171 【平安編】859年4月(天安3年2月) 旅路の始まり
高階経雅の一行は、都を発つにあたり、まず大将軍八神社へと立ち寄った。
これより北へ向かう。
それは単なる旅ではない。都の秩序を離れ、山と霧と異形の気配が濃くなる地へ踏み入る、長く、そして戻りがたき行路であった。
その無事と、果たすべき務めの成就を願い、一行は神前に額づいた。
社殿には白煙がたなびき、神官の声が、低く長く祝詞を奏でる。
静かな山気の中に、その言葉は水のように流れ、ひとりひとりの胸の底へと沈んでいった。
経雅は深く首を垂れる。
妻の登子も、嫡男の成衡も、従者たちも、それに倣った。
祈りは長くはなかった。
だが、この旅にのしかかるものの重さを思えば、そのわずかな時のあいだにさえ、誰もが己の不安と覚悟を噛みしめていた。
やがて祈祷は終わる。
一行は社を辞し、そのまま比叡山へと向かった。
都を見下ろす霊峰、比叡。
山門をくぐり、杉木立の奥へ分け入ってゆくと、延暦寺の伽藍が静かにその姿を現した。
風は冷たく、春まだ浅い山の気は、俗世の匂いを遠く退けている。
そこに待っていたのは、天台座主――慈覚大師・円仁であった。
経雅は進み出て、深く頭を下げる。
その傍らには、すでに師のもとで待していた若き僧、円石の姿がある。
山中はしんと静まり返っていた。
ただ、梢をわたる風の音だけが、遠く、かすかに聞こえる。
高階経雅一行は、ここであらためて、慈覚大師円仁へ正式の挨拶を申し上げた。
円仁はしばし一行を見つめていた。
老いたるまなざしでありながら、その眼差しの奥には、人ならぬほどの遠きを見通す静かな光があった。
やがて、円仁は口を開く。
「出羽の地――刈田峰に、蔵王権現をお招きしてほしい」
その言葉は穏やかであった。
だが、否とは言わせぬ確かさが、その静けさの奥に宿っていた。
そして円仁は、傍らに控える円石へ目を向ける。
「この者に預けた金匣と法灯を、立石寺に納めよ」
経雅は顔を上げ、その言葉をまっすぐ受け止めた。
蔵王権現の勧請。
そして立石寺への奉納。
それは、ただの任ではない。
都と出羽とを結ぶ、新たな祈りの道を、この北の国に打ち立てよということに他ならなかった。
円仁はさらに、一通の書を差し出した。
比叡山の名においてしたためられた親書。
そして、勧請のための分霊。
経雅は両手でそれを受け、深く頭を垂れる。
その隣で円石もまた、金匣と法灯の重みを、己の腕だけではなく、心の奥で受け止めていた。
その時であった。
ふいに、杉木立の奥で風が鳴った。
ざわ、と枝葉が揺れ、堂内の灯火がわずかにかすめる。
円石は思わずそちらへ目を向ける。
誰もいない。
だが、誰かが聞いていたような気がした。
円仁だけが、その気配を知っていたかのように、静かに目を細めた。
「急ぐがよい」
そう言って、ほんのわずかに声音を沈める。
「都には、すでに良からぬ影が差しておる」
一行の胸に、冷たいものが落ちた。
それ以上、円仁は語らなかった。
挨拶を終え、経雅たちは山を下る。
杉の並ぶ山道を、馬の脚をいたわりながら、ゆっくりと降りてゆく。
山気はひんやりと澄み、谷川の音だけが道の底から響いてきた。
やがて木立が開け、眼下に広大な琵琶湖が現れる。
そのほとりに広がるのは坂本の町。比叡山の門前町であり、都と山とを結ぶ要衝である。
だが同時に、そこは境でもあった。
都の文化が届く、最後の縁。
そして、その外へ踏み出す者が、最後に人の世の匂いを濃く感じる土地。
一行はそこで馬を整え、荷を確かめた。
絹をまとい、都の言葉を話す者たちも、ここから先は山と川の国を行かねばならぬ。
道は細くなり、空は遠くなり、人の理はしだいに通じぬものへと変わってゆく。
比叡の山影を背に、一行は湖畔の道へ出た。
琵琶湖の西岸を北へ。
水面はひろく、空とほとんど見分けがつかぬほど静まり返っていた。
湖風が旅装の袖を揺らし、馬のたてがみを撫でてゆく。
