172 2026年5月24日(日)_01 救うために
数時間前。
「“伯爵”、山形機を救助? 正気ですか? 一僻地の防衛機ですよ。
“会議室”として、この案は承服しかねます」
若い声が、会議室に響いた。
壁面を埋め尽くすモニター群。
それぞれの画面の向こうには、世界各地に散らばる“円卓”の代理者たちが座っている。
「“伯爵”。確かに山形機は一九九九年の英雄機。
だが、それだけだ。
エイホート、ナイアルラトホテップがいる可能性がある海域へ“会議室”の全戦力を投入するのは、控えるべきではないか」
今度は年配の男が口を開いた。
「“伯爵”、なぜ山形機にそこまでこだわるのでしょう。
もしかして、貴方の“夢見”に何か映りましたか」
続いて、落ち着いた声の女性。
「“伯爵”……何か反論はございますか」
進行役の女性が、議場を見渡す。
「今から“伯爵”が意見を述べられる」
“会議室”特級序列零位。
《虚》。
マスター・オブ・ケノーマの声だった。
その一言で、モニター群が水を打ったように静まる。
画面の中央。
そこに映っているのは、一人の青年だった。
白い髪。
そして車椅子。
年齢だけを見れば若い。
だが、その眼には、人の一生では到底辿り着けぬ深い時間が沈んでいる。
円卓ナンバー1。
“伯爵”。
彼はゆっくりと口を開いた。
静かで、
だが不思議なほどよく通る声だった。
「まずは、皆に混乱を招いたことを謝罪したい」
一度、言葉を切る。
「エイホート、ナイアルラトホテップ」
「この二柱が彼の地にいることは、確定事項だ」
わずかな沈黙。
「その姿までは見えぬ。だが――そのように“観た”」
モニター群がざわついた。
「夢見だ……」
「ああ……伯爵の夢見……」
「戦争、災害、あらゆる事象を予知する……」
ざわめきの中、再び若い声が上がる。
「ならば……なぜそのような危険な地に向かうのですか。
“伯爵”を含め、我らは“会議室本部”に搭乗してはいないとはいえ、あまりにも横暴ではございませんか」
それに答えたのは、伯爵ではなかった。
マスター・オブ・ケノーマが、静かに言った。
「先ほど我らは、“会議室本部”に搭乗した」
一瞬、沈黙。
そして、議場がどよめいた。
「……何だと?」
「本部に?」
「ならば何故、伯爵が動く必要がある。伯爵の“夢見”は邪神に対する人類の秘宝だぞ」
伯爵は、その言葉を静かに受け止めた。
そしてゆっくりと首を振る。
「皆にも再三伝えているが、その考えは過ちだ」
声は穏やかだった。
「私はただ、皆より長く生き、皆より未来を“識っている”だけだ」
「それだけの木偶だ」
だが。
次の言葉だけは、わずかに力がこもる。
「だがな」
「山形機。」
「……いや、それだけではない。」
「そのパイロットだ。」
伯爵の視線が、モニターの向こうを静かに見据える。
「片桐一葉。」
その名が発せられた瞬間、会議室の空気がわずかに変わった。
伯爵はゆっくりと言った。
「あれは違う。」
「彼女こそ、“会議室”が長く探してきたものだ。」
「ミゲルの遺産。」
一拍。
「邪神を封じる秘宝。」
そして。
「ルミナス・インバーテッド・プリズムに至る鍵なのだ。」
静かな声が続く。
「ゆえに、彼女は守らねばならぬ。」
だが伯爵は、そこでわずかに目を細めた。
「しかし――干渉してもならぬ。」
再び、沈黙が落ちる。
会議室の誰もが、その言葉の意味を測りかねていた。
伯爵は静かに続けた。
「彼女は、人として戦い、人として選ばねばならない。」
「我らが手を差し伸べすぎれば、その道は歪む。」
「守ることと、干渉することは違う。」
一拍。
「……それが、この世界の“規則”だ。」
そして伯爵は、静かに言った。
「頼む。これは私の我儘に過ぎない。
だが……、
この件を採決にかけてもらえまいか」
モニター群が、再びざわめいた。
進行役の女性が、静かに口を開いた。
「……この度の介入に賛同される方」
「サインをお願いいたします」
数秒の沈黙。
やがて、モニターの隅に一つ、また一つと認証の印が灯る。
そして――
「本件は円卓規定により、多数決とする」
可決。
その瞬間、命令が下った。
“会議室本部”、進路変更。
