174 2026年5月24日(日)_03 くつろぐ邪神さま
とある空間。
壁も、床も、天井もない。
ただ、黒い静寂だけが広がっている。
その中央で、奈良透は小さなガラス瓶を覗き込んでいた。
瓶の中には、黒いトカゲ。
奈良はピンセットで、赤黒い肉片をつまみ上げた。
ぬめりのあるそれが、何の肉なのかは分からない。
「おいしいかい? ボクラグさん」
トカゲは舌を伸ばし、肉を飲み込む。
奈良は満足そうに微笑んだ。
「全く、酷い話さ」
瓶を軽く指で叩く。
「わかるかい? ボクラグさん」
少し首を傾ける。
「片桐一葉」
小さく笑う。
「最初はね、山形ロボを軽く動かさせて、浮雲不在の山形で機体を育てる」
「ただのベビーシッターだったんだよ」
奈良はもう一つ肉をつまむ。
「それがさ」
ぽとり。
肉が瓶の中に落ちる。
「だんだん」
「でしゃばり始めた」
「だんだん」
「物語を回し始めた」
奈良は肩をすくめる。
ただの小娘が。
英雄でもない。
勇者でもない。
選ばれし血でもない。
それなのに。
奈良はトカゲを見下ろす。
「物語を、回し始めた」
「目障りなんだよね」
奈良はトカゲを見下ろす。
「目障りなんだよね」
右手のピンセットをくるりと回す。
「そして極めつけは――」
声が少し低くなる。
「ボクラグさん」
「君を滅ぼした」
奈良は軽く笑う。
「もちろん、本体はホラ、見つけてあげただろう?」
瓶の中のトカゲを軽く突く。
「感謝してほしいくらいだ」
トカゲが肉を噛む音が、小さく響いた。
「本当ならね」
奈良は軽く息を吐く。
「あの戦闘で、浮雲平輔は英雄として盤面に戻る予定だったんだ」
「僕は、楽しく遊びながら物語を紡ぐ」
「そのための、君の退場」
「すまないね? ボクラグさん」
また餌を落とす。
「――啜り泣くプリズム」
奈良の声が、わずかに楽しげになる。
「The Weeping Prism」
「彼の正しき怒りを鋳造する」
「正義と正義が争う世界」
「そのための神器」
「そして僕たちが、本来の神格を取り戻し」
「愉しく遊べる箱庭としての地球を作るための」
「第二の、輝くトラペゾヘドロン」
奈良は肩を回す。
「想定外は歓迎さ」
「でもね」
「見ず知らずの“誰か”を守りたい」
奈良は肩をすくめる。
「そんな“狂った正義”は」
「僕の計画には、邪魔なんだよ」
少し笑う。
「だから僕はわざわざ分身して出向いた」
「ゲームマスターの僕が、だよ」
「そして」
「片桐一葉を直々に排除した――つもりだった」
奈良はトカゲを撫でる。
「制御できない想定外は、排除する」
だが。
「なのに、“C”まで出てきた」
奈良は少し目を細める。
「やっぱり彼女は」
「僕の予想通り」
「盤面を勝手に“整える”可能性がある」
奈良は小さく笑う。
「僕はね」
「這い寄る混沌として」
「美しく盤面をかき乱したいのさ」
「本当に、今回は手を汚して不愉快だ」
トカゲは、奈良の指を舐めた。
奈良はそのまま呟く。
「もし今回」
「これでも片桐一葉が生存していたら」
軽く指を鳴らす。
「次のプランに切り替える」
「QOLだっけ?」
「僕もね、丁寧な生活は嫌いじゃない」
「仕込みも、まだまだあるし」
奈良は瓶を持ち上げる。
「啜り泣くプリズムに至る道は」
「何も山形ロボだけじゃない」
「確かに、あれは最高の素材さ」
「でもね」
奈良はにやりと笑う。
「知っているかい? ボクラグさん」
「君に与えている餌と同じで」
「癖のある素材でも、美味しい料理はできる」
「むしろそっちの方が」
「通には好まれることすらある」
そのとき。
奈良の背後の闇が揺れた。
影が二つ。
いつの間にか、空間に立っている。
奈良は振り向かないまま言う。
「おや」
「奈良トオルと真鹿めるがお帰りだ」
少し耳を傾ける。
「全部、見ていたけど」
奈良は瓶の中のトカゲを見下ろしたまま、誰にともなく言った。
「現場はどうだった?」
わずかな沈黙。
奈良は、少しだけ眉を上げる。
「……嗚呼、そうかい」
小さく頷く。
「エイホートさんは、なんとか無事か」
奈良は肩をすくめた。
「受肉するとね」
「存在が、肉に引っ張られる」
ピンセットをくるりと回す。
「神格としては、ちょっと面倒な状態になる」
「回復効率が一番いいのは――」
奈良はくすりと笑う。
「人間の医療」
「皮肉だね」
しばらくして、奈良は軽く息を吐いた。
「単独でエイホートを撃破」
「やっぱり」
「片桐一葉は、このゲームのバグだね」
瓶の中のトカゲを指先で撫でる。
「山形ロボも傷つけず」
「コックピットだけ攻撃?」
奈良の口元が歪む。
「いいね」
もう一度、ゆっくり頷いた。
「いいね」
奈良はようやく振り返る。
「おや、真鹿める」
奈良は振り向かないまま言った。
「それは?」
影の手の中に、光る画面。
淡い光が黒い空間を照らす。
奈良の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「おお」
一歩、近づく。
「アプリ、できたんだね」
画面を覗き込み、くすりと笑う。
「田中君」
「やっぱり彼は無能だが――」
少しだけ楽しそうに続ける。
「有能を引き寄せる才がある」
奈良は軽く手を叩いた。
ぱちん。
乾いた音が、静かな空間に響く。
「なら」
「審査が通り次第」
「信者経由で、広く配布しようじゃないか」
奈良透は、ゆっくりと嗤った。
「なら」
ほんの少し声が低くなる。
「第二段階に――」
「遊戯を進めなきゃ」
影が揺れた。
三つあった影が、
ゆっくりと溶け合っていく。
奈良透。
奈良トオル。
真鹿める。
境界が崩れ、
三つの影は一つになる。
境界は消え、
形は崩れ、
やがて。
そこに残るのは、ただ一つ。
静かな黒い影。
奈良透の姿をした、それ。
だが。
それは、もはや人ではない。
奈良透でもない。
この世界に、ただ一人だけ残った存在。
這い寄る混沌。
ナイアルラトホテップ。
そのものだった。
黒い空間は、再び静寂に包まれる。
誰もいない。
ただ、彼だけの世界。
瓶の中で、トカゲが静かに瞬きをした。
「山形ロボは、これから厳重に警戒されるだろう」
奈良は、瓶の中のトカゲを指先で軽く撫でながら言った。
「さすがにね」
小さく肩をすくめる。
「邪神を単独で撃破した英雄機だ」
「次はそう簡単に近づけない」
トカゲがゆっくり瞬きをする。
奈良は、にやりと笑った。
「でもさ」
「代替はある」
ピンセットを、くるりと回す。
「もうね」
「おおよその目星はつけてある」
餌を、ぽとりと瓶の中へ落とす。
トカゲが舌を伸ばし、それを飲み込んだ。
奈良はその様子を、満足そうに眺める。
「素材はね」
「一つじゃない」
軽く肩をすくめる。
「むしろ」
「癖のある素材のほうが」
奈良の目が、わずかに細くなる。
「料理は面白くなるし、オーディエンスは悦ぶのさ」
奈良は、静かに笑った。
黒い空間には、
その笑いだけが長く残った。




