145 【平安編】859年3月(天安3年1月) 出羽国への旅立ち
出羽国山方郷。
まだ朝廷の威光が十分に届かぬ、山と霧の深い地に、立石寺の建立が進められていた。
慈覚大師――円仁。
その若き高弟、円石は、師より託された「金匣」と「法灯」を携え、立石寺へと向かう旅に出ることとなる。
金匣はただの箱ではない。
経巻とともに、師の祈りと法力が封じられた、霊験あらたかな器であった。
だが、この旅路は単なる奉納の行脚ではなかった。
政敵・中臣丹良の策謀により、「出羽権守」という名目で実質的な追放を受けた高階一家が、都を離れ、同じ道を辿ることとなったのである。
正五位下・少納言、高階経雅。
その妻、藤原登子。
息子、高階成衡。
そして長女、一の姫。
経雅は、敬愛する慈覚大師の志に応えたいと願い、円石に同行を申し出た。
「都を離れる身なれど、せめて御仏の御業にお仕えできれば本望にございます」
円石は深く頭を下げる。
「その御心、ありがたく存じます」
だが、道は容易ではない。
陸路で険しい山道を幾度も越えねばならぬ。
ましてや山方郷は、いまだ朝廷に従わぬ人々も暮らす“化外の地”。
都育ちの一行にとって、未知と危険に満ちた場所であった。
当初、百を超えていた使用人は、出立間際には三十人ほどにまで減っていた。
恐れか、諦めか。
都を離れる決断は、思うよりも重い。
護衛として、高階家は平八郎という兵を雇い、郎党二十名ほどを伴わせた。
武芸に秀でた一団である。
だが、その粗野な物腰は、風雅を愛し、和歌をたしなむ高階家にとって、どこか恐ろしくもあった。
出立の朝。
馬が嘶き、荷が積まれる。
成衡が苛立ちを隠さず言う。
「このような下膳の者どもではなく、私がいるではありませんか!? 父上をお守りするのは私の役目!」
若さゆえの熱情。
経雅は穏やかに息子を諭す。
「成衡、よいか。我らだけではない。この旅に付き従う者すべてを守らねばならぬ。そして円仁様のお弟子である円石様もな。己の感情に溺れ、大局を見誤るな」
成衡は唇を噛み、視線を落とす。
円石が静かに口を開く。
「私ごときのために、このようなご配慮を賜り、痛み入ります。長い道のりにございます。まずは皆さま、御準備はよろしゅうございますか?」
その声音には、若いながらも師譲りの落ち着きがあった。
一方、郎党たちは高階家と従者の一団を値踏みするように見回している。
にやり、と笑う者もいる。
その様子に、平八郎が一歩前に出た。
「お前たち、これからは、この方々が俺たちの御館様だ。粗相のないようにな!」
低く、強い声。
郎党たちは姿勢を正す。
その様子を、物陰から一の姫がじっと見ていた。
恐ろしさと、少しの好奇心。
武骨な兵たちの背中。
未知の山路。
金匣を抱く若き僧。
都を追われた一家。
出羽への道は、静かに、しかし確実に動き始めていた。
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円石が出羽への旅に出る前夜のことであった。
比叡の山は、春とはいえまだ冷えが残り、杉木立の間を渡る風が法灯の炎をわずかに揺らしていた。
円石は、師である慈覚大師・円仁の前に端坐していた。
その前には、精緻な装飾の箱と灯の入った灯籠があった。
ひとつは「金匣」。
神代の金属で造られ、真雅殿とともに法力と経典を納めた、比叡山の秘蔵。
もうひとつは「法灯」。
消えることなき仏法の象徴。
円仁は静かに言った。
「紅く輝く眼をもつ天津甕星の従者が、都で暗躍しておる。」
その声には、老いではなく、確信があった。
「彼のものは、おそらく人ではない。魑魅魍魎を超えた、恐るべき“まつろわぬ神”。混沌を喜ぶ、貌を持たざる物よ。」
円石の背筋に冷たいものが走る。
天津甕星――天を荒らす凶星の名。
「彼のものの暗躍により、いずれこの世は厄災に見舞われるであろう。十年先か、百年か、あるいは千年か……それは儂にも見通せぬ。」
円仁は金匣に手を置いた。
「この箱は、ただの容れ物ではない。比叡山の真雅殿とともに法力と経典を納めた、神代の金属で作られた大切な箱。邪悪なる者どもの眼から隠し、守り抜かねばならぬ。」
そして、わずかに目を伏せる。
「これは赤山明神様からの啓示でもある。山方の地にある山岳に、吉野の蔵王権現様を勧請せよと。」
円石は息を呑む。
出羽の山に、蔵王権現を。
「さすれば、厄災のとき――」
円仁の声が低く響く。
「この“金匣”と、もう一つの“匣”。二つの箱が、勇気ある清らかな心を持ち、劫には至らずとも極限の修行を積んだ者の手によって開かれるならば……」
杉木立の奥で、風が低く唸った。
法灯の炎が一瞬、青白く揺らぐ。
円仁の声は、もはや師の言葉というより、どこか遠いものを視ている者の響きを帯びていた。
「時満ち、二つの箱がひとところに並び立つとき――」
一拍。
「勇気を宿し、心清らかにして、劫には至らずとも極限の行を積みし者が、その封を解かん。」
空気が、重くなる。
「そのとき、蔵王権現は九頭竜を従え、光の太刀を振るわれるであろう。」
杉が軋む。
「その刃は、形なき混沌を断ち、名なき災を祓い、揺らぐ世を再び定めん。」
円石は息を止める。
「されど――」
円仁の声が、わずかに沈む。
「箱は力そのものにあらず。心なき者が触れれば、光は闇と化し、守りは災いへと転ずる。」
そして、静かに結ぶ。
「すべては、人の在り様に懸かっておる。」
円石は深く頭を下げる。
「師よ……もう一つの“匣”とは。それはいずこに?」
円仁は、わずかに微笑んだ。
「さすがの儂も、そこまでは見通せぬ。だが……厄災のときは、必ず二つの箱が揃う。そう赤山明神様は仰せであった。」
それ以上は語られなかった。
火の灯りが、金箱の表面を照らす。
その金属は、蒼とも紅ともつかぬ色で、静かに光を返していた。
円石はその言葉を胸に刻む。
天津甕星の従者、
貌を持たざる混沌。
そして、二つの箱。
法灯を抱え、金匣を託される。
若き僧の肩には、時を越える使命がのしかかっていた。
円石は、比叡の峰から遠く北の空を見つめる。
霞の向こう、まだ見ぬ出羽の山々。
そこに、未来の鍵がある。
いざ、出羽国へ。