日本海へ。
巨体の双胴飛行船は、全出力を解放する。
空間が歪む。
そしてそのまま、
位相の隙間へと沈み込んだ。
---
現在。
太平洋上の雲海を真空保護膜で超音速飛行する船影
超弩級双胴飛行船。
“会議室本部”ドック内。
巨大な格納区画の中央に、山形ロボが固定されていた。
鈍色の装甲には無数の細い刃が突き刺さり、まるで針山のようになっている。
周囲には整備員とエージェントが雪崩れ込むように集まり、怒号と報告が飛び交っていた。
「山形機、固定完了!」
「急げ!コックピットの解放方法は? 七十メートル級と勝手が違いすぎる!」
「地上より山形機整備チーム到着! 搭乗者の親族もおります、対応はどうしますか!」
「胸部展開通信で確認完了! 球形コックピット確認、内部AI補助により管理者権限で解放可能!」
その時、格納庫の奥から絶叫が響いた。
「いちはぁ!!!!!!!!」
「いちはぁ!!!!!!!!」
早川だった。
整備員たちの肩を押しのけるように前へ出ようとする。
だがすぐに別の声が重なる。
「コックピットブロック確認! 敵性魔術の残留を検知!」
「ミスカトニック大学電子書庫より該当資料引用! .nec拡張子版《無名祭祀書》《妖蛆の秘密》《エイボンの書》、十死篇PDF、《ネクロノミコン》ラテン語版PDFより該当章抽出!」
「解呪処理入ります!」
格納庫の天井に並ぶ投影装置が一斉に光り、複数の術式が空中に描き出される。
「カメラ同期完了! 内部確認できます!」
大型モニターに、球形コックピットの内部映像が映し出された。
そこにいた。
片桐一葉。
全身を呪術の刃に貫かれ、シートに固定されたまま動かない。
黒い刃は枝分かれするように広がり、機体内部の構造を避けながら、正確にコックピットだけを貫いている。
「バイタルデータ同期!」
「パイロット、生存確認!」
一瞬、格納庫に安堵が走る。
しかし次の報告が空気を凍らせた。
「内部、呪術の刃が密集! 出血確認!」
「枝分かれしている! 解呪急げ!」
そこへ、新たな声が響く。
「特級序列第二位《千手》チェンショウ様、到着!」
白衣の術師が数名の補助員を従えて格納庫へ入る。
両手の指が素早く印を結び、空中に複雑な術式が展開される。
「解呪入る!」
「球形コックピット、開けられますか!」
その問いに、山形ロボAI――ハコ子の声が返る。
>現在、内部状況を解析中
>優先解呪箇所の画像を生成します
>表示された箇所から順に処理してください
ほんの一瞬、声が震えた。
>一葉を助けて!!
そこへさらに、格納庫の入口が開く。
「特級序列第八位《神拳》フィスト・オブ・ゴッド様、到着!」
「特級序列第五位《代理人》アギェント様、到着!」
三名の特級エージェントが並ぶ。
その威圧だけで、周囲の空気が張り詰めた。
「三名の補助に入れるエージェント、前へ!」
術式、機械、医療。
すべての専門家が一斉に動き出す。
だがモニターの前で、医療班の声が低く告げた。
「……出血がひどい。」
一瞬、沈黙。
「致命傷ではありません。
直前に展開した局所位相固定の影響です」
呪術の刃は、確かにコックピットを貫いていた。
だがその直前、山形ロボの展開した局所位相固定が、世界の因果をほんのわずかにずらしていた。
刃は確かに刺さっている。
しかし致命の臓器だけは、わずかに外れている。
偶然ではない。
防御でもない。
世界の縫い目を一針だけずらす、あの結界特有の現象だった。
しかし。
主任はゆっくりと言った。
「出血ショックで命が危ない。」
機内アナウンスが流れた。
「アメリカ合衆国マサチューセッツ州アーカム、到着。
聖メアリー・ティーチング大学病院と回線を接続します。」
次の瞬間、通信が繋がる。
「聖メアリー・ティーチング大学病院、神秘外科。
スタンフォード・ウェスト教授です。
患者の状況データの共有をお願いします。
神秘内科と連携し、救急処置に入ります。
ヘリポートからそのままお入りください。」
格納庫の中央。
球形コックピットの周囲では、術者と医療班が最後の準備を整えていた。
>わたしがします!データをまとめます!お願いします!
