173 2026年5月24日(日)_02 動き始めるそれぞれ
深夜。
陽葵の部屋の扉が、控えめにノックされた。
陽葵は耳に入れていたAirPodsを外し、タブレットの動画を一時停止する。
「なーにー?」
扉が少し開き、母親の綾が顔を出した。
目元がわずかに赤い。
だが綾はそれを隠すように、いつもの落ち着いた声を作っていた。
「あのね。お姉ちゃん、ケガして入院したらしいの。」
陽葵が一瞬で姿勢を起こす。
「それで、お母さん、面会に行こうと思うんだけど……その間、陽葵どうする?」
「いち姉ぇ大丈夫なの?」
声が少し上ずる。
「怪我って?まさか交通事故?私も行く!」
綾は一瞬言葉に詰まり、視線を少しだけ逸らした。
「それなんだけど……陽葵、パスポート、ある?」
「え?」
陽葵はきょとんとする。
「ないけど?なんで?」
綾は、ほんのわずかに間を置いて言った。
「お姉ちゃん、入院してるの……アメリカの病院なの。」
「は?」
陽葵の目が丸くなる。
「なんで?なんでアメリカなの?」
綾は咄嗟に言葉を繕う。
「あ、あのね……研修?そう、研修で。アメリカのアーカムってところに行ってて、それで……何か事故に巻き込まれたみたいなの。」
少しだけ早口だった。
陽葵は首を傾げながらも聞く。
「そうなの?」
そしてすぐに聞き返した。
「それより、無事なんだよね?」
綾は頷く。
「うん。無事みたい。」
「それで、陽葵どうする?おばあちゃんちは神奈川でしょ?早川のおじいちゃんとこは茨城だし」
陽葵は少し考えてから肩をすくめた。
「なら、カルの世話もあるし、留守番するよ。」
部屋の隅で丸くなって寝ている猫が、名前を呼ばれた気がしたのか尻尾を揺らす。
綾は少しだけ安心した顔になる。
「そう?わかった。」
そして言った。
「朝一の飛行機で行くから、お母さん今から車で東京行くけど……大丈夫?」
陽葵が目を丸くする。
「はや!飛行機取るの早!」
そして笑う。
「OK、わかった。」
軽く手を振りながら言った。
「いち姉ぇに、“ちゃんと治せ”って言っといて!」
---
陽葵は動画を再生しなかった。
タブレットの画面は止まったまま。
部屋の静けさの中で、陽葵は椅子をくるりと回し、机の上に置かれた姉のゲーミングノートPCへ向き直る。
しばらく画面を見つめてから、ぽつりと言った。
「ねぇ、ハコ子。」
少しだけ間を置く。
「お姉ちゃん……大丈夫なのかな?」
ノートPCのスピーカーは、すぐには反応しなかった。
>………………………………
沈黙。
その横で丸くなっていたカルが、顔を上げる。
猫はゆっくり伸びをすると、画面の前に歩いてきて座った。
「ハコ子様?」
カルが首を傾げる。
すると、スピーカーが小さく鳴った。
>あ、みなさん。はい!ハコ子です。
少しだけ、いつもより元気な声だった。
陽葵は腕を抱えたまま、じっと画面を見る。
「大丈夫?」
小さく言う。
「ハコ子まで……また居なくならない?」
スピーカーの向こうで、ほんの一瞬、処理の沈黙が入った。
それから答える。
>大丈夫です。
>今、マークワンと同期していました。
>一葉は大丈夫です。心配ありません。
陽葵は眉を寄せる。
「なんでわかるの?」
少しだけ間。
>え?
>あ?
>……勘です!
陽葵の目が細くなる。
「AIだよね?ハコ子。」
腕を組んだまま言う。
「どうなの?それ。」
カルが横で小さく「にゃ」と鳴いた。
ノートPCの画面の端で、
ほんのわずかに、CPU使用率のグラフが跳ねた。
そしてハコ子は、少しだけ小さな声で言った。
>……一葉は、約束を守る人なので。
>だから、大丈夫です。
その答えは、
AIの計算というより、
どこか、
誰かを信じている声だった。
---
浮雲平輔は、早川たちと共に超弩級双胴飛行船“会議室本部”のゲストルームにいた。
巨大な船体の奥深くに設けられたその部屋は、豪奢というより静謐だった。
厚い隔壁に囲まれ、外の機関音すらほとんど届かない。
だが、その静けさの中で、早川の声だけが震えていた。
「一葉……無事でいてくれ……」
祈るように両手を組み、うつむいている。
その隣で、浮雲は椅子に座ったまま目を閉じていた。
唇が、かすかに動く。
「……変神、できなかった……」
先ほどの戦闘。
一葉が襲われた瞬間。
彼は確かに感じていた。
あの圧倒的な邪神の気配。
そして同時に、
自分が取るべき行動も理解していた。
“ナイアルラトホテップモード”。
変神して、
あの場所へ飛び込む。
それしかなかった。
だが――
肉体が、変化しなかった。
何も起こらなかった。
浮雲はゆっくりと拳を握る。
なぜだ。
以前、神殺しを行った時。
あの戦いで、“存在”を消費した。
その時から、
どこか弱体化している感覚はあった。
だがここまでとは思っていなかった。
PPCF。
精神投影型戦闘構造体。
それも今は召喚が禁じられている。
理由は分かっている。
自分でも、はっきり分かる。
もし今あれを召喚したら。
おそらく――
自分の身体ごと崩れる。
存在そのものが燃え尽き、
二度と現世へ戻れない。
転生すらできない。
そこまで、消耗している。
浮雲はゆっくりと目を開いた。
低くつぶやく。
「俺が、山形ロボ<影>を召喚できたら……」
言葉が途中で止まる。
「……いや。」
首を振る。
「せめて、変神できたら……もっと違った。」
部屋の静寂が、重く沈む。
そして浮雲は、
かすれるような声で言った。
「俺は……」
沈黙。
「……誰も守れない。」