誰も多くは語らない。
ただ前へ進む。
近江を抜け、やがて伊吹の山々が見えてくる頃には、道はしだいに狭まり、景色から都の柔らかさが消えていた。
関ヶ原。
古くから東西を結ぶ山間の要衝。
ここを越えれば美濃である。
峠へとかかるにつれ、人の往来はまばらとなり、道もまた荒れてくる。
岩肌を削ったような坂道。
谷へ吹き落ちる風。
遠くに見えるのは、ただ山また山。
都を離れるほどに人の気配は薄れ、代わりに山と川ばかりが、もの言わぬ顔で旅人を見下ろしていた。
やがて一行は、木曽川沿いの街道へ入った。
断崖と激流に挟まれた細道。
人馬が並ぶことも難しい、岩肌を削り出したような一本道である。
その日は朝から空が曇っていた。
川音が、妙に大きく響いている。
円石は馬上で、胸元の法灯をかばうように手を置いた。
金匣を載せた荷駄がきしり、と鳴る。
次の瞬間であった。
――轟音。
前方で巨木が倒れた。
行く手をふさぐように、地を揺らして横たわる。
ほとんど同時に、後方でも岩が落ちる。
逃げ道は、断たれた。
「伏せよ!」
誰かが叫ぶより早く、断崖の上から男たちが飛び降りてきた。
野党。
十数人。
山刀と槍を手にし、怒号を上げながら迫ってくる。
高階成衡が、即座に馬を降り、前へ出た。
「父上はお下がりください!」
若い声。
だが、その声に迷いはない。
成衡は太刀を抜き、最初の一人を迎え撃つ。
刃がひらめき、野党のひとりが崩れ落ちた。
しかし敵は、正面からだけでは来なかった。
岩陰から石を投げ、足を狙い、槍で間合いを崩しながら、後ろへ回り込もうとする。
山の賊の戦い方。
力よりも、地の利と数と、怯えを突くやり方である。
成衡は次第に押し込まれていった。
その時。
「若様、加勢いたします」
低く、よく通る声が響いた。
ひとりの男が、前へ出る。
平八郎。
この旅のために経雅が召し抱えた郎党の頭である。
武骨な身なりながら、その顔立ちは奇妙なほど整っていた。
都の公達にも劣らぬ品をどこかに残しながら、いまは一介の武者として主家に仕える男。
その背後に、数名の郎党が並ぶ。
狭い道を盾に、横一列。
逃げ場のない断崖の細道にあって、彼らは一歩も退かなかった。
平八郎は、ゆっくりと太刀を抜く。
それは都で鍛えられた、新式の太刀であった。
毛抜形太刀。
緩やかな反りを持ち、柄から刀身へと流れるような曲線を描くその刃は、古き直刀とは明らかに趣が異なる。
平八郎はそれを、軽く、しかし隙なく構えた。
次の瞬間。
一歩、踏み込む。
刃は斬り下ろされない。
横へ走る。
まるで風が雲を裂くように――引き斬る。
独特の反りが、敵の体を滑るように切り開いた。
一人。
二人。
三人。
四人。
野党たちは悲鳴を上げ、断崖の縁から崩れ落ちてゆく。
血の匂いさえ、川風がたちまち攫っていった。
勢いを失った賊は崩れ、残る者たちは森の奥へと逃げ去る。
あとには、木曽川の流れだけが、再び響いていた。
成衡は荒い息を吐く。
その肩へ、平八郎がそっと手を置いた。
「見事でした、若様。されど山の者どもは、こういう戦いをいたします」
若き貴族の剣と、山野を渡った武者の剣。
同じ太刀であっても、その意味は違うのだと告げるような声音だった。
それは最初の襲撃であった。
だが、最後ではなかった。
さらに北へ。
一行は、諏訪へ入る。
山々に囲まれた、古き神々の気配濃い地。
湖のほとりに小さな宿場が点在してはいるが、都の旅人を迎えるには、あまりにも辺鄙で、あまりにも夜が深い。
その夜、一行は宿場外れの古い社で野宿していた。
火を焚き、馬をつなぎ、見張りを立てる。
社殿の屋根は古く、柱は風雨に削られていたが、それでもなお、何かを祀る場としての厳しさを失ってはいなかった。
深夜。
遠くで鹿の鳴き声がした。
成衡は、うつらうつらしていた目を開く。
だが、その声は、どこかおかしかった。
山に馴染んだ者ならば、すぐに気づくような、わずかな歪み。