ハコ子がスピーカー越しに叫ぶ
「山形機、操縦補助AIへの依頼、許可が出ました。
山形機AI、データ送信を!」
ホログラムに、膨大な生体情報が展開される。
心拍。血圧。体温。霊子濃度。呪術侵食率。
すべてが、聖メアリー・ティーチング大学病院の回線へ送られていく。
その間にも、術式の光がコックピットを包んでいた。
「解呪、もうすぐ完了する。」
チェンショウが低く言う。
「刃が消えた瞬間、一気に出血するぞ。」
医療班がうなずく。
「3、2、1でハッチを開ける。
止血と応急処置、いいな?」
周囲の声が揃う。
「了解。」
短い沈黙。
「……3。」
「……2。」
「……1。」
「「開けろ!」」
球形コックピットのハッチが解放された。
同時に、空気が抜ける音。
呪術の刃が消え、
その瞬間――
血が溢れ出した。
「止血!」
「医療パック!」
「圧迫!」
「血液型は山形機指令部から入手済み!」
医療員が叫ぶ。
「血液ストックあり!」
「輸血開始!」
透明な輸血ラインが接続される。
血まみれの一葉がコクピットからストレッチャーに移し替えられる
「心拍維持!」
「ショック状態!」
「霊子濃度低下!」
「聖メアリー・ティーチング大学病院、受け渡し準備!」
格納庫の天井が開き、
外の光が差し込む。
ヘリポートが格納庫に降下してくる。
そこに、
救急搬送用の機体が待っていた。
その中央で、
片桐一葉は――
まだ、生きていた。
---
深夜。
静まり返った家の中で、片桐綾のスマートフォンが鳴った。
画面に表示された名前を見た瞬間、胸の奥が静かに強張る。
児島。
こんな時間に、彼女から連絡が来る理由は一つしかない。
綾は一度だけ深く息を吸い、通話ボタンを押した。
その瞬間、彼女の表情が変わる。
県庁職員でもない。
主婦でもない。
母親でもない。
戦場を駆ける現地情報観測員。
山形県総務部 防衛課観測班。
片桐綾。
その顔だった。
「はい、片桐です。」
受話器の向こうから、聞き慣れた声が返ってくる。
尊敬する先輩。
そして、娘の上司。
児島だった。
だが、その声はいつもよりも低く、どこか震えていた。
「綾……あのね……私、ごめんなさい……あのね……」
そこまで聞いた瞬間、綾はすべてを理解した。
四月二十一日。
戦闘の報告を受けた時から、覚悟はしていた。
胸の奥に押し込めていた予感が、静かに現実の形を取る。
綾は、短く息を吐いた。
そして、ただ一つだけを問う。
「……あの子は。」
少しだけ声が震える。
それでも、言葉は途切れない。
「一葉は、守れたんですか?」
電話の向こうで、児島が一瞬言葉を失う。
小さく呼吸を整える音が聞こえた。
そして、はっきりと告げた。
「一葉さんは現在重傷です。」
綾の指先が、わずかに震える。
だが、次の言葉が続く。
「でも、生きています。」
綾の胸の奥で、張り詰めていた何かがわずかに緩む。
児島はさらに続けた。
「“会議室”が動きました。今、治療中です。」
一拍の沈黙。
そして、静かに言う。
「それから……」
児島の声が、ほんの少し誇らしげになる。
「彼女は単身で、邪神格を退けました。」
綾の目がゆっくり閉じる。
娘の姿が、脳裏に浮かぶ。
泣き虫で、
不器用で、
でも、どうしようもなく真っ直ぐなあの子。
児島が最後に言った。
「今、飛行機を手配しています。」
綾は、迷わず答えた。
「ありがとう、先輩。」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
通話が切れる。
部屋は、再び静寂に包まれた。
しばらく、綾はその場に立ったまま動かなかった。
やがて、ゆっくりと膝から力が抜ける。
その場に崩れ落ちるように座り込み、
両手で顔を覆った。
声は出さない。
ただ、静かに。
静かに。
涙が溢れていた。




