146 2026年5月19日(火)_01 乙女の秘密
一葉は、文翔館職員用に借りている駐車場から歩き出した。
丸一日の代休。
その使い道は完璧だった。
日曜夜からオールでガンダム視聴。
近年の作品から、流れるように旧作、その原点へ。
そのままネトフリ沼へダイブ。
気づけば夜明け。
気づけば朝。
気づけば――
目覚まし三度止め。
そして今、出勤時間ぎりぎり。
「……やば」
寝ぐせで跳ねた後頭部を撫でながら、小走り。
横の跳ねは眼鏡で辛うじてごまかせている。
たぶん。
きっと。
レンガ造りの文翔館が見えてくる。
朝の光を受けて、妙に清潔だ。
観光客はまだ少ない。
火曜日の朝は、静かだ。
正面入口に差しかかったところで、
同年代くらいのスーツ姿の男性に声をかけられた。
「すみません、文翔館の入口ってこちらで合っていますか?」
一瞬だけ、「え?」と思う。
目の前なんだけど。
でも困っているっぽいし、
声も穏やかだ。
「はい、こちらです。
どちらにご用ですか?」
「えっと文翔館の中に入りたかったのですが……。」
ああ、そっちか。
観光客じゃない。
どこかの役所関係だろうか。
「でしたら中に入って、左手曲がって……いえ、ご案内します」
自然にそう言っていた。
笑顔も、たぶん出ていた。
「平日の朝って、静かですね」
「ですね。週末は結構にぎやかなんですけど」
他愛ない会話。
ほぼ数秒だが入口扉までクラシカルなので、
初見だと素通りする時がある。
生涯学習文化財団の事務所前で足を止める。
「こちらです」
「ありがとうございます。
助かりました」
男性は、柔らかく笑った。
「では」
男性は扉の中へ消える。
一葉はそのまま小走りでエレベーターへ向かう。
巨大なレンガの建物。
静かな月曜の朝。
寝不足の頭。
扉が閉まる。
表示灯は、
「F2」
「F1」
――そこで、一度、止まる。
誰も知らない、いつもの職場のある階。
一葉は、壁際の操作パネルに、
指を数度、一定の間隔で触れる。
一拍、
低い電子音。
続いて、重い金属が噛み合うような、
“カン”という音が、床の奥から返ってくる。
エレベーターは、再び、沈み始めた。
地下50メートル。
山形ロボのドックへ。
---
朗報。
地下ドック一階から指令室までのエレベーター、
完成しました。
ハリボテ。
鉄骨むき出し。
壁はまだ仮設パネル。
でも。
もうビル六階分を階段で登らなくていい。
文明万歳。
一葉は新設エレベーターに乗り、
ぎこちない振動に揺られながら上昇。
「安全確認中」の紙がまだ貼られている。
いいのかこれ。
チン。
扉が開く。
指令室。
「おはようございます!」
返事はある。
が、なんか空気が微妙。
その瞬間。
石原が、ものすごい勢いで立ち上がった。
「お嬢ちゃん、じゃない!片桐さん!本当にすまんかった!」
……え?
石原が、ヤバいくらい謝っている。
いつも穏やかで、
どちらかと言えば優しいおじいちゃんタイプなのに。
「いや、あの、どうしたんですか?」
他のみんなは、
なぜか視線を合わせない。
武田はモニターを凝視。もうHPは0だった。
今田はキーボードを叩く手が早すぎる。
槌谷はログ画面をスクロールしているが、
たぶん画面の裏で邪悪な笑みをしている。
あの娘はそういう娘。知ってる。
若林は資料を整えている。
振りをして今日はドンキの徳用チョコケーキ食べてる。
後で貰おう。
空気が変。
「えっと……何があったんです?」
石原が、観念した顔になる。
「昨日な……みんなでラーメン食べた」
一葉の眼鏡が、すっとずれる。
なん……
だと……!?
「え???寅真いったの?龍上海いったの?まじで?えー!!!!!!いいなぁー!」
空気が、一瞬で変わる。
武田の机に顔をうずめる。
今田が鞄から愛用のノートを出してメモ始める。
槌谷うっとりと此方をみる。
室長デスクで軽く作業していた児島が視線で注意する。
だが無視。
「私は?」
「……はい」
「私もラーメン!」
「……ごちそうします」
「石原さん大好き!」
がたん!
突然、児島が立ち上がる。
「ずるい!あたしも!!」
一瞬、指令室が静止する。
武田が、ガバッと起き上がり、
今田がメモを筆圧で破り、
槌谷は表情筋が迷子になり、
聞こえないふりしていた斎藤は領収書をぶちまけ、
青山と三浦は飲みかけのマグカップを落下させる。
あの生ける武神、山倉はコーヒーを噴霧した。
大沼と若林が「やっちまったぜ」って顔で見てる。
一瞬理解が遅れた一葉が答える
「……え、児島さんもラーメン食べたいんですか?」
「違うわよ!」
児島の顔が、ほんのり赤い。
「片桐さんにだけ謝罪と接待なんて不公平でしょ!」
……接待?
石原は、状況を理解できずぽつりと呟く。
「今日の……昼飯なら、片桐さんと児島もいいが……?」
「本当ですか!?マジでうれしい!」
多分児島も状況を理解していない。
声のトーンが何いつものチョイ無理してる感じの低めじゃない。
恋する53歳のそれだ。口調ですら違う。
多分、脳が状況把握を拒否している。
一葉ですらこの時点で理解し始める。
指令室の全員が、硬直から立ち直れない。
一葉は、多分何か押してはいけないスイッチを、
無自覚に押してしまったことを理解した。
地獄だ。
「……私、今日はだいじょうぶかなぁ~。」
「だめ!命令!拒否権なし!」
即答。しかしまわりこまれてしまった!
若林さん?あ、今私から視線逸らしたね?大沼さんも。
チキショウ。
「ち……近場にしましょう……わたし、なんでもおいしいです。」
それまで唯一無言でバリバリと煎餅をかじっていた55歳児が咀嚼をやめた。
フレクサトーンのティキーンって音が一葉の脳みそに響く。
ガンダムの見過ぎだ。
若林と二人、あらん限りの瞬発力で55歳児、浮雲の発言を阻止せねばと行動する。
多分、児島さんの尊厳にかかわる。
日々の筋トレで太く鍛えられた一葉の筋繊維に脳からの緊急信号が伝わり、爆発的な瞬発力を生む。
若林が瞬時にチョコケーキを嚥下し、ふくよかな体には似つかわしくない速度で駆ける。
「児島は石原さんを好きなのか?」
間に合わなかった。
すべてが遅かった。
言霊が放たれた。
児島の顔が、高揚した幸せ一杯な顔から、
少しづつ、
現実を、周囲を、
理解、
し始める。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
室長デスクから瞬間的に浮雲の前に跳躍。
美しい、回し蹴り。
頸の後ろから、刈り取る様に、蹴り飛ばす。
人類ではない、ザ・ナインの浮雲だからこそ耐えられる一撃。
だれも同情はしなかった。
いや石原さんだけ、一人キョドっていた。合掌。




