み砕くと、妙に不気味に聞こえる。
弾吉はもう一粒、指先でつまむ。
「ふむ」
軽く舌で転がす。
「やはり金平糖は旨いのう」
天海は一瞥しただけで、呆れた顔で何も言わない。
ミゲルは、二人の顔を交互に見た。
ここまでの時間。
ほんの数刻。
だが——
話は、すでに決まってしまっていた。
あまりにも、とんとん拍子だ。
ミゲルはただ、呆然と座っていた。
まるで。
最初から、すべて決まっていたかのように。