それは鹿の声を真似た、人の喉の音であった。
闇の中から、ゆっくりと影が現れる。
鹿の皮をかぶった者。
鬼面のような面をつけた者。
十数人。
彼らはひとことも発せず、音もなく間を詰めてくる。
従者たちのあいだに、ざわめきが走った。
「妖か……?」
「いや、人だ……!」
恐慌が広がりかけた、その時。
平八郎の隣にいた細身の男が、静かに言った。
「……化け物ではない」
宿良。
平八郎の腹心。
その血には、遠い祖先にまつろわぬ民の系譜が混じるとも言われ、山野の呪法やまじないに通じた男であった。
宿良は焚火の灰を指先でつまみ、かすかに印を切る。
そして、低く告げる。
「土豪の配下だ。鹿皮や面で脅し、心を乱して襲う手口にございます」
その目が、暗がりの奥を射抜く。
「都から来た権守の一行が、ただならぬ匣を運んでいると聞きつけたのでしょう。財を運ぶと見ております」
円石は、その言葉に胸がわずかに冷えるのを覚えた。
金匣のことを知るはずがない。
だが、それでも人は、理屈より先に“何かある”と嗅ぎつける。
それがただの欲か、それとも、もっと別のものに導かれてのことか――。
「ならば」
平八郎が、太刀を構える。
「斬るのみだ」
次の瞬間、戦いは一気に始まった。
火花。
怒号。
狭い境内に刃が走る。
宿良の法が灰を散らし、敵の足をわずかに乱す。
その隙を、平八郎と郎党たちが逃さない。
一人ずつ。
確実に。
夜の闇へ押し返すように斬り伏せてゆく。
やがて、残った者たちは耐えきれず、闇の奥へと逃げ去った。
静寂が戻る。
焚火が、ぱちり、と小さく鳴った。
夜の山は深い。
つい先ほどまで刃が交わされていたとは思えぬほど、境内には静かな闇が満ちている。
成衡は、火の向こうに座る男を見つめていた。
平八郎。
焚火の光に照らされた横顔は、どこか影を帯びていた。
強く、静かで、しかし決してそのすべてを見せぬ顔である。
成衡は立ち上がり、その傍へ歩み寄った。
「平八郎」
呼びかけられた男は、ゆっくりと顔を上げる。
成衡はしばし沈黙した。
そして、言葉を探すように視線を伏せ、やがて静かに口を開いた。
「いつぞやは……おぬしを下賤の者と、さげすんでしまった」
火が揺れる。
「済まなかった」
平八郎は、しばらく何も言わなかった。
やがて、焚火の方へ顔を向けたまま、低く答える。
「……某は、御屋形様方をお守りしたまでにございます」
それだけ言って、口を閉ざす。
そこへ、くつくつと笑う声がした。
宿良である。
細い目をさらに細め、にやりと笑って肩をすくめる。
「若様。お頭は照れておられる」
「お気になさるな」
平八郎は露骨に顔をしかめた。
成衡は、思わず小さく笑う。
ふと、その腰の太刀に目をやる。
先ほどの戦いでも幾人もの敵を斬った刃。
だが、よく見れば、都で見慣れたものとどこか形が違う。
「平八郎」
成衡は首をかしげる。
「その太刀……折れておるようにも見えるが」
平八郎は一瞬だけ意外そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「いえ。これは毛抜形太刀と申します」
そう言って、鞘を軽く叩く。
焚火の光の中で、柄から刃へ続く曲線が、静かに浮かび上がった。
「都で鍛えられた、近ごろの新しい太刀にございます」
宿良が横から口を挟む。
「お頭の腕も都仕込みでございますぞ」
平八郎は小さく咳払いしただけで、それ以上は答えなかった。
夜風が吹き、焚火の火が揺れる。
遠くで、今度こそ本物の鹿が鳴いた。
成衡はしばらく無言でその音を聞いていたが、やがて立ち上がる。
「……そうか」
短く言い、自分の場所へ戻ってゆく。
火の光の中、一行はそれぞれの夜を過ごした。
疲れ、警戒し、明日もまた続く山路を思いながら。
そして翌朝。
高階経雅の一行は、再び道へ出た。
さらに北へ。
山を越え、谷を越え、川を渡る。
出羽の地を目指して――
静かに進んでいった。




